6. 古代神聖語
青い空にぽかりぽかりと白い雲が浮かんでいた。何ということはないゴールデンウィークの平和な昼下がりのように思われる。南に大小ふたつの太陽が仲良く並んでいることを除けば。
大きい太陽は東から西へ。これは一年を通して変わらないという。小さい太陽は、短い夏の間だけ、東から西へ。自転とか公転とかはどうなってるんだろう。この国では一週間が六日、そして一ヶ月が六週間、一年が十ヶ月らしい。太陽がふたつ昇る夏はその中の一ヶ月間だけ。その貴重な一ヶ月に、俺はちょうど居合わせたということだ。
俺が間抜けな顔をして空を見上げている間、スフは辛抱強く待っていてくれた。俺たちは今、トツァンド城の大手門にある塔を登って城壁のてっぺんに出ている。城壁は万里の長城みたいに上をずっと歩くことができるように造られている。一周すると城と街をぐるっと見て回れるのだ。
と言いつつ俺はまだひとりで歩くにはおぼつかない体調で、今日の午前中は熊に乗る方法を学んでいた。熊の背中はがっしりとしているが意外と平らだ。重心をどこに置くかが分かると苦もなく乗りつづけることができるようになった。鞍や鐙といった道具は特にない。小学校の体育で使った跳び箱の上にまたがって座る感覚が一番近かった。乗熊が一般的なプーリアでは、すべての衣服が大きく足を開きやすいようにデザインされている。俺も今日からはだぶっとしたチュニックにズボン、長いタンクトップみたいな袖なしの黒い上衣という与えられた格好をしていた。
俺がトツァンドに迷い込んですでに三日目になろうとしていた。いまだに認めたくはないものの俺はこの異世界に慣れつつある。たいていのことは魔法石が解決するのがこの国の常識らしい。照明は火魔法であるアウグ、水道はパニイによって安定が保たれている。毎日温かい風呂に入ることもできる。ドライヤー代わりに風魔法であるハワウを使う。まあ便利だ。
力仕事は熊が担っている。俺の狭い行動範囲でも城の内外で働いている熊をたくさん見かけた。一方、同じく人間と暮らす烏たちはというと意外と気まぐれで、大した仕事もしていない。どちらかというとペットみたいだ。ガーァゥリユーもあちこちを行ったり来たりしているようだった。呼んでも声が届かないところにいることも多いらしい。トツァンドの人々にとって烏がそういう生き物なのは当たり前のようだった。
ちなみに烏はすべての個体が言葉を話せるわけではない。ごく一部の個体が幼少期から人語に強い関心を示し、そしてそういう個体は「先祖返り」と呼ばれる真っ黒な体色であることが多かった。トツァンドに住む烏の多くは、白と黒と茶色が入り混じったぶち模様をしている。羽毛もすべすべしたのからふわふわと膨らんだのまで様々いて、そのバリエーションはまるでジャックラッセルテリアのようだった。一方の熊たちはみなそろって全身真っ黒で、そして言葉は一言も発しなかった。話せないだけで人間の言うことはかなり正確に理解しているらしく、色々言葉で頼むとその通りに動いてくれる。
その熊のうちの一頭、グーォウに乗った俺は街並みを見やった。石積みの土台の上に建てられた木造建築はだいたいどれも三階建てくらいだ。居並んだ切妻屋根は城壁よりも低い。ところどころにぶち模様の烏たちがたむろしていた。ガーァゥリユーもどこかにいるのかなと目を凝らしたが、黒い烏は見当たらなかった。今朝俺の部屋で色々と神話のことをおしゃべりしていたガーァゥリユーだが、いつの間にかふらりとどこかへ行ってしまっていた。まるで猫みたいだ。
城壁の上からなら、街を端から端まで見渡すことができた。大して広い街ではない。建物は密集していて、もし地震が来たら一発でアウトだろうなと俺は思った。街の中心には鳥の彫像(聞いたところによると烏なのだそうだ)がある広場があって、彫像の向かいには石造りの建物が建っている。「廟」と呼ばれているらしい。誰の廟なのかというと、母なるイーの、というわけだった。明日は廟で儀式を行うとトァンが言っていた。
ここトツァンドはプーリア発祥の地であり、かつもっとも国境近くにある都市なのだという。国境付近は草原地帯で、雪が降らない季節は盛んに遊牧が行われる。夏は日差しに耐えられないプーリアは褐色肌のステムプレの民との交流が進んだ。白い肌のプーリアは遊牧に出ても外の作業は行わない。それどころか夏の間街から出ない羊飼いも珍しくなく、そういう家の羊は雇われた「混血」の労働者が面倒を見ている。地主と小作農の関係と、何ひとつ変わらない仕組みがここにもあった。
広場の南側には魔法を研究する「学院」。西側は行政と古代神聖語研究を行うトツァンド城。残りの街区はそれぞれに携わる職員たちとその家族が住んでいる。街の東側と北側は、単身の職員を下宿させながら牧畜を営む一般市民が多いエリアだ。なにぶん国境地帯なので、商売はこの街の中で完結するようなものが多い。例外が繊維で、西にある大湖沿いの街サルンへ毛織物などを出荷する商人たちの行き来がある。そのほか、城壁外の北側にはこの街の中で消費する分くらいの畑があった。
スフに説明してもらいながら、俺たちはゆっくりと城壁の上を移動した。百メートルくらいおきに作られている見張り台にはそれぞれ熊が二頭ずつ詰めている。俺たちのほうを見るとぱちぱちと瞬きをした。表情は変わらないが、少なくとも歓迎されていない感じはしない。
一周回って大手門に戻ってきても、太陽たちはまだ高度を保って燦々と輝いていた。せいぜい一時間、長くても二時間は経っていないだろう。真っ昼間で、建物が濃い影を落とす街路には人気が全くなかった。
「本当に誰もいないんだね」
俺はスフに話しかけた。敬語で話しかけるのは止めてくれと頼まれて、口調がずいぶん砕けてしまった。
「はい。ただ中から賓様のお姿を拝見していた者は多かったかもしれません」
スフは少し困ったように笑って答えた。
「そうなの?」
「普段より窓が開いておりましたので」
噂が広がり、賓の到来はすでに街中の知るところとなったと聞かされている。日が落ちてから密やかに城まで詣でてくる住民もいるらしい。それぞれにアウグのランタンを持って、俺がいる城の中に一礼して帰って行くのだとトァンが言っていた。
俺は街並みを振り返った。確かに鎧戸を開けている窓がちらほらある。室内は暗くて様子がまったく分からないが、あの中から俺のことを見ている人たちがいるのだろうか。
「賓様はプーリアの希望ですから」
夏の太陽にも耐えうる肌と目を持った青年はしかつめらしく言った。
たしかに太陽がふたつあるのだと確認した俺たちは城内に戻った。外は太陽の光がやや肌に熱く感じるくらいの良い天気だが、分厚い石壁で守られた室内は冷蔵庫みたいにひんやりとしている。夏でも暖房が欠かせないとのことで、俺の部屋にも夕方から夜にかけては暖炉に火が入れられた。
トツァンド城の一、二階は大部分が図書室で占められている。日本で言うところの国会図書館と、史料編纂所と、言語学の研究所。このあたりの機能をひとまとめにしたのがトツァンド城なのだった。そこで働くスタッフは「司書」と呼ばれ、プーリア語に加えて少なくともひとつ以上の言語に精通している。ステムプレ出身のスフはステムプレの言葉(氏族社会のステムプレではそれぞれの氏族で少しずつ言葉が異なるらしい)、プーリア語ができるうえに最近はブガルクの言葉も勉強しているのだという。そしてもちろん、日本語もできる。彼らは古代神聖語と呼ぶけれど。
「スフは何歳でトツァンドに来たの?」
書架の本を眺めながら俺は何気なく隣にいる金髪の青年に尋ねた。革装の大判本には分かち書きされたひらがながぎっしりと並んでいる。歴史書のうち、魔王と賓について時代ごとにまとめられた入門書のようなものだった。
「トツァンドは成人し、司補試験に合格してからです」
「しほしけん?」
「学院や行政、トツァンド城などで働くために必ず合格しなければならない試験です。普通はプーリア人しか受験ができないのですが」
「公務員試験か」
日本では同じ立場にある俺は納得して頷いた。
「でも、じゃあその前は?」
「両親は仕事を求めてプーリアへやってきたのですが、その際に私の行く末についても考えたそうです。ステムプレに戻って羊飼いになるのは難しいだろう。しかしプーリアで仕事をするにしても、異国の子どもには選択肢が限られています。ただ、例外がありました。サルンの港町です」
「ああ、治外法権だから」
「はい。両親は港町で仕事をしながら私を私塾にやりました。魔法はご存じの通りてんで駄目ですが、古代神聖語の読み書きはそれなりにできました。運良く評判を聞きつけたトツァンドの魔法司が取り計らってくださいまして、例外的に司補試験を受験できたのです」
「魔法司」
「魔法司は学院で働いて学生たちを教える立場にあります。私を見つけてくださったのがワティーグス・ターリク、魔法史の長です。当時はまだ役職にありませんでしたが」
「なるほど」
俺は書架の間から見え隠れするこの城のスタッフたちを眺めて納得した。判で押したようにみな同じ白マントを着用している。日没後の夕食の時間まで、彼らはマントを脱がない。その中でスフだけが顔を出して仕事をしているのだ。つまり、プーリア人ではない司書はスフしかいない。
「スフはすごいね」
正直な感想が口をついて出た。スタート地点からプーリア人には差をつけられていたのに、プーリア語と日本語のふたつを学んでいる。優秀だし、それだけでなく逆境にめげない精神力がある。簡単に言っているが、前例のない就職をする際には色々と嫌な思いをしたに違いない。しかしスフはふわふわの金髪を緩く振った。
「私は運が良かったのです」
謙遜な若者は答えた。
古代神聖語は母なるイーがもたらした言葉だとトァンたちは言った。熊や烏と話をするのも、人々と考えたり語ったりするのも古代神聖語だった。プーリアはその言葉を学んだが、広めることはしなかった。むしろ限られた層の人々だけがアクセスできる奥義としたのだ。魔法や技術、そして魔王について、母なるイーがプーリアにもたらした知識を流出させないために。
母なるイーが訪れてから千年建ったか二千年経ったか、いやそれ以上かと諸説あるらしい。その間古代神聖語は過たず代々伝えられてきたと聞いた。昨日晩餐の時間に教えてもらった知識を頭の中で復習しながら俺は手にした革綴じ本に目を落とした。烏の羽根で作られたペンでひっかくようにして書かれているのは、俺が慣れ親しんだ現代のひらがなだった。かな遣いも戦後のものだ。「ゐ」とか「ゑ」とかも見当たらない。つまり、俺が担がれているのでなければ、数千年前にザインを訪れた母なるイーは、二十世紀後半以降の現代日本人である可能性が高いのだった。
嫌な考えだった。異世界転移を経験した今となってはもう何でもありだという気分ではあった。しかしこの世界のひとつの国で太母として崇められている存在が、もしかしたら俺と同時代人なのかもしれないという可能性——同じ電車に乗り合わせたり、同じ学校の先輩後輩だったり、居酒屋のカウンターで隣り合って軽く会話を交わしたことがあったり、するかもしれないという可能性が、捨てきれないのだった。
俺はため息をついて本を閉じた。書架に戻そうと腕を伸ばすと、スフが本を受け取ってくれた。少しずつこの世界の空気になれつつあるらしく、会話をする程度なら息が切れなくなってきた。しかしどんな作業が体に負担をかけるかはまだ慎重に見極める必要がある、とのことで俺は熊の上にまたがって偉そうにしているくらいしかすることがない。
図書室に机と椅子を用意してもらった俺は、午後の間いくつかの本を読んで過ごした。母なるイーと歴代の賓たちについての記録を残すためだけに使われているらしい日本語——古代神聖語は、自分が何に巻き込まれているのかを知りたがっている俺のような人間には好都合の本をたくさん生んでいた。恐らくだけど、記録をあえてプーリア語で残さないことに意味があるのだ。それは母なるイーや賓の話したことをそのまま書き写すということでもあり、一般のプーリア人から記された内容を遠ざけておくということでもある。
本を読みながら俺はスフが言ったことを思いだしていた。古代神聖語ですが、と司書は言っていた。
「実は私にとっては学びやすい言語でした。ステムプレの言葉と、文法が非常によく似ているのです」
「SOVなの?」
思わず慣れ親しんだ言い方をしてから、きょとんとした赤い目と視線が合って気がついた。
「ええと、語順。語順が主語、目的語、述語……たとえば、『私は熊に乗る』」
「はい。時制や敬語など細かい部分では差異がありますが、基本的には同じです。むしろ日常的に使うプーリア語のほうが学ぶのに苦労しました」
「プーリア語ってどんな言語なの」
「『私は乗る、に、熊』のような語順です。それだけでなく、何と言いますか……」
スフは不自然な様子で言葉を切った。
「何か言いにくいこと?」
思わず声を潜めて聞いた俺に司書は小さく頷いた。
「借り物の語彙が多いのです。ブガルク語からの借用もあります。皆それは逆だと言いますが」
俺と同様に声のボリュームを落としてスフは呟いた。
「私は学んだことがありませんが、オルドガルと共通する語彙も多いそうです」
英語みたいだな、と納得しながら俺は頷いた。この国はずいぶんナショナリズムに熱い傾向が見受けられる。こういったことを指摘するのも、特に外国人という身分にあっては憚られることが多いのだろう。




