11. 疑惑
「……だいたい以上が、俺が説明できることです」
言い切って俺は傍らの水差しから柑橘水を注いで飲んだ。いつの間にか日暮れを過ぎていた。室内は窓から遠い隅のほうから徐々に薄青い闇に包まれはじめている。
トツァンドに辿り着いてから今日城壁のそばで腕を引かれるまでの俺の話だ。なぜ薄汚い格好をしてひとりでうろついていたのだと尋ねられ、結果的に来し方を説明するはめになった。
黙って聞いていたビューズは小さくため息をつくと立ち上がった。アウグのカンテラを灯そうとしたのだろう、窓のそばまで歩いていくと机上に手を伸ばしてしばし止め、そして振り返った。
「明かりをつけるのはやめておこう」
そう言って世嗣殿下は窓から離れる。脈絡が分からずに俺は首をかしげた。
「あなたはご自身が思っているよりも面倒なことに巻き込まれている」
音を立てずに椅子に座り直したビューズは噛んで含めるようにいった。
「ここにはあなたはいない。余もいない。誰もおらぬのだ」
「どういうことですか」
不穏だ。せっかく安全なところに来られたのに、という思いがよぎって俺はややぎょっとした。この王子様が本当に信頼できるのかどうか、根拠が何ひとつないというのに、俺はすでに安心しはじめていた。差し迫った身体的な危険が見当たらないことは理由として大きかった。でもおそらくそれだけではない。伝統とかしきたりとかから距離を置いて、自分の足で立とうとしている。自身にはまったくそんな甲斐性がないくせに、俺はそういう人に弱い。経験に基づく自覚はあった。
ビューズは答えず唇に指を一本当てた。戸惑って黙った俺の耳に突如近づいてくる足音が聞こえ、続けざまにドアを叩く音があたりに響いた。
「静かに」
音に思わず動いた俺の肩を、第一王子が長い腕を伸ばして押さえた。
そのままの姿勢で黙っていると、階下で窓の鎧戸がばたりと開く音がして話し声がした。会話の声は低くなったり高くなったりしながらしばらく続き、そして止まった。今度は遠ざかっていく足音が石畳に響いた。
周囲が静まったことを十分に確認してからビューズは口を開いた。
「階下は……いや、この建物全体は余の大家が倉庫として使っておる。何があっても階上に借家人がいることを匂わせなどしない。安心なされよ」
「今のは誰ですか」
「サルン領主館の私兵だろう」
「サルン領主館」
俺は魔法史の長から受けたレクチャーを思いおこした。サルンの領主は第二王位継承者が順繰りに務める。つまり——
「弟さんの、ですか?」
どうして世嗣殿下は弟から隠れているのか。わけが分からず問うとビューズは薄闇の中でにやりと笑った。
「先ほど弟は俗物だと言うただろう」
「そうでしたね」
「俗物なのだよ。目先の利益のためにあなたを誘拐するほどには」
「はい?」
大きな声が出かけてやばいと思い、口を手のひらで覆いながら喉に力を入れたのでしゃっくりのような変な返事になってしまった。さすがにちょっと恥ずかしい。俺だっていい年なんだ。
世嗣殿下はというとやはり俺の様子には大して注意を払っていないようだった。深々と椅子に座りなおし、顎に手を当てて腕を組み考えこんでいる。
「何かを企んでいるとは思っていたのだ。しかし余が予想していたよりもまずそうだ」
「どういうことですか」
二度目の問いにビューズはようやく説明を始めてくれた。
「あなたがトツァンドを訪れたのはちょうど一カマーグ前だと聞いている。光の子が出した早熊は翌々日にサルンに到着した」
一カマーグは六日だ。もうそんなに経ったかと思いながら俺は頷いた。
「トアル=サン……我が弟は早熊に対し迅速に返答を渡した。『しばし待たれよ』と」
「しばし待たれよ?」
俺はオウム返しに繰り返した。
「表向きの理由は、あなたと光の子を迎えるための準備をしたいということだ。あなたたちはまず王都へ向かうが、サルンを経由するのであれば歓待しないわけにはいかないと」
「はあ」
ところがどっこい、誘拐されたということか。わけが分からない。
「表向きは、だ。実態は違う」
ビューズが身を乗り出してきた。薄墨色の室内で明るい茶色の目がきらりと光った。
「恐らくトアル=サンはこれから数日の間に何かを密かに行うつもりだ。何かは余も分からぬ。しかし確実なことがひとつある。あなたか、妹か、どちらかがその間にサルンに滞在すると都合が悪いのだろう。ふたりともやもしれぬ」
小さな声が告げた。俺は思わず俯き、同じくらい音量を絞った声で答えた。
「都合が悪い、とは」
「王に告げ口でもされると困ると思ったか」
ビューズは軽々しい様子でそう言うと俺から離れた。
「それが証拠に、光の子からの伝達が領主館で止まっておる。王都への遣いが出る様子がない。定期船は明日出港したら一カマーグ後までサルンを訪わない」
「定期船以外で王都へ行く可能性は?」
「ない。港に入っても追い返されるのがおちよ」
「それで俺を襲ったと。まだちょっと意味が分からないんですが」
「襲ったのはトアル=サンの手のものではないだろうな。諸侯のうちに手引きをするものがあったか」
ビューズは顎に手をやって黙った。考えているときのくせらしい。
「揃いの革鎧を身につけた騎乗集団だと言ったな」
「はい」
革鎧、という言葉を聞いた瞬間、腕に鳥肌が立ったのを自覚した。これはあれだ、ちょっとトラウマになったかもしれない。革鎧が。あの乾いた音と匂いが蘇って少し胃が気持ち悪くなった。
「……シュマルゥディスの現領主が傭兵を雇いにステムプレへ行っているな。そろそろ帰途についているはずだ。ついでにトツァンドに寄って古なじみに会おうとしてもおかしくはあるまい」
意外なことを聞いて俺はあっけにとられた。プーリアはずいぶんナショナリスティックなお国柄だと思っていたけど、そこの領主さまが他国に傭兵を雇いに行っただって?
「何でまたステムプレに」
ステムプレ、と口に出した瞬間に、赤い目と金髪を備えた司書の若者を思い出した。儀式の日、自分は廟に入れないのだと言って笑っていた。俺にはその笑顔が少し寂しそうに見えた。記憶にある、まったく別のシチュエーションの、まったく別の人の笑顔と重なって少しどきっとしたのを覚えている。
「ステムプレは今以前のブガルクと似たような状況にあるのだ」
ブガルクと言えば、権力争奪戦の結果僭主が世襲領主を破って指導者の地位に就いているはずだ。
「氏族社会だと聞きましたが」
「そうだ。地縁、血縁集団同士で互いに争いを繰り返している。そのせいで武力に秀でたものも出ているし、一方で家畜を失って傭兵として生きるしかなくなっているものも多い」
日本の戦国時代と同じだ。一般的には戦国大名が領地の農民を徴兵して戦っていたというイメージが強いけど、実際には金で雇われた傭兵が広範囲で活躍していたことが分かっている。何となく想像がついた俺は頷いた。
「ステムプレの親分より良い賃金を出せば雇われてくれるということですか」
「とシュマルゥディスは主張していた。ブガルクへの警戒を強めるため、昼夜問わず働ける民が必要なのだとな」
「そのシュマルゥディスが、俺を?」
「私兵に揃いで革鎧を与えられる領主は多くない。シュマルゥディスなら可能だ。国境警備のために王家から譲り受けているからな」
そこでビューズは不自然に黙った。今度はその意図が俺にも分かった。ここから先はただの推測になるのだろう。何やら不穏な動きをしているらしいサルン領主トアル=サンと、その一味かもしれないシュマルゥディス。サルンは商都として他国に対し玄関口の役割を果たしているし、一方のシュマルゥディスは国境警備の要と見なされている。たしかに不穏だ。軽々しく断言して良いことでもない。
「たいへん興味深い」
しばらく黙ったあとビューズは晴れやかな声で言った。場違いさに俺は面食らった。よく見ると世嗣殿下はかなり暗くなった室内でも分かるくらいにっこりと笑っている。
「ここで顛末を見届けたい気も山々だ。ぜひともそうしたいところだ」
晴れやかな声のままでビューズは言って立ち上がった。すたすたと俺に近づいて、ぽんと両手を肩の上に置く。押さえる力が意外と強かった。
「しかしあなたは王都へ行かねばならぬ。ひとりでというのも言葉が通じぬのでは心許ない。よって余が同行するほかない」
「王都へ」
「そうだ」
「ビューズが」
「その通りだ」
そう言うと第一王子は俺の肩を解放した。
「あなたを誘拐した勢力は光の子をトツァンドに足止めするはずだ。それが一カマーグになるのか二カマーグか、それともそれ以上か知らぬが、うかうかしている間に深森が手遅れになってはもはやどうしようもない。あなただけでも王都へ行かねばならない」
俺は首をかしげた。
「ビューズは魔王を信じていないと聞いたのですが」
「信じてはおらぬ」
再びあっさりと世嗣殿下は認めた。
「妹と同じ口調で古代神聖語を話す賓が訪うなどといった夢物語と同様、信じてはいなかった」
どうもこんにちは夢物語です。心の中でお返事をしてから俺はもう少しまともなことを口に出した。
「では俺のことも賓とは認めない?」
「いや」
ビューズは珍しく歯切れの悪い口調で言った。
「余の信じるところとは別に、目の前にある現象は認めねばならぬ」
「なるほど、合理的だ」
「昔話にも真実が隠されていることがあるな」
「自然災害の言い伝えとかですね。あると思います」
「そうすると、荒唐無稽と思われる魔王の説話にも何か我々が汲み取るべき教えがあるやもしれぬ」
「なるほど」
「つまりあなたの訪いはやはり急を要するやもしれぬのだ。王都へは可及的速やかに移動せねばならぬ。明日の定期船に間に合うように手配しよう」
ビューズの声色は真剣だった。その剣幕に押されて、俺はいつの間にか頷いていた。




