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深い森へと続く道(WEB試し読み & 草稿)  作者: 赤星友香
草稿(2021年6月連載終了)
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8. スフ(2)

 習い性で熊にしがみついていたスフだが、少し遅れてどうやらどこかに辿り着いたらしいことに気がついた。恐る恐る腕を外して熊の背から降りようとして、左脚が言うことを聞かず無様に尻餅をついた。グーォウが目を丸くして匂いを嗅いできた。大丈夫か、と聞かれている。気づけば腰から下の右脚がぐっしょりと濡れている。隠しに入れた魔法石が互いにぶつかって魔力を噴出したのだろう。濡れたところは生暖かかったが、これからどんどん冷えていくことを考えるとスフは憂鬱な気分になった。


 無言で首を振ると、スフはグーォウの肩甲骨が張り出した肩に手をかけてゆっくりと立ち上がった。左脚の痛みはさほどではなく、しかし膝関節がこわばって動きづらかった。これは明日以降に腫れて痛むやつだろうとスフは苦々しく考えた。


 スフたちは今、ぼんやりとした青白い明かりに照らされる空間に立っていた。空気はほんのりと暖かく、乾燥している。天井の高い穴蔵のようだった。足元は掃き清められたようになっていて、ざらざらとした岩がそのまま露出している。どうやら天然の洞窟であるようで、人工的な造作は——もしくは熊工的な、烏工的なものも——見当たらなかった。ただひとつを除いては。


 それは空間の光源でもあった。噴水が湧き上がったかようにぼこりぼこりといびつな形で固まった岩の柱が洞窟の中央にぽつんと立っていた。その頂点の、ちょうど成人の胸から首辺りの高さに当たる場所に球状の石が据えられている。まるで巨大な魔法石のようだ、とスフは思った。魔力が込められた魔法石と同じように、その内部は光がうごめいていた。普通の魔法石と違うのは、その光が赤黄白青と様々に入り混じりあい、そしてその中でも強い青みを帯びて周囲に放たれているというところだった。


 ばさばさと翼の音がして烏が石の台座に止まった。

“これは親石だ”

スフの抱いた疑問に答えるかのようにガーァゥリユーはしゃがれた声で言った。

“親石?”

烏の言っていることが分からない。何の話だろうと考えて眉を寄せたスフに向かい、ガーァゥリユーは片足を挙げてかぎ爪をちょいちょいと動かした。手招きをしている。


 烏に促されるまま足を踏み出そうとして、スフは顔をしかめた。この短い間に左脚の痛みが強くなっている。と、脇からグーォウが現れて身をすり寄せてきた。乗れと言っている。ありがたくまたがると熊はすたすたと石の前に進んだ。


 スフは台座に据えられた丸い石を覗き込んだ。青白い光が目を突いた。見ると、それは大きな魔法石だった。ゼウムパニイアウグハワウルウシイ、そこにはすべての輝きがあるのだった。流れに遊ぶ小魚のように楽しげにひらめく。スフは思わず微笑んだ。よくよく石を覗くと中央には絶え間ない渦巻きがあって光を吸収しては吐き出し、吸収しては吐き出しを繰り返している。


 と、ふと黒い影がよぎった。それは一瞬だけ脳裡にひらめいた思いつきのようでいて、心に後味の悪い痕跡を残していった。見たのか聞いたのか感じたのか、スフはそれを正確に言い表すことができなかった。しかし影があった《﹅﹅﹅》ことは間違いなかった。スフは目を瞬いてもう一度石を覗き込んだが、影がよぎる前のような心楽しい気持ちは得られなかった。


“見たな”

烏の声は疑問というよりは確認だった。スフは目を上げて頷いた。

“今のはなんだ”

“魔王だ”

ガーァゥリユーはあっさりと答えた。あまりにも何でもないように言うのでスフは思わず自分の耳を疑いたくなったくらいだった。

“魔王?!”

荒げた声は不気味な様子で洞窟内にしばしこだました。烏は首をすくめて翼の居住まいを正した。

“魔王だ。今さら驚くことでもないだろう”


 それはその通りなのだった。光の子が生まれ、賓が訪った。彼らがこの世に現れる目的はひとつしかない。しかしスフの胸中は複雑だった。

“本当に存在するのか”

心の声は呟きとなって唇からこぼれていた。城でなら、間違ってもこんなことは言えない。城でどころか、ごく幼い時分にサルンへと移住して以来、プーリアという国を根幹で支える魔法とその仕組み——それは端的に言うと政治と行政と経済すべてを指す——に疑問を差し挟むことは一度としてなかった。許されなかったというべきかもしれない。誰かが明示的に禁じたのではなく、そのことについて口を開くこと、否、それ以前に考えることまでもが忌避されるような、そういった雰囲気にいつの間にか呑まれていたのだった。


“残念ながら”

そう答えるガーァゥリユーの声は本当に残念そうだった。


 もう一度あの暗い影がよぎるのではないかと、スフは視界の端で恐る恐る石を眺めた。その様子を見ながら、ガーァゥリユーは声をかけた。

“親石に手を触れてみよ”

“これは魔法石なのか”

スフは尋ねた。もしそうであるなら、自分が触れたところで何も意味はない。

“そうだ。そして、お前が触れても意味がないということはない”

烏は胸中を見透かしたようにしかつめらしく言った。


 スフは疑心暗鬼のまま、右手を熊の背から離して丸石に触れた。石は人間の頭よりは小さく、両手ですっぽりと覆うには大きすぎるくらいで、手のひらになじんで暖かかった。


 親石はしばらくの間、しんと静まりかえっていた。スフは困ったような顔で手を離そうとしたが、ガーァゥリユーが静かに首を振った。困惑して下を見ると、グーォウも首を上げてじっとこちらを見ていた。


“竜巻”

ガーァゥリユーの嬉しそうな声に意識を引き戻され、スフは自分の手の下にあるものを見た。驚くべきことに、銀色の竜巻が石の中に発生していた。最初は小指の先ほどの小さな小さな渦だったが、次第に片手を覆うほどの大きさになってスフの手元にぴたりと寄り添った。


“ハワウ”

信じられない気持ちでスフは呟いた。恐る恐る右手を少し動かすと、竜巻は従順な飼い犬のようにその動きに従った。


“魔法石を持っているだろう”

ガーァゥリユーが石の向こうから声をかけてきた。スフは頷くと、名残惜しい気持ちで右手を石から外し、隠しから魔力が失われた魔法石をふたつ出した。


 そう、魔法石からは魔力が失われていた。しかしスフの右手の中で、ふたつはあっという間に銀色の輝きを内に持ちはじめた。半信半疑の気持ちでスフは右手を掲げて親石の照らす光の中に置いた。魔法石を輝かせているのは間違いなく魔力による光だった。


“風を吹かせてみると良い”

ガーァゥリユーが言った。スフは小さく頷くと、人差し指と中指の間に魔法石を挟み持って指を動かした。このようにすると石の両面から力が注がれるため、中で反発が起こって魔力がにじみ出してくるのだ。そのことをスフは知っていた。日常的に、当たり前のように目にもしていた。しかし自分にはないものだったのだ。ついさっきまでは。


 指の間から弱い風が吹いて、石を挟んだ手のひらをくすぐった。顔に近づけてみると風はふわふわと髪の毛を揺らした。間違いなかった。間違いなく、魔法石からは風の魔法ハワウが出ていた。


“いったいどういうことなんだ”

困惑が隠しきれないままスフはガーァゥリユーに尋ねた。烏は首をかしげると答えた。

“魔法は誰にでも使えるのだ”

“しかし”

今まで何度も魔法石を持ってきた。魔力を込めるためではない。魔力がないからこそ、素のままの魔法石や、逆に魔力を込め終わった魔法石に干渉せず運搬できる者として重宝されてきたのだ。眠っていた賓から採取されたルウシイを持ったときですら、スフは石に何の影響も与えられなかった。


“親石はそのものの魔力を呼び覚ます力がある”

烏は淡々と説明を続けた。

“烏も熊も、生まれて間もないごく幼い内にこの場所を訪れるのだ。自分の魔力を知るために”

“しかし”

スフは言い募った。

“それではプーリアの民はどうなのだ”

プーリアの民は特別な選ばれし者なのだと教えられてきた。誰でも魔法を使えるのだとすれば、彼らの寄って立つところはすべて失われてしまうのではないだろうか。


“プーリアの民がなぜ親石に触れずに魔力を持てるのか”

ガーァゥリユーはスフの疑問を言い換えると、ひと声かあと鳴いた。

“それは分からないのだ。そういう意味で、確かにプーリアの民は特別なのかもしれない。しかしひとたび親石に触れれば”

烏は体の横をぴたりとスフに向けて片目でその顔を見据えた。

“誰であっても魔力を石に込めることができるようになる”


 スフはしばしの間、ガーァゥリユーの話を反芻していた。そしてあることに気づいた。

“プーリアはこの……親石の存在を知らないのか”

“知らない”

烏は明瞭に断言した。

“親石の存在を知る人間はいない。お前以外は”

“トァン殿下もご存じないのか”

“そうだ”

“ではこの場所はいったい何なんだ”

突然心細くなって弱まったスフの口調に対し、ガーァゥリユーは高らかに宣言した。

“ここは母なるイーのトツァンド城だ。トツァンドとは、もともと熊のすみかだったのだ”


 烏の語る話に、スフは思わず目を丸くして周囲を見回した。どこからどう見ても洞窟だった。プーリアの歴史——スフの意見ではそれはあくまでも神話にしか思えなかったが——によれば、ザインに現れた母なるイーはまず最初にトツァンド城を建てたのだという。角のある獣を追ってトツァンドを訪れたプーリアの祖たちは、そこで母なるイーに出会う。そして熊と烏と暮らすこと、角のある獣を飼い慣らすこと、古代神聖語を習い覚え——魔法を使う能力を特別に授けられた。これがプーリアの、スフの言葉で言えば建国神話の顛末である。


 ガーァゥリユーの今の発言は大枠ではプーリアの神話に沿うものでありつつ、肝心なところが異なっている。母なるイーが住まったのは城ではなく、熊の穴蔵だというのだ。

“母なるイーはトツァンド城を建ててはいないのか”

“いない。母なるイーはこの場所に熊と烏の祖先とともに住まったのだ”

烏は真面目な声色で答えた。


 そもそも母なるイーは神話上の存在ではないのかと重ねて問いかけようとして、スフは思いとどまった。烏や熊たちには不思議な能力がある。熊は人間に教えられずとも親やそれより先の代が行ってきた業務に粛々と取り組むし、烏は先祖返りの子どもがあると当然のように人間のところに連れてくる。まるで種族としての記憶があるかのようだった。スフは動物学には明るくなかったが、もしそのような能力——つまり個としてではなく集団としての記憶のようなものを彼らが持ちうるのであれば、遙か遠い昔の祖先について語ることもさほど難しくないのではないかと思えたのだ。


 続いて新たな疑問が湧いてきた。

“プーリアの誰もこの場所を知らないのに、どうして私に教えた?”

“いくつかの理由がある”

ガーァゥリユーは言った。

“ひとつは賓様のことだ”

スフは突然夕刻に聞いた話を思い出した。賓は行方不明なのだ。

“賓様はどうなさったのだ”

“襲われ、さらわれた。朋友のグゥルイが下手人の後を追っている”

グゥルイという烏の名をスフは知らなかった。そもそも当代で先祖返りの烏はガーァゥリユーしかおらず、スフは城の伝書烏を管理する立場にもない。そのあたりにうろうろしている烏たちの見分けなどもとよりつかなかった。

“下手人というのは”

尋ねながら背筋が冷えた。自らステムプレへの断罪を確認しているようなものなのだ。しかし烏の答えは予想していたものと少し違った。


“シュマルゥディスだ”

スフは目を見開いた。シュマルゥディスといえば深森に接する国境北部地帯を統治する有力諸侯だ。ブガルクの脅威が高まる中その労が認められ、ご一新時には前の御代で使われていた武具を下賜されたほど王家からの信頼は厚い。


 そこまで考えて、スフは合点がいった。

“王族付の紋章を身にまとった騎兵とは”

“シュマルゥディスの私兵だ”

“下賜された武具から紋章は取り払われるのではなかったのか”

“結論としては取り払われなかったということだ”

しごく真面目な口調で烏は言った。


“どうしてそのようなことを?”

“理由は色々ある。簡単に言えば都合が悪かったのだ”

ガーァゥリユーの答えはシュマルゥディスが王家の紋章をまとうことについてなのか、今日の狼藉についてなのか、それとも両方なのか、スフにはよく分からなかった。

“都合とは”

“トアル=サン殿下はブガルクとの交流を望んでおられる。商人たちのではなく、領主ご自身としてのだ”

“どういうことだ。それはプーリアの国是に反するのでは”

“そうだ。だから秘密裏に事を運ぼうとしていた。そこにトツァンドが賓到来を告げてしまったのだ。放っておけば賓と光の子がブガルクと鉢合わせる。サルンの街中で”

“それはさすがにまずいのだろうな”

スフは答えながら考えた。サルンの港町を自治する一部の商人を除き、国外のものに魔法の存在は秘められている。スフたちのような下層民は暮らしに溶け込んでしまっているので魔法を目にしているが、あまり問題にされていない。そもそも自分たちは魔法を使えないので国外に持ち出すこともできなければ、有力者たちに魔法の存在を証明するにも身分が低すぎて相手にされないからだ。


 しかしブガルクの有力者、もしくは僭主ザー・ラム自身が黒髪の賓に出会えば話は別だろう。この世界に存在し得ない黒髪、しかも見たこともない顔立ちをしている賓を見てしまえば、何かが隠されていることは分かる。それが魔法だと一足飛びに結論づけることはできるだろうが、ただの小国と侮っているプーリアに何かまだ知らない秘密があるのは沿岸地域の覇者として気分が悪かろうとスフは思った。


“つまり賓様をサルンに入れないために……”

スフは考え考え口にした。ガーァゥリユーは同意の鳴き声を立てると後を継いだ。

“もしくは秘密裏にサルン入りさせて、都合が良くなるまで拘束しておくために、だ”

“それでは賓様はご無事なのか”

“大丈夫だ。お怪我はなさっているようだが、グゥルイが途中グューウォァウを見つけて合流し、時期を見計らって奪還するはずだ”

ガーァゥリユーはサルンからの帰路にあるはずの早熊の名前を出した。


 頷きながら、スフはあることに気づいた。

“シュマルゥディスはトアル=サン殿下の一味なのか”

“我々はそう考えている”

烏は重々しく答えた。


“では、私にどうしろと”

スフの疑問はもっともだった。烏と熊で対処が可能なら、なぜ自分が呼ばれたのか見当もつかなかった。

“次善の策は常に立てておく必要がある”

烏は澄まして言った。

“我々は深森に行く。可能なかぎりステムプレ国境側を通り、シュマルゥディス領を避けて大回りをする。時間を要する、すぐに出発するぞ”

“深森に?”

スフは再度面食らって大きな声を出した。声はまたこだまして消えていった。


“賓様と光の子は魔王を斃すため深森へ旅立つ”

ガーァゥリユーはできの悪い生徒に対するようにゆっくりと言った。スフは頷いた。もし本当に魔王というものが存在するのだとしたら、それはそうなのだろう。

“では、魔王亡き後のおふたりはどうなるのか”

“賓様はご自身の世界にお戻りになると聞いている”

スフは尋ねた。烏は台座の上でちょんちょんと少し跳ねるとかあ、と鳴いた。

“そのように言われている。では、光の子は?”

“光の子は代々トツァンドの出だ。トツァンドに帰られるのではないのか”

“歴史書には、どう書かれていた”

烏はふたたび片方の目をひたりとスフに据えて尋ねた。


 スフは言葉に詰まった。そもそも魔王というものの存在をほとんど信じていなかったため、あまり記憶に残っていなかった。

“トツァンドの歴史の中に光の子はあったか。トツァンドでなくても良い、サルンの、王都の、このプーリアの歩んできた道の中に、光の子のその痕跡はあったか”

烏の少ししゃがれた声は洞窟の中で不気味に響いてからしんと落ちた。


 スフは烏の言わんとするところを噛みしめた。口を開いては閉じ、もう一度開いて薄く息を吸った。吐き出すときに背中が震えた。

“トァン殿下は……賓様も、どうなるのだ”

ささやき声の問いに対して烏はぴたりと黒い目を据えて答えた。

“贄なのだ”


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