8. スフ(1)
城長が理不尽な要求に頭を抱えていたころ、もうひとり不安な夜を過ごしているものがいた。トツァンド城別棟の半地下に住む赤目の司書だ。
星の見えない夜だった。鉄格子の嵌まった小さな窓からひんやりとした空気が流れ込んでいた。窓は外から見ると地面すれすれに開けられており、そこから覗き込む半地下の部屋はさながら囚人部屋のようだった。乾燥した気候のトツァンドでは半地下で過ごすのは意外にも快適で、夏は涼しく冬は暖かい。しかしアウグのカンテラをひとつ机の上に置いただけの暗い部屋で、スフは冬山で遭難した不幸な登山者のように小さく体を丸めていた。
ステムプレ出身のスフは儀式への参加を許されなかった。それは廟側がはっきりと伝えてきたことだった。伝統的に賓には熊、烏、人がそれぞれひとりずつ付いて側用を務める。烏に関しては先祖返りが生まれないという事情で省かれることもあった。一方熊はトツァンド城の群れ筆頭を務めるものが、そして人はもっとも語学が堪能な司書が、それぞれ選ばれてきた。
スフは側用としての条件を完全に満たしている。プーリア語が第二言語であるのは最初の障壁だったが、苦労はしたものの習得することができた。サルンに移り住んだのが幼いころだったのが幸いした。古代神聖語は文字こそ難解だったが文法としては両親の使う母語に近かった。プーリア語が分かれば周辺諸国の言語には共通点が多く、むしろ借用の多いプーリア語は大湖沿岸文化の中の鬼っ子であるように思われた。
廟側が気に入らなかったのはスフの相対的なものの見方だろうか。いや、そうではなく自分そのもの《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》だろうとスフは考えた。有色髪ならいざ知らず、褐色肌の人間が司補試験に合格するなど前代未聞のできごとだった。あろうことか世嗣が青髪、しかも系統の絶えたトツァンドには女性王族が城主として封じられるような現代にあってもスフはなお奇異の目で見られた。城や学院からも距離を置く、国王直轄の廟であればそれはなおさらだろう。
様々に沸き起こる異論を、スフは——そしてスフを見いだした人々は都度実力でねじ伏せてきた。スフはそのことを自覚していた。港町で育った子どもは、いくつかの文化が自分の中で混沌となってしまう。根幹となるよりどころを失うことも珍しくない。どの言語も話せるが、どの言語でも世間話以上のことが言えなくなる。学問などできないし、本も読めない、そういうものは港町育ちには珍しくなかった。その中にあって語学に多大な才能を示したのは、ひとえに自分が持って生まれた能力によるのだろうとスフは考えていた。
当然ながら努力はした。家族のうち誰ひとりとして魔法石を扱えない環境にあって、夜勉強をするには油のカンテラが必要だった。貧しい家庭には私塾へやる学費が精一杯で、それ以上余分なものを捻出する余裕はない。夜は寝るものだ。だからスフは子どもの頃から働いた。自分の将来を切り開くために。爪を少し長く伸ばしておいて、眠くて勉強がはかどらない夜はぎゅっと指を握り込んで自分の手のひらを傷つけた。痛みがあれば少しは目が覚めた。そうやって文字通り血の滲むような努力を重ねて、今この生活を手に入れたのだ。
スフはすごいねと異世界からの客人に言われたとき、しかしスフは少なからず動揺した。もちろん似たような褒められ方は幼いころからしていた。プーリア語が話せるとは、から始まり、古代神聖語の読み書きに驚愕され、渋々ながら認められた司補試験で上位の成績を叩き出したときは同期の司補にすら褒められた。できるはずがないと思っていたことを達成した生き物だから。先祖返りしたまだらの烏のようなものだ。しかし賓の言葉には今まで聞いたそれとは違った意味が込められているのをスフは感じ取った。逆境というものを知っている——自分が経験したのか、間近で見てきたのかは知らないが、その理不尽さに抗うことのいかに困難で疲弊するものであるかを知っている——そしてさらに言うならば、それに飲み込まれる経験を知るものの言う、労りと共感と、そして不思議なことに一縷の妬みを伴った言葉だった。
そう、飲み込まれる——スフは常にその恐怖を肌で感じていた。すべてが例外である自分は、何かの均衡が崩れれば容易に逆境に飲み込まれうる存在だ。たとえばより優秀なものが国内から出てきたら、世嗣が有色髪の第一王子ではなく淡い金髪の第二王子になることがあったら、トツァンド城主が変わったら、魔法史の長が引退したら、ステムプレの諸氏族とプーリアとの関係が変化したら。
儀式の時間、参加を拒否されたスフは賓のための資料を取りまとめつつ一日の仕事を終わらせていた。儀式が終わり、サルンへ送っていた早熊が戻ってくれば、もう一日も二日もなく光の子と賓は旅立たなければならない。そのときにまでに賓が読んでおくと役に立つであろう記録を、スフは蔵書の中から集めていた。古代神聖語の資料は特別室に集められている。常日頃から特別室に用がある司書はそう多くないので、立ち働くスフの周りはひっそりと静まりかえっていた。そのせいで異変を知るのが遅れた。
気づけば城外への出ることが禁じられており、情報は混乱していた。王族付の騎兵がなぜか馬に乗って乱闘しているとまず聞いた。その時点でありえないことだ。主の安否を思って腹の底が冷えたが、城主に関する情報は入っていないと同僚たちは言っていた。
夕食をとりに食堂へ出向くと、どうやらトツァンド側に負傷者・熊がいるらしいという話になっていた。しかし城主はすでに帰城ずみであるという。それを聞いて心底ほっとした。そしてさきほど、体を洗うために給湯室へ湯涌を取りに行った帰りに恐ろしいことを聞いた。賓が行方不明。乱入者を率いていたのは騎兵で間違いないが、実働部隊はステムプレの傭兵だと。
ひそひそ声で、しかしそこにスフがいることを承知の上で話していたのは女中ふたりで、ひとりはあまつさえちらりとスフのほうを盗み見る仕草までした。褐色肌の若者は顔をこわばらせながらも何とか通常の歩調を持って通りすぎることに成功した。城の一階から半地下に降りるいつもの道がやけによそよそしく感じられた。廊下に下げられたアウグの照明すら敵意をもってこちらを睨みつけているように思われた。湯涌を持って部屋に帰ってきたものの体を洗う気はすっかり失せ、今アウグとパニイの魔法石を片手で掴みながら部屋の隅にうずくまっている。
ご一新後、サルンに寄港することを許されたブガルクの商船が増えた。それは新しい領主、つまりトァンの兄である第二王子トアル=サンの意向によるものだったが、沿岸地域で勢力を増しているブガルクが商業における存在感の露出に国家の威信をかけているからでもあった。これがプーリアのプライドをくすぐった。北狄・西戎・南蛮などと、古代神聖語から借用されてもう永らく使われなくなっていた言葉がふたたび日常会話で口の端に上るようになった。
国境付近のここトツァンドでは、東夷という言葉の使用には慎重だった。古くから下層民の混血が進んでいたし、羊を飼う日常から褐色肌の氏族を排除するのは不可能だったから。しかし母なるイーの伝統と魔法を重んじるプーリアの愛国心——それはとりもなおさず純血主義にも火をつけた——が徐々に強固な思想となって社会を覆ってきているのをスフは見ていた。
そこに来て、今日の狼藉だ。子細はまだ分からない。もしかしたら一生分からないままかもしれないとスフはうろたえながらも皮肉な気持ちで考えた。王族付の紋章を身にまとった騎兵がどうしてステムプレの傭兵を引き連れて市中で暴れる必要があるのか。どう考えてもまともな理由など存在しない。人々は騎兵について考えることを放棄するだろうとスフは思った。その上で義憤や困惑、そして憎悪は分かりやすい方面へ向くだろう。夷狄、そう、東夷であるところの褐色肌の傭兵へと。
突然蹴破るような勢いで部屋のドアが開け放たれた。半ば予測していた襲来だ。もとより錠はかけていない。どやどやと酒臭い息を吐きながら雪崩れ込んできたのは少し年長の同僚数名だった。ほんの一瞬の思案ののち、スフは俯いたまま立ち上がった。もてあそんでいた魔法石は隠しにしまった。荒くれた港湾労働者に囲まれて育った、喧嘩は弱くはない。しかしここで大立ち回りを演じても自分には何も利益がないどころか、抵抗すればするだけ不利になることを知っている。
髪の毛を鷲掴まれ、小突き回されながらスフは自室を出て階段を上った。別棟の通用口が開いている。番をする熊が不在にしているらしいのが不気味だった。賓はグーォウをはじめとした熊たちが幾重にも護衛していたはずだ。いったい何が起こったのか。
鋲のついた靴底に足元をすくわれて、スフは砂利敷きの庭に体を叩きつけられた。咄嗟に受け身を取りながら出方を窺う。相手は相当に酔っ払って気が大きくなっているようだが、場所は選んでいるようだ。仕事があるものは執務室に詰め、非番を言い渡されたものは気が気でないまま食堂などに集まっているだろう。こんなときに自室に引きこもっているなど後ろ暗いところがありますと自ら宣言しているようなものだ、そう盛り上がった末の私刑であることなど容易に想像できた。仮に物音が聞こえる範囲に誰かいたとしても、それはすべてぐるだ。
夏の夜に履くにはずいぶんと固い靴が四方八方から降ってきてスフの体を蹴飛ばした。頭と両手と体の柔らかい部分を守りつつ、酒臭い息で飛ばされる罵倒に耳を澄ませる。鋭利な石ころが唇を切って血の味がした。気づけば人数が増えている。これはまずいことになったなと思ったとき、突如として数名が度を失って悲鳴を上げた。ぐる、という威嚇の声がする。グーォウだ、と思った刹那、スフの首元は生暖かく大きな口に捕らえられた。
スフを咥えた口で威嚇の唸り声を響かせつつグーォウは少し歩いた。酔っぱらいたちが気づいた頃にはずらりと居並ぶ熊が城壁から城のほうへ歩みを揃えて近づいてきている。ざり、ざりという規則正しい足音は兵士の行進のようだった。
“グーォウに乗れ”
スフの耳元でガーァゥリユーの声がした。突然のことに戸惑いつつスフは言われたとおり熊の背中によじ登った。左脚が思うように動かない。熊の頭の、両耳の間に烏が留まっていた。
“走る、しっかり掴まれ”
そうガーァゥリユーが言葉を発するやいなや、スフを乗せたグーォウは砂利を強く蹴って全速力で走り出した。
振り飛ばされないようにしがみついているのがやっとだった。意外と細い熊の首に両腕をしっかりと回し、スフは顔を黒いごわごわした毛並みに埋めた。熊が本気を出すとこんなに速く走るのかと思った。さっき蹴られて傷めた左脚には力が入らず、風になびいてふわふわと揺れている。
熊は一足飛びに城壁を抜け出し、細い街路を右に曲がり左に曲がりしながら街の東側へと向かった。しばらくするとぽん、と道が広くなった。ずいぶん遠回りをしながら囲い場に出たのだ。恐らく街路に出ている騎兵だか傭兵だかを避けて走ったのだろうとスフは思った。
勢いはそのままに、グーォウは囲い場の隅にある小さな茂みに飛び込んだ。入り組んで絡まり合った木の枝に体がぶつかる、とスフは身をすくめた。しかし予想していたことは起こらなかった。熊はそのまま走った。土埃の匂いが鼻孔をくすぐった。足音が反響する仕方から、穴蔵のような狭いところを走っているのが分かった。しばらくののち、ふわりと体が浮く感覚があって、次の瞬間スフの腹は熊の背中に叩きつけられた。そして熊は立ち止まった。




