4. プーリア王国
「どうぞ」
烏は澄まして(実際に澄ましていたのかどうかは分からない。ただそういう風に聞こえた、というだけだ)言うと布団の上に巻物をぽとりと落とした。ころころと転がり落ちる気配を見せたそれを手で押さえると、普通の紙とはちょっと違うずっしりとした感触がした。
「失礼いたします」
長と呼ばれている、あとから来たほうの白マントがそう言って巻物を取り上げた。烏に話しかけられた俺は呆然としたまま手を離した。俺の様子をどう思ったのか、長は講義を始める教授よろしく咳払いをして巻物をするすると伸ばした。広げてみるとそれは大きな地図で、どうやら湖を描いているらしかった。
「まずは我らのプーリアとその周辺についてご説明を差し上げましょう」
不思議なしわがれ声はそう続けた。
地図を読むのは嫌いじゃない。ただし今見せられているのは地図とは言っても縮尺のかなり小さいもので、都市はマッピングされているもののその詳細は分からなかった。ザーハットクヮバハウゼナマキィという舌を噛みそうな湖、通称大湖の東にあるのが俺が今いるらしいプーリア。ほかの地域とは山脈で隔てられているので気候が違う。この国の北部には常緑樹の森があるが、今いる辺りは草原地帯で遊牧が盛んだということだった。ステップ気候なのだろう。
大山脈地帯を越えた大湖南岸は温暖で、しかし砂漠が広がる。ずっと西に行くと海へと流れ出る大きな川、ブガルク川がある。湖と川の交点にあるのが都市国家ブガルクだ。
「もとは数多ある西戎都市国家のひとつにしか過ぎませんでしたが」
そう忌々しそうに白マントが年老いた声で言った。
「せいじゅう」
「西にある夷狄のことをそう仰るのではないですか」
「いてき。……ああ、夷狄」
久しぶりに聞いた。世界史の授業以来で聞いた。不思議なイントネーションの声は現代日本人が使わないような語彙を用いて俺に話しかける。いったいここは何なんだ。
話はブガルクへと戻っていった。今から数十年前、奴隷階級にあったある若者(「奴隷! 奴隷などと言う忌まわしい制度が彼の地では永らくそのままになっていたのです」)が様々な手段を使って台頭し、最終的に世襲制の領主を打ち破って都市国家の頂点へと着いた。僭主ザー・ラムと呼ばれるようになった男はまず西に腕を伸ばし、制海権を手中に収めた。続いて大湖北岸のオルドガルと呼ばれる地域に進出した。
ブガルクに狙われた北岸地域はというと、もともといくつかの領主が曖昧な境界線のもとに治める地域だった。なぜそんな適当なやり方がまかり通っていたのかというと、もともと痩せた土地で居住者が少なかったのだ。この辺りの森林限界はプーリアよりさらに南で、湖岸ぎりぎりまで森が迫っている。多くの民は湖岸に集落を作って半漁半農の生活をし、一部のものは森林を開拓して農地を持っているのだという。それぞれの生活は森に遮られているので、ブガルクがひたひたと西から迫り来ることにもなかなか気づくことができなかったのだった。現在のオルドガルは名目上それぞれの領主が治めることになっているが、領主にも領主ができた。それが僭主ザー・ラムだ。
プーリアは国境となっている大山脈地帯の際までブガルクに進出されたことになる。脅威と感じても良さそうな強国の進出を、しかし長はどうとも思っていないようだった。
「握りこぶしの親指には旧都ブイジーがございます。王都プーリアからはちょうど対岸にあたります。プーリア王国の以前の首都であり、母なるイーが最後の日々を過ごされた場所でもございます」
なんか今またよく分からない単語というか固有名詞が聞こえたな、と思いながら俺は聞き流すことにした。たぶんこれは信仰の話で、となると背景に神話がセットになってついてくる。今聞いていたら大変なことになりそうだ。
「ブイジーの北にはプーリア国内でも特に古く、深い森がございます。深森です」
茶色っぽい紙の上でしわがれた手が地図の該当する部分に小さく丸を描いた。一瞬目を疑うほど白く、骨張った指だった。
「国外からプーリアへ入る道はみっつございます。ひとつは南部のサルンへと寄港する交易航路に乗ることです。ふたつ目は南岸からの山越えでございます。王都近くには比較的御しやすい山越え路がございますが、ブガルクがここを通ることは難しかろうと存じます」
「砂漠があるからですか」
「さよう」
白マントは未だに顔を現さないながらも、できの良い生徒に対するように満足気に頷いた。
「南岸航路も未だ開拓されておりません。寄るべき港もございませんし、南蛮は闇夜に紛れ、毒矢を用いて海賊行為を行います。さしもの蛮族ザー・ラムもこれには手を焼いているようです」
南蛮、と聞いて鴨南蛮そばが思い浮かぶ。俺は空腹を自覚した。そういえば朝から何も食べていない。というか今何時、というか何曜日だ? 俺がトレッキングに出かけたのは金曜日、昭和の日だった。あれから何時間、何日経っているんだろう。
「みっつ目は北岸から大山脈地帯を越える道です。こちらは山が急峻な上、下山した先が直接深森に通じます。そのため安全なのです」
「どういうことですか」
俺は困惑して尋ねた。木を隠すなら森に、ではないけれど、ひっそりと山越えをした部隊が森に隠れてゲリラ戦を開始したら打つ手がないのではないだろうか。
「賓様がいらっしゃったのは、このことに関係があるのでございますよ」
訳知り顔、いや顔はマントで隠れて見えないから訳知り声、とでも言うべきだろうか。そんな様子で長は言うと、再び地理の授業へと戻っていった。
この国にある大きな都市はふたつ。ひとつが大湖東岸にあるサルンで、ここは代々王の第二王子が領主となるのが慣わしなのだという。世嗣も王位継承までサルンに住む。サルンは商都で、国外交易の拠点でもある。遊牧が盛んなプーリアは繊維産業でも秀でており、プーリア産の毛織物は征服欲を隠すこともないブガルクですら購入する。とはいえプーリアに入国できるのは民間の限られた商船だけで、その利権で肥えた国内外の商人たちが港を自治している。ごく限られたエリアとはいえ、多国籍都市が成立しているというわけだった。
サルンに加えもうひとつの都市が南岸の大山岳地帯ふもとにある王都プーリアだ。こちらは即位した王と、それに伴って「ご一新」した——つまり後継に地位を譲った王族、貴族が住む。サルン領主も即位のタイミングで交代するらしい。プーリアは大湖を北に望む急峻な崖の上に建てられていて、周囲をぐるりと山に囲まれている。外に出ていくためには崖下の港に寄港する定期交易船に乗るしかないのだが、プーリアの城壁を出入りするものはほとんどいないのだという。
「プーリアへの入市は厳密に管理されております」
長は説明した。
「王族ですら、許されるのは年に一度の祭のときのみでございます」
「どうしてですか」
「王は祭司であり、プーリアは神殿なのです」
長はもったいぶった口調で答えた。
「何を祀っているんですか。その、母なるイーですか」
ついうっかり興味が先だって聞いてしまった。めんどくさいことになるぞと、さっき我慢したのに。
「最後の日々のあと、母なるイーがどこに旅立たれたかは分かっておりません」
よく分からない返事が返ってきた。
「しかし最後の日々に、母なるイーが日々祈りを捧げていたことは記録によって伝わっております。王はその跡を継ぎ祈るのです」
「何を、誰に祈るんですか」
「魔王と再び相まみえる日の遠からんことをです」




