10. 港町とつむじ風(2)
石造りの立派な倉庫、端材でとりあえず四方を囲ったという体の作業小屋、木造の商人長屋に積み上げられた輸出用木箱の山。そんなものの間をかいくぐりときには飛び越え、俺を引っ掴んだ人物は港町中を走り回った。一緒に走ろうとしてすぐ、俺は自分の関節がまったく動いていないことに気づいた。文字通り引っ張り回されているのだった。常人の早さではない。普通に考えたら俺だってついていけないスピードで、しかも急ブレーキで壁にぶつかるのをぎりぎり回避したり、逆に唐突に加速して積み荷の上から屋根に飛び上がったりした。とてもじゃないけど信じられない。こんな走り方が人間にできるわけがない。
数分なのか数十分なのか、走り回ったのちに放り込まれたのは、小さな中庭を囲んでみっしりと建てられた倉庫群の一室だった。北に中庭を望む二階は日当たりが良い。きらきらと細かい埃が空中を舞っているのが見えた。扉が閉まるのを確認した瞬間、今まで気づかなかった鼓動と汗と体温が一気に襲ってきて俺は咳き込みながら床にくずおれた。
「異世界からの客人は体が弱いというのは真だったようだな」
俺を連れ回した人物がやや呆れたように言った。俺がさらにげほげほとむせていると、ひやりと冷たいものが頬に当たった。ガラスのデキャンタだった。
「柑橘を入れた水だ。飲んでおけ。追っ手は十分に撒いたからゆっくりで良い」
ぶっきらぼうな声色はスフや魔法史の長に似ている。イントネーションが日本語と違うのだ。プーリア語のような、歌うような。
デキャンタを無言で受け取ると、俺はそろそろと体を起こして直接口をつけた。冷たい。旨い。喉を水が潤しつつ冷やしていくのが体感として分かった。
「あ……」
りがとう、と言いかけて、警戒心が頭をもたげた。こいつは誰だ?
「あなたは」
俺が言い直すと、目の前でマントがばさりと音を立てて宙を舞った。脱ぎ捨てたのだ。
背の高い男性だった。年は俺より上に見える。髪の毛はトァンの瞳よりもやや濃い明るい空色で、その下にある顔と瞳は茶色かった。すっすと近づいてくる身のこなしからするとどうやら良い生まれの人物だと推察できた。
問題は肌の色だ。トァンよりもずっと濃い色だった。ただ単に茶色いならそれはそれなのだが、目の前の男の肌色には大きなムラがあった。ムラだ。なんだか、水彩絵の具を適当に塗りたくったような――
「余の肌色を不思議に思っておるな」
無造作な声がした。無造作でもイケボってどういうことだ。黙って頷くと男は頷き返してくる。
「これは肌を果汁で塗っておるのだ。秋に成る木の実の、食うことができぬ外側の果肉を使う。一度塗ると四カマーグは落ちぬ。夏に動き回るには便利なものよ。先ほどの憲兵も塗っておったろう」
「そこまで見ている余裕はありませんでした」
正直に返事をしてから何を普通に会話しているんだと焦った。まだ目の前のこいつが何者なのかさっぱり分からないのに。……待って。今こいつ「余」って言った?
「正直なのは良いことだ」
つまらなそうにそう言うと、男は手近な木の椅子を引っ張ってきて雑に腰を下ろした。そんな身ぶりまでもが非常に優雅だ。
「まだ余の正体が分からぬようだな」
そう言って細める目が、誰かに似ている。
俺は頭をフル回転させた。明らかに生まれ育ちの良い、青い髪、「余」、常人ではあり得ないほどの早さで走り回る……。
合点がいった俺は頭を上げた。
「分かった気がします」
「当ててみよ」
「プーリア王国第一王子。プーリア・ビューズ殿下ですね」
トツァンドで教えてもらった。現王家の次代、第一王子で世嗣のプーリア・ビューズ。第二王子でサルン領主のトアル=サン。第一王女のトァン。三人のうち青髪の男性で、魔力がハワウなのはビューズだ。
「我が妹が世話になっているようだ、賓殿」
答え合わせの代わりにそう返事をよこすと、男は俺を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺め回した。
「貴人ではあらぬな。しかしそれなりに学は積んでおるようだ。武人と言うには線が細い。富裕な商人の子か」
床にぺったりと倒れ伏した状態からようよう起き上がったばかりの俺は少し気まずくなって居住まいを正した。
「俺のことですか」
「ほかに誰かおるか」
相変わらずつまらなそうに返事をしてくる。
「しがない一労働者ですよ。俺の仕事は役人です」
「ほほう」
そう言うとまたこちらの顔をじっと見てくる。そして言い放った。
「妙な顔だな」
「みょ……?」
あっけにとられてリアクションが遅れた。妙な顔って言った? 俺の顔見て? 直接的すぎない?
トァンの兄だというのが頷けるほど、確かにこの王子様は見目が良かった。ほかのプーリア人と同じようにずいぶん額が秀でていてそこからまっすぐに鼻筋が降りてきているというちょっと変わった顔立ちではあるんだけど、パーツはバランス良く整っているし立ち居振る舞いも上品だ。だからといって人の顔見て妙って失礼すぎない?
ふざけんなと言おうと思って口を開いた瞬間に、今自分が考えたことが時間差で跳ね返ってきた。俺、ちょっと変わった顔って思ったよな。それ、口に出したら今目の前の王族様が言ったのと大差なくないか? 言わないからまし? 心の中でずっと思って相手を馬鹿にしたり、裏でひそひそやりとりしたりするくらいなら、面と向かって正直に言ったほうがよっぽどましだって、俺は昔思ったことがあるはずだ――
葛藤しながら結局何も口に出せない俺を見てどう思ったのか、ビューズはふむ、と呟いてから言った。
「別に悪い意味ではない」
そうしてついと立ち上がって中庭に面した窓のほうへと歩いていく。
「ずっと妹の馬鹿な狂言だと思っていたのだが」
逆光になった影が窓際でそう言った。
「狂言?」
気を取り直して俺は聞き直した。
「妹はプーリア語を話すより先に古代神聖語を話したのだ。その話は聞いておるか」
「ええ、だいたいは」
「習い覚えもしない言葉を話すなど薄気味の悪いことがあってたまるかというのがそのとき余の思ったことだ」
「まあ確かにちょっと考えづらいですよね。でもその割には日本語、じゃない古代神聖語がお上手じゃないですか」
「わが妹御が栄えある光の子だというのだ。父王の治世か、わが世かは知らぬが妹が存命のうちに賓が訪われるという。王位継承者が古代神聖語のひとつも話せぬようでは申し訳が立たぬ」
意外と真面目な返答だった。魔法史の長の話では世嗣の第一王子はもうちょっと——
「意外だと顔に書いてあるぞ」
振り返ったビューズは眉を上げて言った。
「聞いていたお話の印象とちょっと違っていたものですから」
「次は余が当ててみせよう」
第一王子はそう言うとひょいと窓枠に腰掛けた。
「魔法応用技学のことにしか関心を持たぬ変人。伝統など歯牙にもかけず口を開けば貿易と兵力の話しかせぬ。王位を継いでプーリアに封じられるくらいなら他国と手を結ぶことも厭わぬ。そんなところか」
「……まあだいたいは」
多少は取り繕ったほうが良いのかなと思って迷ったが、結局俺は正直に答えた。トァンであれば曲がりなりにもきょうだいであるわけでもう少し違った話が聞けたのかもしれないが、好々爺めいた魔法史の長はああ見えてなかなか舌鋒鋭かった。考え方もけっこう保守的で、変化を嫌うようだ。普段からどのくらいの交流があるのかは知らないが、この世嗣殿下とはだいぶ相性が悪いようだった。
「あなたはどう思った」
「はい?」
「余について妹たちから聞いて、どう思ったかと尋ねておる」
「そういう考えを持つこと自体は、別に珍しくないと思いました」
「珍しくない?」
「ええ。俺の世界は学問の発展に熱心な研究者が何百年も業績を積み重ねてきて……中にはプーリアみたいに禁忌となっているものも破って上手くいったり罰せられたり、そういう積み重ねの結果様々な技術が発展しています。今は機械が自動で動き、食事は冷たいものも熱いものも一日いつでも好きなときに店で買え、病気になったらほとんどの場合は適切な薬がある、だいたいの職業は誰でも目指すことができて、飢えそうになったら国から金が出る……まあ建前は、ですが、一応そういう社会で暮らせることになっています」
「理想郷のようだな」
「問題はいくらでもありますよ」
「たとえば?」
その問いについて俺は少しの間考えた。
「恐らく人間が増えすぎたせいなんですが、気温が上がって世界中の氷が溶け、海の水が増えて小さな島がどんどん沈んでいます。気象もだいぶおかしくなって、夏にものすごい嵐が発生したり冬に大吹雪が起きたり」
ビューズはふむ、と小さく答えた。
「豊かになって幸せになるかと思いきや、もっともっとと人間は貪欲になって争いを止めない。武器で人を殴るだけじゃなくて、札束で人を殴る世界ですよ。上に立つものは結局金を持っている人のほうしか見ないし、俺みたいな小役人はその間でてんやわんやするだけだ」
だから政治は嫌いなんだ。そう思いながら、ちょっと実感を込めすぎちゃったなと反省した。あまり考えないようにしていたのに。俺のその様子を見て、青い髪の王子は初めて興味深そうな顔をして両眉を上げた。
「あなたが言うのは本当のことなのだろうな」
しばらく俺の顔をじっと見つめたのちにビューズは言った。
「人間というのは悲しいほどに欲深な生き物だ。留まるところを知らぬと言えば良いのだろうか」
「しかし殿下はずいぶん魔法の発展にご熱心だと聞きましたけど」
「ビューズで良い」
俺の反論に対して面倒くさそうに答えると第一王子は言葉を続けた。
「わがプーリアが国外からどのように見られているか、知っておるか」
「ええと、羊を飼う国民。暮らしぶりは素朴だけど織物の腕が良いので各国が交易したがる。魔法のことと熊の知性のことは秘匿しているので外国の人は知らないはず。烏についてももちろん」
「さよう。大方の商人どもは利権を握らせておるからぺらぺらとプーリアについて触れ回ったりはしない。もっとも我が国の主権が保たれていることが前提だが。ブガルクはじめ各国首脳はプーリアをただの小国としか見なしておらぬだろう」
ちょっと引っかかる言い方だった。
「そうじゃない人もいるということですか」
「あなたは我が国を訪れてどう思った」
「ええと、街がきれいすぎるなと。生活を見ていると俺の世界では中世……俺にとっての現代からはだいぶ昔で、病気が流行しやすく、街にも汚物が溢れていたような時代に似ています。その割に街も人々の見た目もきれいさっぱりしている。パニイとアウグのお陰で簡単に体が洗えて掃除も行き届くからだと今は理解していますが……最初は変だなと思いました」
「あなたは歴史家か」
納得したようにビューズは言った。
「厳密には違いますけど似たようなものです」
たしかに史学科を卒業した俺は神妙に答えた。
「あなたと同じような疑問を持つ者もおる。他国と比べるとプーリアは病での人死にが少ない。とくに子どもが死なぬ。なぜかとな。またやっかいなのが金持ち連中だ」
「やっかい?」
「プーリアのような織物を自国で作らせようとするのだな。しかしできぬ。魔法なしにプーリアに比する織り具を作り、熊たちの裏での働きなしに多人数の職人を機の前に座らせておくのは至難の業だ」
「生産の秘訣を知りたいと」
産業スパイのような者たちが送り込まれるのだろうか。
「さよう。他の場所ならともかく、ここサルンには異国人がありふれておる。どれが間者でどれがただの商人なのか、容易には見分けがつかぬ」
そう言って王子は何かを考えているようだった。俺はスパイについて考えた。産業スパイじゃない、政治的なスパイだ。そもそもなぜ俺が今ひとりでここにいるかというと、トツァンドに乱入してきた武装集団に引っさらわれたからだ。彼らと目の前の男との間に関係がないと、言い切れるだけの知識が俺にはない。状況にあまり流されてはいけないと自戒した。
「わが妹御の立場は分かりやすいな。プーリアはこのままで良いというのだ」
突然ビューズは再び話しはじめた。
「素朴な民、熊と烏とが手を取り合う、母なるイーの祝福に留まる幸せな国だ。その内実がいかにあるかについて今は言及せぬが」
そう言うとふっと鼻で笑った。
「弟さんもそうなんじゃないんですか」
「トアル=サンか? あれは驚くほどの俗物よ。見事に覆い隠してはおるがな」
「俗物?」
「弟は弟は余を王に封じることには異論がなかろう。しかし一方で余が生み出している技術が生じる利益はほしいのだ。できるだけ多く」
「なるほど」
適当に相づちを打ってから少し躊躇した。好奇心が湧いてきてしまったのだ。
「もしよろしければ知りたいんですけど」
「なんだ」
世嗣殿下は相変わらずだるそうに答える。
「でん……ビューズは何を研究しているんですか」
殿下、と言いかけたらおきれいな顔で睨まれたので俺は口ごもりながら世嗣の名を呼んだ。
「見るか」
俺の質問に眉を上げた第一王子は窓枠から離れて立ち上がった。
「ここの屋上であれば問題なかろう。ついてくると良い……が」
不自然なところで言葉を切って眺め回された。
「何でしょう」
「ずっとその格好のままでいるつもりか」
そう言われると反論のしようがない。広場で小突き回されたあと馬の上で吐いて、その後丸一日以上同じ服を着つづけている。汚れているし、嗅覚が鈍っているけど端から見ればだいぶ臭いに違いない。
「風呂を使ってこい。この扉の向こうに洗い場がある」
方向を指さされて、俺はおとなしく指示に従った。




