7. 儀式
翌日もよく晴れた良い天気だった。夕刻太陽がそれぞれ東と西の空の端にかかりはじめたころ、俺とトァンは城から出て砂利敷きの前庭にいた。グーォウともう一頭の熊が曳く車が用意されている。俺たちが乗り込むと、熊車はがたごとと砂利敷きの上を走り出した。乗り心地は思ったより快適だった。幅はちょうど人間がふたり並んで座ってぴったりくらい、木のベンチに似た座席が向かい合わせにつけられている。座面には白い毛皮が何枚か重ねて敷いてある。
賓の到来を正式に告げる儀式というものに、俺は駆り出されていた。街の中心部にある廟に、光魔法であるルウシイしか吸収しない魔法石がある。それに光を灯すのが儀式の内容と聞いていた。
どうやらこの国では、魔王退治のこととそれ以外の政治・行政がすっぱりと切り離されているようだ。世界を救う異世界からの勇者が来たら(それが俺のことだというのがどうもむずがゆいのだが)、普通のおとぎ話なら王様に何か特別な任命を受けて旅に出るのが筋だろう。しかしプーリアでは王様は後回しで、国境にあるこのトツァンドという小さな街で名乗りを上げるのが重要なのだという。トツァンドが送り出した賓を、王都プーリアが後追いで承認する。仕組みとしてちょっと不安定だなと俺は思った。一度どこかのパワーバランスが崩れたら機能不全を起こしそうだ。
がたがたと石畳の上を走っていた車が止まった。
「到着したようです」
トァンは言った。
車のドアが外側に開いて熊が顔を出した。意外と長い前足を伸ばすと俺をひょいと抱き上げる。爪が体に当たる感触がした。それにもすでに慣れつつある。身動きが取れない俺は周囲を見回した。俺たちは良く晴れた空の下、円形の広場にいた。周囲はぐるりと建物で取り囲まれている。その間を縫うようにいくつかの道が延びていた。
広場は石畳で、中央にはこれまた石でできた太い柱が立っていた。ぐっと見上げるほどの高さの頂点には、黒っぽい烏の彫像が据え付けられている。その鳥が無言で見つめる先に、周囲とは様相が違う建物がひとつ建っていた。廟だ。長方形のケーキみたいな形で、それをずっと小さくしたサイズの石を積み上げて作ってあるようだった。ひとつひとつの石は異様にサイズが正確で、よくよく見ないと継ぎ目が分からない。窓はなく、ぽかりと黒くて四角い入り口がひとつだけ開いていた。
熊に乗った白マントが先にその中へ入っていった。俺を抱いた熊が続いた。入り口をくぐるとまたひんやりとした空気が俺を包んだ。ぼんやりと照明が光っている。暗い。
目が慣れてくると、建物の中にはたくさんの人がいることが分かった。入り口から奥に向かって道を作るように、左右にずらっと並んだ白マントの列。その背後、建物の両翼に当たる部分にも三々五々人が集まっていた。廟のスタッフである廟守、それに学院とトツァンド城の面々も集まっていると聞いた。トツァンドにおける権威筋が、俺を賓であると承認するのだ。
白マントたちが作る道の先には、さっき広場で見たような石の柱が立っていた。しかしこちらはずっと低くて、てっぺんには丸くて白い石が据え付けられている。大きさはちょうど両手で囲って指どうしがつくくらいだ。
低く熊が唸る声が聞こえたと思った。しかしそれは人の歌声だった。声は二重三重に重なって荘厳に響き、俺のうなじを這い上がって鳥肌を立たせた。俺たちの到着を中で待っていた白マントたちが歌っていた。
俺はトァンに促されて大きな白い石の前に進み出た。天井から吊り下げられた照明がその表面をつるりと照らしている。たむろしていた白マントのうちひとりが寄ってきてしわの深く刻まれた右手を魔法石の上に置いた。石と人が触れ合った部分が一瞬だけ、ほんのわずかに淡く光ってすぐに消えた。右手は静かに置かれたままだったが、石はそれ以上何の反応も見せなかった。
白マントは――その歳経た手と振る舞いの様子から相当に立場が上の人物なのだろうということが察せられた――マントを被った体を俺の方に向け、魔法石に置いた手で「どうぞ」という身ぶりをした。
俺は頷いた、突如として喉が鼻につながるところまでからからに干上がったような感覚を覚えた。骨盤と肋骨の間――骨に守られていない体の柔らかい部分がどういうわけか緊張で震えた。
俺を抱いたまま熊が前に進み出て、白い石の前でぴたりと止まった。右手をおそるおそる掲げる俺の動きに釣られるように歌声に高音部が加わった。天井高のある廟の最高部まで易々と跳ね上がった高音は分厚い石壁に遮られて急転直下落下してくる。その音が俺の脳天を貫いた、体に衝撃が走ったと思った――しかしそれは右手を乗せた俺と魔法石との間に起こった出来事だった。ばちりと確かな音と青く小さな稲妻を立てたのち、魔法石は黄金色に光りはじめた。
俺は心のどこかで失敗を恐れた。しかし同時に望んでもいた。くだらない茶番に巻き込まれていると思って、早くこれを終わりにして種明かしされるのを鼻で笑いたかった。一方で、すでにこれ——異世界だとか、魔王だとか——がほんとなんじゃないかと半ば信じていた。何か途方もない力によって、俺は人智の及ばないできごとに巻き込まれてしまったのだと。
そして今、俺の手のひらに反応した魔法石は複雑な輝きを露わにしはじめていた。歌声はたじろいだように震えてから大きくなった。白マントたちの興奮がまざまざと伝わってくるようだった。俺は手元の色を魅入られたように見つめた。遊色は黄金に見えたり、青に見えたりしながら時折赤や緑や紫――考え得るかぎりのあらゆる色の片鱗をきらめかせてたゆたっている。炎の範囲ははじめとても小さかったが、今や魔法石全体に広がり、石そのものを飲み込まんばかりの勢いでゆらめいていた。
このままでは手が光に飲み込まれるのではないかと思ったその刹那、強い光を浴びて思わず俺は目を上げた。
目の前の壁が内側から輝いていた。どういう構造なのかは分からないが、俺が今手を置いている魔法石の光が伝わったらしい。光は俺から出て光の間まで届き、今や壁を満杯にして石積みの間のわずかな隙間から漏れ出しているのだった。その光は強烈で、思わず目を細めた。
歌声は震えながらさらに音量を上げ、興奮は最高潮に達していた。歌声は光とともに充満しながら石積みの壁を震わせて外の街へと浸みだしていった。俺の手元で遊色はやがて勢いを減らしていき、魔法石の輝きは弱くなっていく。最後には微少な炎が魔法石の中でちろちろと揺らめくだけになった。遊色の存在感が減ると、弱いがしっかりとした黄金の輝きのみが残った。
今や廟全体が光に満ちていた。そしてそれで儀式は終わりだった。感極まったらしく震える老いた手の持ち主に促されて、俺はぼんやりとしながら広場に出た。石造りの烏が冷たい視線を投げている。その視界は俺を通り越して、今俺の手によって光で満たされた廟を凝視していた。
廟守たちの歌が途切れることなく、広場に高く低く響いていた。その隅で熊たちが静かに車を曳くために身につけていたハーネスを外していた。このあと歌う廟守たちに導かれ、俺とトァンは熊に乗って街路を一周するのだと聞いている。一風変わったパレードだ。儀式の時間を夕方から夜に設定することで、トツァンドの人々が直接俺を見ることができるようにする、という狙いだった。
ふたつの太陽はすでにその姿を城壁の下に隠していた。東西両方の空がオレンジ色から紺色のグラデーションを成している。地球では見ることができない不思議な光景だった。
俺の隣に立ったトァンがフードを後ろに払った。暮れなずむ薄明かりの中で細くまっすぐな銀髪がふわりと宙を舞う。俺がトツァンド城で目覚めてから三晩目、トァンの素顔を見るのも三度目だ。しかし何度見ても息をのむ美貌だった。
トァンは年の頃十代後半といった印象の少女だ。プーリアでは元服を十五歳で迎えるらしく、この年若い王女様はすでに成人城主としてこの街に君臨しているのだった。肌は真っ白で血の気がない。とても薄い唇まで白かった。髪の毛のみならず眉やまつげも銀に近い金髪で、その下にある目はとても薄い水色をしていた。特徴的なのはやはりその鼻梁で——スフと同じく秀でた額からT字型に張り出していた。これは魔法史の長の顔にも見られる特徴で、この世界の人々の人種的特徴なのかもしれないと俺は考えていた。果たして彼らが俺の言う意味での人、と言えるのであれば、だが。
少女の美貌に見惚れていたからか、俺は廟守たちの歌声にノイズが混じったのに気づかなかった。まず異変に気づいたのは烏たちだったらしい。かあかあと鳴き交わす声が四方八方から迫ってきて、気づけば薄闇に包まれた広場の周囲を白黒まだらの烏たちが埋め尽くしていた。
「まれびとさま!」
ガーァゥリユーの呼ぶ声を聞いたように思った。きょろきょろと周囲を見回している間に、熊たちがこちらに向かって走ってきた。それと同時くらいに耳がどどどっという雪崩のような音を捉えた。何だろうと首をかしげる間もなく熊に体を引っ掴まれた。おもいっきり揺れる。どうやら熊は俺を抱きかかえたまま二足歩行で走り出したらしい。何がどうなっているのか分からないまま俺はむせた。土ぼこりが巻き上がっていた。歌声は悲鳴に変わっている。がきん、と鉄パイプを打ち合わせたような嫌な音が響いて熊の体が揺れた。蹄鉄が石畳を打ちつける。馬だ。プーリアにいないはずの馬がいる。
広場は人で満ちていた。兜を被っているもの、手甲をしたもの、槍を持ったもの、斧を持ったもの。てんでばらばらに武装をした荒くれ者たちが騎乗した甲冑姿の兵士らしき一隊に率いられて広場に乱入していた。熊は俺を抱えて城の方角へ逃げようとしながら乱入者たちと戦っていた。ずぶり、というような確かな衝撃があって熊の体が揺れた。血の臭いがする。視界が思いっきり揺れて俺は地面に叩きつけられた。
次に気づいたときも視界が揺れていた。それどころか体全体を洗濯機に入れられてもみくちゃにされたような感覚だった。わけが分からず首を回そうとして、また強く揺れた。俺は痛みにうめいた。舌を噛んでしまったのだ。
しばらく経って頭がはっきりしてくるのと同時に、吐き気が襲ってきた。両手両足を縛られるか何かして自由を奪われた上に、馬上にくくりつけられているらしい。意識が戻った耳は複数の馬がペースを揃えて走る蹄の音を捕らえていた。馬が揺れるのに合わせて俺の体も揺れる。前屈したような姿勢で固定されているので頭に血が上っていた。目の前に馬に乗っている人物の足があるらしい。揺れる頭がたまに金属らしきものに当たってがちゃりと音を立てた。
唐突に目が回る感じがして胸が熱くなり、次の瞬間には吐いていた。吐瀉物の大部分は頬を伝っていったが一部はそのまま鼻の穴に入り込んで奥で痛んだ。吐ききれなかったものが喉を焼いて咳が出る。涙だか鼻水だか分からないものが顔の表面を流れていった。苦しい。頭ががんがんする。引き攣れるような咳をしながら俺は吐き気がもう一度襲ってくるのを感じた。胃がぎゅっと硬くなるのが止められない。そのまま吐いた。
夜だった。明かりのない道を、馬たちはただひたすら走っていた。そんな中だが、さすがに馬の上で吐かれて乗り手は俺の惨状に気づいたらしい。聞き取れない言語で何か言う声がして体が揺すぶられた。それが引き金になってもう一度強い吐き気が襲ってくる。しかしもう絞り出せるものがないようで、みっともない声だけが押しつぶされた喉から出てくるのを自覚した。
馬が急に速度を落とした。馬上の人物が何かを叫んで道行を止めた。ふらふらする頭でなんとか意識を保っていると、慌ただしく何人かが寄ってきて俺を馬から下ろした。四肢の自由が効かないのでなすがままになった俺は、どさりと堅く平らなところに落とされた。とは言ってもその手つきは意外と丁寧で、馬上での荷物のような扱いから比べるとましだった。
何か柔らかいもので顔が拭かれ、口元に革の匂いがする硬いものが寄せられた。なんだろうと戸惑いながら口を開くと水が流し込まれた。口の中に溜まった水をちょっとずつ飲みくだすと体の芯がじんわりと潤った。
再び号令がして、馬たちが走り出す音が聞こえた。俺が載せられた堅いものも一緒にがたりと音を立てて動きだした。どうやら荷車か何かに載せられたらしい。俺に水を与えた人物はそのまま一緒に荷台に乗っているようだった。道は悪く、荷車は人が乗るようにできていない。振動に合わせて俺は荷台をずるずると動いた。文字通り手も足も出せないので、ひっくり返ったままおとなしくしているほか何もできなかった。
襟の辺りに濡れている感触がして、つんと酸っぱい吐瀉物の匂いがした。惨めな気分だった。夕方の儀式で得た高揚感はすでに消え果てていた。それどころか歌声も光もまるで遠い過去のように思われた。あれは実際に起こったことだったんだろうか? そうあれかしと、俺が願っただけではなく? 吐き気を催す揺れからは解放されたものの、がんがんする頭をどうすることもできないまま俺はまぶたをぎゅっと閉じた。やはり救世主だか英雄だかだなんて、みんな何か勘違いをしていたに違いない。こんなにも無力で、何かを変える能力も気力もないままここまでずるずると来てしまった。脳裏に明るい笑い声が響いた気がした。ここにいるはずのない人物の記憶は滅入った気分をさらに減退させた。硬くつぶった目が熱いのを自覚しつつ、俺はどうしようもない夜をやり過ごすために体を縮こまらせた。
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トツァンド城別棟一階にある城長の執務室には重苦しい空気が満ちていた。主な原因は招かれざる客のせいだが、と城長は苦々しく考えた。
城長の執務机に向かい合うようにして、革鎧を一式身につけたままの武人が座っていた。椅子を勧めたにもかかわらず鎧で体が納まらないからとわざわざ床几を持ち込んで使っている。かろうじて外した兜を小脇に抱えた姿は奇妙だった。その後ろにはこちらは鎧を兜までぴっちりと身につけた配下の者たちがずらりと四人控えている。
“長よ、貴殿の話をまとめると”
床几の主が口を開いた。
“城主殿下および学院と司書たちが賓だと主張する人物が廟に光を灯したが、サルンはそれを把握していないということになる”
城長はため息をつきたいのをぐっと堪えて答えた。
“城主殿下はすでにサルンヘ早熊をお送りになっておられます。ここ二、三日のことでございますぞ。卿がご存知なくともおかしくはございません”
卿と呼ばれた甲冑の男のほうはというと、尊大な態度を隠さずに大きくため息をついた。
“女の言うことだ。そうやってこの騒動の責を逃れられるおつもりかな”
“殿下は第一王女であらせられます”
城長はむっとして答えた。
“それにお言葉ではございますが、卿の今回のご粗暴、これを見ましてはいかに筋の通ったお言葉も我々としては容易に是とは頷きがたいものでありますぞ”
“季節を問わず立ち働ける傭兵が入り用で、わざわざ当主の私が出向いて人寄せを行ったのだぞ。その帰途で不審と見れば兵を動かすのも理の当然であろう”
賓を強襲して部下に拉致させた男は何をも恐れぬと言った態度で言い放った。
今度は我慢など一切せずに城長はため息をついた。シュマルゥディスはプーリア王国諸侯のうち、もっとも北に領土を持つ。西端は大湖に通じ、北端は深森をもってその境とする。大山脈地帯まで精力を増強しているブガルク牽制のためにシュマルゥディスが軍備を増強しているのは諸侯会議での取り決めに基づくもので、城長も当然それを承知していた。最重要地帯を担っているからこそ、先の戴冠の際に一新された王族付兵の装備の、王家の紋が入った一代前の革鎧を下賜されている。つまりシュマルゥディスが動くところ、それは王族付兵の動きとして見なされるのだ。諸侯ですら無視することのできない影響力を、この当主は余すところなく理解した上で今行使している。
“貴殿の言い分については真贋から見定めねばなるまいぞ。殿下との会見を所望する”
“承知しました。私も同席いたしましょう”
城長の返事に対してシュマルゥディス卿は答えなかった。ただ諸侯・騎士から荒くれ者まで、あらゆる配下を威圧するのに長けたまなざしをひたと城長に向けた。視線をまっすぐ受け止めて城長はやや眉をしかめた。この程度の脅しに屈するようではトツァンドの名が廃れる。
“殿下へのお取り次ぎを進めます。恐れ入りますがしばらくこちらでお待ちいただいてよろしいですかな”
さらにしばし不満そうに城長を睥睨した上で、卿は渋々といった様子で同意した。




