賓
トツァンドの南西にプーリア最古といわれる石造りの城がある。それは尖塔華やかな宮殿ではなく、戦に適した無骨な要塞であった。戦の記憶も遠く忘れられた現在にはやや不都合の多い建物だ。窓は細く小さく、ほとんどは鎧戸で閉ざされている。しかし明かり取りのためのガラス窓がある部屋もひとつだけあった。
ふたつの夕日が東と西にそれぞれ沈もうとしながら、ガラス窓に細く弱々しい光線を差し込んでいた。西を外城壁、東を前庭にさらしているこの三階の部屋は、街路からも町の外からも丸見えだ。往時、戦のさいには真っ先に狙われたことだろう。現代でも、保安上の理由から普段は使われていない。華美に飾ったこの部屋そのものが城の装飾のようなものなのだとスフは考えていた。昨日までは。
黄色がかった陽光が室内に舞う細かなほこりを照らしだした。学院から城へと戻ってきたスフはそのさまを見つめていた。ここに来たのは主の命があったからだ。気づけば握りしめている両手の内が汗ばんでいる。暑いからではない。緊張から、いやもっと正直にいうなら、恐怖からくる発汗だった。
深く息を吸い込むと胸が震えた。意を決して進む先には豪奢なベッドがある。細かく意匠が彫りこまれた四隅の柱が寝具の上に大きく垂れかかる天蓋を支えていた。天蓋は一面をのぞいて降ろされている。たくし上げられた面から横たわる人影が見えた。数歩だけ近づくと天蓋の中までよく見える。スフは自身の肌が粟立つのを感じた。
横たわる人物は——それを人物と呼んでさしつかえないのであれば——よく眠っているようだった。スフの褐色とも、トツァンドの人々の抜けるような白さとも異なる奇妙な色の肌。ふくよかすぎる唇。何よりも不可解に思えるのは、両目の間に突如飛び出しているように見える鼻梁だった。鼻は三角形を描いて反対側の端は口の上に落ち込んでいる。このような鼻の形をスフは見たことがなかった。
弱い日差しが眠る男の顔にかかった。スフは信じられない気持ちで照らされたものを見つめた。その頭髪は真っ黒だった。まるで烏か熊のように。
見慣れない顔立ちを観察しているあいだにずいぶんベッドに近づいていた。客人がふと身じろぎをしてため息をついたのでスフは思わずびくりとした。しかしそれだけだった。すやすやという寝息が石造りの部屋に響く。
我に返ったスフは小さく息をついた。気づかぬうちに呼吸を止めていたらしい。客人の様子を確認したならば、あとは戻って報告するべきだ。そうは思うものの素直にきびすを返すのはどうにも恐ろしく思われた。結局じりじりと扉のところまであとずさり、ベッドに背中を向けないまま部屋を去った。
褐色の肌をした司書が立ち去ってまもなく、西の夕日はなごり惜しそうに最後の光を石造りの床に投げかけて沈んでいった。東の夕日はまだ城壁の端に引っかかっていたが、すでに町はうっすらと夕闇に包まれはじめている。文字通り肌を焼かれる昼が終わり、ようやくトツァンドの人々が外出できる貴重な夏の夜が始まったのだった。
黒髪の男が眠る部屋もまた灰青色に染まっていた。光と闇のはざまにあってすべてが永遠に制止したように思われるなかを男は眠りつづけていた。
わずかに金具がきしむ音がして扉が開いた。すべるように入ってきた一団は、室内であるにもかかわらず目深にマントをかぶっている。しんがりに続いたのはひとり金色の髪の毛をそのままさらしたスフで、赤い瞳を不安げに揺らしていた。
マントの一団から小柄なひとりがベッドの脇まで進み出た。ゆるやかな身ぶりで寝具を少しよける。一団のほかの面々はつかず離れず、しかし積極的にベッドに近づく意思はないようにたたずんでいた。
小柄な人物が振り返った。スフは生唾を飲み込んで呼吸を整え、扉から離れて歩み寄った。先ほどベッドの中の黒髪を目視したあたりまで進む。かたまって立つマントの一団が静かにふたつに割れて道を空けた。ふたたび手に汗をかいているのを感じながら、スフは隠しから預かったものを取り出した。
白く柔らかな布に包まれたそれは、布と同じようなつかみどころのない色をしたぬるりと丸い石だった。普通であれば持ち主の魔力を多少なりとも反映して色づく。しかしスフの手にあっては、白く立ちこめた霧のように静かに沈黙していた。
小柄な人物がスフに向かって何かを命じた。赤目を少し見はって、しかし納得したのか細かく数度うなずくとこの赤目の司書は石をつまみ上げた。そして寝具から露わになった手、つまり眠っている人物の手のひらにすべりこませる。
間髪入れず、薄闇に包まれていた室内をまばゆい光が覆った。無言を貫きとおしていたマントの一団がざわめき、おののいたようにそれぞれ数歩あとずさった。スフは少しかがんだ姿勢のまま、驚きのあまり硬直した。光は客人の手のひらに置いた石から出ていた。白いような黄色いような光線は放射線状に伸びてガラス窓の向こうを貫く勢いだった。石は熱を持っているかのように輝き、その中に黄色と青の遊色がうごめいているのが見えた。
強い光はやがて揺らぎはじめ、少しずつ弱まりながら石の中へと収束していった。最後は淡く周囲を照らしながらたゆたう遊色だけが残った。光は室内を柔らかく、しかし冷たく照らしていた。
驚きに包まれた室内でただひとり、感情をその体に表さない人物がいた。寝具に手を出した小柄な人物だった。その視線は眠りつづける黒髪の男のかんばせに固定されていた。そのことに気づいたスフが気を取り直して声をかけると、小柄な人物はぴくりと体を揺らして反応した。そこで初めてほかの人物が在室していることを思い出したかのように振り返り、ようやく言葉を発する。
〝これで疑いの余地はございませんね〟
少女の声だった。確認の言葉は石造りの部屋にみずみずしく響いた。後ろに控えるマントの一団は居心地悪そうに各々もぞもぞと低くつぶやいたが、反対する声は聞かれなかった。
〝それでは、スフ。魔法石を。グューウォァウ〟
扉の外から唸り声のような返事が聞こえた。
〝急ぎサルンへ使いを頼みます〟
スフは輝く石を手に持った布を使って拾い上げ、ふたたび隠しに手をやって革でできた小さな袋を取り出した。布ごと魔法石を革袋にしまうとややおぼつかない足取りで扉のところまで進んだ。扉の外の陰で革袋を受けとったのは、爪の長い黒い手だった。
夢を見ていたように思う。書庫の掃除で使う羽根ばたきでやたらと顔をなでられているような、ずいぶんと触覚がリアルな夢だ。
触覚に比べると音はてんでだめだった。動物がギャーギャー騒いでいるようにしか聞こえない。うっすらとまぶたを開けて見えたのは、俺の顔をのぞきこむ黒い目だった。夢だと思う。だってその目はどう考えても人間のものに思えなかったのだ。まず白目がなかった。それに目のまわりをふち取るまぶたの粘膜が瞳と同じ色に見えた。極めつけに、その粘膜のきわまでぎっしりと硬い毛が生えていたような——
そこから先のことはあまりよく覚えていない。ゆらゆらと揺られながら眠っていた。おそらく布団じゃないところで眠ってしまったんだろう。凹凸のある敷物がチクチクとして痛がゆかった。
ものすごくよく眠ったと、非常に満足感を覚えながら目が覚めた。さすがゴールデンウィークだ。これからまだ一週間以上連休がある。何しろ二日と六日は有給にしたからな——。良い気分で伸びをし、思いっきり大きなあくびをしてから目を開いた。体が気持ちよく沈みこむふわふわの布団から出るのがもったいないような気がする。そのまま寝返りを打ってまたまぶたを閉じた。小さく風を切った頬が冷たい。空気が冷えているようだ。
ふわふわの布団? おかしいことに気づいた俺はまさにその布団の中で硬直した。何を言ってるんだ? 院卒でひとり暮らしを始めて以来、俺が寝ているのは安いすのこベッドだ。上に置いたマットレスのスプリングはすでにだいぶへたれてきている。ふわふわとか、ふかふかとか、そんな上等な形容詞はとうてい似合わない。安物買いの銭失いだ。もうちょっといいやつに買いかえないと腰痛が悪化する一方だとわかっているが、めんどくさくて放置してしまっている。
もう一度寝返りを打ってみた。柔らかい。上掛けも体にまとわりつくように暖かい。足を伸ばしてみた。どういうわけか靴下を履いたまま寝てしまったようだ。汗をかいた足指の間がちょっと気持ち悪い。枕も違うことに気づいた。ふわふわで分厚くてでかい。俺が使っているのは低反発もどきのぺしゃんこ安物枕だ。
いったい何がどうなっているのか。俺は気持ちを落ち着けるために仰向けになって目を開いた。数メートル上には何か細かな模様が織りこまれたカラフルな布が張ってあった。布は四本の柱に支えられて四方に垂れ、俺の寝転がっているベッドを覆っている。天蓋つきのベッドって、おとぎ話のお姫様じゃあるまいし。
寝てしまう前、最新の記憶を混乱した頭で思いおこしてみる。そうだ、自治体の境にある駐車場に車を置いて、いるか丘陵のしっぽあたりを縦走するトレッキングに出かけた。登りで思いのほかバテてしまって、山道をのろのろくだりながらぼんやり歩いていた。そしたらいつのまにか視界が開けて、一面の草海原が広がっていたんだった——
「え、おかしくね」
うっかり思考が口から漏れた。そうだ、おかしい。突然知らない大草原の中に出た。山なんてどこにも見当たらなかった。遠くのほうに建造物のようなものが見えて、俺はそこに行こうとして——そのあとどうした?
記憶がない。そう気づくと背中にじわりと冷や汗がにじみ出た。何がどうなって俺は今ふかふかのベッドに寝ている?
気づくとがばりと起き上がっていた。誰か、誰かいないか。俺はどこかでぶっ倒れたのか。それともまさかとは思うが拉致でもされた? それにしてはほっとかれてるか。いやほんとにほっとかれてるのか?
上掛けをはねのけて俺はベッドを降りようとした。そのとたん後頭部の首のつけねあたりからひゅっと血の気が引く感じがして体がぐらりとかしぐ。驚いて布団に手をついたが関節が言うことを聞かずにくずおれた。まるで熱でもあるみたいだ。息が苦しい。目の前が白くなる。心臓が早鐘を打つのが骨を伝って内耳に響いた。息ができない。そう思いながら力をふり絞ってベッドの向こうを見た。
石造りの部屋に、ぽつんと木のドアがついている。その脇に何か黒い塊があった。人かなと思ったが全身真っ黒だ。なんだろうと思ったら塊がもこりと動いて背が高くなった。黒い目がきょろりとこちらを見る。丸くて小さな耳が緊張したみたいに立った。ああ、熊だ。熊が後ろ足だけで立って、こっちに歩いてくる。心臓の音がうるさい。頭が痛い、胸が苦しい、酸素がない。とうとう幻覚が見えはじめたのかと思ったところで俺は意識を手放した。
人の話し声が聞こえた気がして目が覚めた。部屋は光に満ちているようで、天蓋越しにもその明るさをはっきりと感じる。そういえば俺なんで天蓋つきのベッドになんて寝てるんだっけと既視感のあることを考えはじめたとき、柔らかな声がした。
「お目覚めになりましたか」
若い女性の声だった。他人に見られている想定が全くなかった俺はあわてて首をめぐらせた。たくし上げられた天蓋の向こうに人影らしきものがたたずんでいる。
らしき、というのは、その姿形がよくわからなかったからだ。おそらく女性なのであろうその姿は頭からすっぽりと赤ずきんみたいなマントを被っている。赤ずきんと違う点はふたつ。まず、マントは真っ白で裾は床に擦りそうなほど長かった。そして、フード自体もとても大きくて、覆われた顔は陰になって全く見えない。
姿をよく見ようと思い、無意識に体を起こしかけていた。白マントは片手を制するように挙げて手のひらをこちらに向ける。肌の白さが目に残った。
「どうぞそのままで。お体に障ります」
まるで病人のような扱いだ。でもさっき起き上がろうとして昏倒しかけたんだった。そういえばなんで俺は理由もわからないまま知らないところで知らないベッドに寝かされているんだ? もしかして本当に病人なのか?
俺の疑問は顔に表れていたらしい。かすかに笑う気配がした。
「賓様におかれましては、この世界の空気が少々お体に合わないかと存じます。なじまれるまでは、どうぞご無理をなさらぬよう」
言っていることは単語のひとつまで理解できるんだけど、文章の意味がまるでわからない。あ、単語にもよくわからないところがあった。
「賓?」
「あなた様はわたくしどもの賓様でいらっしゃいます。光を携え、この世界から闇を駆逐してくださる方でございます」
「はい?」
思わず大きな声を出した、と同時に喉がきゅっとなって俺は思いっきり咳きこんだ。咳をするたびに首の血管がひゅっとするような感覚があって、視界が白くなる。苦しい。酸素が足りない気がする。
「突然のことでお疑いになるのも当然かと存じます。お疲れもございましょう。しかしたいへん申し訳ないのですが、ぜひわたくしどもの話をお聞きいただきたいのです」
俺の咳がようやく落ち着いたところで白マントはふたたび口を開いた。
「……なんでしょう」
しゃべると気管支がひゅう、と嫌な音を立てた。体がだるい。このまま横になってしまいたい、という疲労感のためだろうか。わけのわからないこの状況につっこむ気力が失われている。どうでもよさそうな返事になってしまった。
俺の返事に対してうなずく動作を見せた白マントは、後ろを振り向いて「入りなさい」と声をかけた。重そうな木のドアがぎい、と開かれる。同じような白マント姿がひとり、褐色の肌にアフロヘアみたいなふわふわの金髪をした姿がひとり。その後ろから四つ足でのしのしと歩く黒熊が入ってきた。熊の頭の上に何か乗っている、と思ったら、その何かが動いた。烏だった。
「わたくしはプーリア王国第一王女のプーリア・トァンでございます。このトツァンド城の主でもあります」
全員が入室したのを見届けた最初の白マントが言った。
「王国」
「さようでございます」
「ここお城なんですか」
「さようでございます」
判で押したような返事しか返ってこないのには多少辟易したが、とりあえず俺は納得した。ほんとの王国なのか、とかほんとのお城なのか、とか、さらに言うなれば今話してるのはお姫様だってことになるんだけどそれはほんとか、とか、つっこみどころはいろいろある。いろいろあるが、現状とのつじつまはそれなりに合うからだ。現状、とはふかふかの布団とか豪華な天蓋つきベッドとかそういうやつのことだ。
俺の質問がやんだと見てか、白マントは言葉を続けた。
「こちらはワティーグス・ターリク。トツァンドの学院にて魔法史の長をしております」
あとから入ってきた白マントが左手を胸に当てる仕草をした。学院、魔法史。何ひとつわからない。
「こちらはトツァンド城で司書の業務についております、スフと申します」
スフと呼ばれたのは褐色肌の若者だった。同様に左手を胸に当てる仕草をするさまを見ながら、俺は異世界というのはもしかしたらほんとなのかもしれないと初めて思った。
スフは見たこともない目をしていた。瞳はベリージャムみたいな色で、その中の瞳孔は深紅。まるで白ウサギの目みたいな色だ。カラーコンタクトをつけたって瞳孔の色は変えられない。つまりこの目は本物なのだ。
赤い目を呆然と見つめる俺をよそに紹介は続く。
「熊のグーォウ、烏のガーァゥリユーでございます。これらは賓様付になりますので、ご用がありましたらお申しつけください」
言われたことは右の耳から左の耳へと抜けていたと思う。視線がかち合った赤い目が居心地悪そうにそらされたので、俺はようやく我に返った。
「いったいどういう悪ふざけですか」
それなりに大きな声を出したつもりだったのに、出てきたのは情けないくらい頼りないかすれ声だった。それすら体にはこたえて、ひゅう、と喉が嫌な音を立てる。
「賓様は世界の境界を踏み越えてこちらにおいでになったのです」
最初からいたほうの白マントが静かに言った。
「世界の境界」
俺は小さな声で復唱した。声がそもそも出なかったし、だんだん不安にもなってきていた。
「突如として、知らない場所に来ていた。そうではございませんか」
「そうです」
俺はうなずいた。
歩いていた山道は細く、湿った落ち葉はすべる。その感触を俺はありありと思い出せた。小枝を踏んで靴底がずるりと移動することもあった。木漏れ日の中をとぼとぼと歩いた。道はどこまでも続いている。しばらくすると土ぼこりがスニーカーだけでなくジーンズの裾にもまとわりついてくるようになった。かっと晴れ渡った太陽がじりじりと首筋を焼いた。平坦で赤茶けた道はただただだだっ広く——
だだっ広い道だって? 俺がようやく違和感に気づいたのはそのときだ。顔を上げて見まわした先にはあるべきものがひとつもなかった。山道も、もさもさと生えた木々も、湿ってすべる落ち葉さえも。膝の丈くらいの草原が茫漠と果てしなく続いていた。土ぼこりの舞う一本道がまっすぐ伸び、そこに俺は立っていた。前方はるか遠くに、何か大きな石の建造物らしきものがそびえ立っているのが見えたのだった。
「トツァンドの城壁には東西南に門がございます。南門、アラアシの門を出た先はアラアシの野。アラアシはプーリアの国境であり、かつ、この野を抜けて国境の外へ出ることはできないと言われております」
回想は白マントの声でさえぎられた。俺は小さい声で尋ねた。
「できない、とは」
「これまでにアラアシを抜けてさらに南へ向かおうと試みたものは大勢おりました。しかしそのすべてが数日後にはアラアシの門の前でとほうに暮れて立っているのです。いつの間にか出発地点へ戻ってきてしまったと」
背筋がぞわっとした。
「ということは」
声がかすれる。咳払いをして続けた。
「俺が来た道を辿っても」
「お戻りになることはできないかと存じます」
白マントはまじめくさった声で答えた。
現実感がない。俺は衝動的に外の景色が見たくなった。どうせドッキリ企画かなんかで、この部屋もセットの張りぼてで、窓を開けたら撮影スタジオなんじゃないだろうか。立ち上がろうと思い、体を起こしてベッドから出ようとして——ふたたびめまいと息苦しさと冷や汗がどっと襲ってきた。体がまったく言うことを聞かない。まるで熱のないインフルエンザみたいだ。
前を向いたまま頭からぶっ倒れそうな俺を、すっと出てきた黒い大きな手が支えた。熊だ。立派な黒い爪がついている。グーォウと呼ばれた熊が後ろ足で立って前足を出していた。
「文献によりますと、賓様がこちらの空気にお慣れになるまで最低でも一カマーグかかるとのことでございます」
さっきよりしわがれた声が聞こえた。あとから来たほうの白マントだ。その声がしゃべる日本語は不思議なイントネーションを持っていた。俺の知る外国語話者のそれとも違う。一瞬日本語と聞きわけられないくらいなのだ。まるで鳥のさえずりのような音だ、と思った。
熊の手によって丁重に布団の上に戻されながら、俺はなんとか口を開くことに成功した。
「カマーグ、って、なんですか」
またあの不思議な声が答えてくれることを期待していた。
「カマーグとは六をひとまとめにした単位でございます。多くの場合は、六日間のことを指します」
鳥のさえずりのような年老いた声が答えた。
その不思議な響きに引きこまれつつ、俺はだいたい一週間か、と他人事のように考えた。一週間経てばこの息苦しさからもふらつきからも解放されるのだとして、そのころにはゴールデンウィークが終わってしまっているだろう。本来であれば即行で仕事に戻らねばならない。でも、と俺は思った。
もしこれがほんとに異世界で、もしほんとに来た道をたどっても元に戻れないのだとしたら。だとしたら仕事なんてもはやどうでもいい。家に帰れない、と考えると少しだけ不安がよぎった。しかし現時点では不安よりも期待——仕事、あの定年まで続いてしまうらしい日々から解放されるのかもしれないという——のほうが上まわっているみたいだった。結果的に俺は自分でもびっくりするくらい落ち着きはらった声で返事をしていた。
「なるほど、わかりました」
俺の返事を受け、最初からいた小さいほうの白マントが振り返って命じる。
「それでは、スフよ」
どうやら事前の取り決めがあったようだ。金髪の若者はその言葉を聞くやいなや、さっと部屋を出ていった。どうしてかはすぐにわかった。そう長いこと待たずに、スフは俺の朝食を持って戻ってきた。入れ違いに白マントふたりが退室していく。
用意された朝食はパンをどろどろに溶かしたようなおかゆにおまけ程度にニンジンやキャベツみたいな野菜が入ったものだった。こちらの食べ物に体が慣れるのにも時間がかかるそうです、とスフが申し訳なさそうに言う。でも味自体は悪くなかった。
俺が食事をしているあいだ、烏は空いた椅子の背に止まって翼に頭をつっこんでいた。いつの間にか眠りはじめていたようだ。熊は戸口の脇に腰をおろし、壁にもたれて黙っている。まるで休憩中の職人みたいな格好だった。
顔を丸ごと見せてくれているスフをなんとなく観察しながら俺はおかゆをすすった。褐色のなめらかな額はぐっと秀でていて、眼窩は深く落ちくぼんでいる。鼻梁は額からまっすぐに下に降りていた。いわゆるTゾーンが、本当にそのままTの字に見える骨格なのだ。
金髪の青年は礼儀正しく黙って俺が食いおわるのを待っていた。沈黙の中で俺の咀嚼音だけが聞こえる。ひとりでもごもごと食べているのが少し気まずくなった俺はあまり深く考えずに青年に声をかけた。
「スフ、さん」
俺の声を聴いたスフは驚いたようにまばたきをしてこちらを向いた。
「はい」
「スフさんはフードを被らなくて大丈夫なんですか?」
「スフ、とお呼びください」
不思議なイントネーションでまずそう言うと、スフは俺の質問に答えた。
「私はこの肌の色なので問題ございません」
「肌?」
肌の色に何か決まりがあるのだろうか。
「プーリアの方たちは……非常に肌が白いです。夏のあいだは肌を出しておくことができません」
「なるほど?」
わかったようなわからないような思いで俺は首をかしげた。メラニン色素がそうとう薄いとか、そういう話だろうか。というか、夏?
俺の様子を見ながらスフは説明すべきことがらに気づいたようだ。解説が続く。
「今は夏です。夏のあいだ太陽はふたつ昇りますが、」
「ふたつ?」
俺は思わず大きな声を出してからお約束のようにむせた。褐色の手が伸びておかゆの椀を掴む。俺はありがたく両手を離して大きく咳きこんだ。
咳はしばらく続いたので、呼吸がもとに戻るのにも相当時間がかかった。これはきつい。単純に咳も苦しいのもきついけど、それ以上にこれまでの生活では絶対にこんなふうにならなかったから釈然としない、そのことがきつかった。どうやら俺は体が弱くなってしまったみたいだ。頭ではわかっても慣れない。受け入れるのにはそうとう時間がかかりそうだ。確かに運動不足なサラリーマンではあったけど、決して病弱ではなかったのだから。
「落ち着かれましたか」
心配そうに言ってくれるスフの言葉に弱々しくうなずいて、俺は再度椀を受けとった。
「ありがとう」
口にした言葉は喉のところで七割ぶんくらい嗄れてしまった。
俺が食事を再開するのを注意深く見守りながらスフは話を続けた。必要以上に体調に踏みこんでこないのは優しさなのだろう。ありがたく甘えることにした。
「今は夏です。夏の間は太陽がふたつ昇るのです。一年を通して昇る大太陽は西から東。夏のあいだ一カマーグム、つまり三十六日間ほどだけ昇る小太陽が東から西。この小太陽の光が、プーリアの方たちには強すぎるのです。素肌をさらしておくと謎のできものが現れ、最後は血を吐いて苦しみながら……お食事中に申し訳ございません」
淡々とわかりやすく解説してくれていたスフだったが、最後は少し焦ったようだ。俺は首を振った。そもそもこの話を始めたのは俺だ。
「いや、大丈夫です。だいたいなんとなくはわかりました。それで日中はマントを欠かさないと?」
「その通りでございます」
まだやや硬い表情でスフはうなずいた。俺はうなずき返して、さじで椀を空にした。オゾンホールの下で皮膚がんが増えた、みたいな話は聞いたことがある。似たようなものなのだろうか。 ぼうっと考えているあいだにスフが手際よく椀を下げてくれた。厨房へ戻すついでにおふた方を呼んでまいります、そう言って金髪の若者は部屋の外へと消えていく。
部屋には俺ひとりと——座ったまま動かない熊と眠っている烏が残された。静かだった。ぐるりと石造りの室内を見わたして、俺は黒いな、と思った。さっきまでは白マントやらスフの金髪やらが目についていたが、今は烏も熊も、そして俺の髪の毛も、黒をまとった生き物だけが残っているのだった。
と、烏の頭が翼の下からひょいと出てきた。翼をぐっと背伸びするように伸ばすと、雨に濡れた犬みたいに体を震わせる。その勢いで短い羽根が一本、ひらひらと空中を舞って床に落ちた。
「まれびとさま」
イントネーションが不思議なうえにやや舌っ足らずなしわがれた声だ。聞き間違いだろうか。今聞こえた片言の日本語は烏のくちばしから出たように響いた。
黒くつやつやと光る烏がこちらを見ている。黙ってうなずいた。何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。スフの赤い目はいかにも異世界というおもむきだったけど、烏がしゃべるというのは何かもっとこう——そう、魔法めいたものが感じられる。その重みに少々威圧された。何かもっともらしいことを言わなければ、少なくとも「賓様」と呼ばれる、その特別感に見合ったことを口にしなくては、などと考え、結局とくに何も思いつかなかったのだ。当然だ、俺は何も特別じゃないし立派でもないのだから。
「まれびとさまは、やはり黒髪」
かあかあと鳴く、おなじみの烏の声が歌うように言葉を紡いだ。明らかに烏の声なのに、日本語として聞きとることができる。
「言い伝えは、ただしかった」
満足そうに烏は結論づけた。
「言い伝え?」
「はい、言い伝え。まれびとさまは、母なるイーと同じ黒髪。烏と、熊と、おなじ黒髪」
「黒という色には何か意味があるの?」
純粋に疑問だ。あと、母なるイーってなんだろう。
烏はうなずくようにくちばしを上下させると返事をした。
「はい、この世界、黒い髪の人間、いません」
「いない?」
「西のブガルク、あかあおきいろみどり。北のオルドガル、プーリア、うすい色。白っぽければ白っぽいほど、いい。東のステムプレ、茶色から金色。南は知りませんが茶色とききます」
「それは髪の毛の色が」
「はい」
「赤青黄色緑」
「そうです。たとえば僭主ザー・ラム、髪の毛はあかるいみどりいろ」
「ファンタジーだな」
俺はつくづく感心してしまった。何から何までお膳立てが揃っている。日本ではあまりにもありふれている黒髪がこの世界では存在しないもので、逆にアニメの世界でしか見ないようなカラフルな髪の毛は別に珍しくない。単に行き倒れているだけだった俺が今ここで丁重な扱いを受けているのも、この凡庸な黒髪のお陰なのだろうか。
「とても、よかった」
俺の困惑はそっちのけで、烏はひとり満足気につぶやいた。何がだろうと思ったが尋ねることができなかった。ふたたび扉をノックする音が聞こえ、スフと白マントふたりが入室したからだ。
「それでなんですか、闇を駆逐する、とかいう話になるんですよね」
三人がもとの席につくのを確認した俺は口火を切って尋ねた。烏の謎めいた話も、きっとそのことと関係があるはずだ。
「さようでございます」
先の白マントがうなずいたのと同時に、があ、というしわがれ声と小さなプロペラのような音、それに顔に当たる風圧に見舞われて俺は思わず目をつぶった。
「こちら、ございます」
ガーァゥリユーだった。
「どうぞ」
すまして(実際にすましていたのかどうかはわからない。ただそういう風に聞こえた、というだけだ)言いながら布団の上に巻物をぽとりと落とす。ころころと転がり落ちる気配を見せたそれを手で押さえた。普通の紙とはちょっと違うずっしりとした感触がした。
「失礼いたします」
長と呼ばれている、あとから来たほうの白マントがそう言って巻物を取り上げた。長は講義を始める教授よろしく咳払いをすると、巻物をするすると伸ばした。広げてみるとそれは大きな地図で、どうやら湖を描いているらしかった。
「まずは我らのプーリアとその周辺についてご説明をさしあげましょう」
不思議なしわがれ声はそう続けた。
地図を読むのは嫌いじゃない。ただし今見せられているのは地図とはいっても縮尺のかなり小さいもので、都市はマッピングされているもののその詳細はわからなかった。しかも書かれている字が読めないので全部教えてもらうしかない。
ザーハットクヮバハウゼナマキィという舌を噛みそうな湖、通称「大湖」の東にあるのが俺が今いるらしいプーリアという国だ。ほかの地域とは山脈でへだてられているので気候が違う。この国の北部には常緑樹の森があるが、今いるあたりは草原地帯で遊牧が盛んだということだった。ステップ気候なのだろう。
大山脈地帯を越えた大湖南岸は温暖で、しかし砂漠が広がる。ずっと西に行くと海へと流れ出る大きな川、ブガルク川がある。湖と川の交点にあるのが都市国家ブガルクだ。さっきガーァゥリユーが言っていた僭主が治めているらしい。
「もとはあまたある西戎都市国家のひとつにしか過ぎませんでしたが」
そう忌々しそうに白マントが年老いた声で言った。
「せいじゅう」
「西にある夷狄のことをそう仰るのではないですか」
「いてき。……ああ、夷狄」
久しぶりに聞いた。世界史の授業以来じゃないだろうか。不思議なイントネーションの声は現代日本人が使わないような語彙を用いて俺に話しかける。いったいなんなんだ。
話はブガルクへと戻っていった。今から数十年前、奴隷階級にあったある若者(「奴隷! 奴隷などという忌まわしい制度が彼の地では永らくそのままになっているのです」)がさまざまな手段を使って台頭し、最終的に世襲制の領主を打ち破って都市国家の頂点へと着いた。僭主ザー・ラムと呼ばれるようになった男はまず西に腕を伸ばし、制海権を手中に収めた。続いて大湖北岸のオルドガルと呼ばれる地域に進出した。
ブガルクに狙われた北岸はというと、もともといくつかの領主が曖昧な境界線のもとに治める地域だった。痩せた土地で居住者が少なく、そのせいで放っておかれたような土地だ。このあたりは湖岸ぎりぎりまで森が迫っている。多くの民は湖岸に集落を作って半漁半農の生活を営む。それぞれの生活は互いに森にさえぎられている。そのためブガルクがひたひたと西から迫り来ることにもなかなか気づくことができなかったのだった。現在のオルドガルは名目上それぞれの領主がひきつづき治めてはいるが、領主にも従うべき相手ができた。それが僭主ザー・ラムだ。
プーリアは国境となっている大山脈地帯の際までブガルクに進出されたことになる。事実ブガルクは大湖沿岸地域を手中に収めたも同然のふるまいを始めている。大湖のことを「大ブガルク湖」と呼びはじめたのだ。しかしプーリアはまだ、ブガルク軍の侵入を許していない。大山脈地帯から東側では誇り高い独立が保たれている。
「握りこぶしの親指には旧都ブイジーがございます。王都プーリアからはちょうど対岸にあたります。プーリア王国の以前の首都であり、母なるイーが最後の日々を過ごされた場所でもございます」
まただ。また母なるイーだ。とりあえず俺は聞き流すことにした。おそらくこれは信仰の話で、だとすると背景に神話がセットになってついてくる。今聞いていたら大変なことになりそうだ。
「ブイジーの北にはプーリア国内でもとくに古く、深い森がございます。深森です」
茶色っぽい紙の上でしわがれた手が地図の該当する部分に小さく丸を描いた。一瞬目を疑うほど白く、骨張った指だった。
「国外からプーリアへ入る道は三つございます。ひとつは南部のサルンへと寄港する交易航路です。ふたつ目は南岸からの山越えでございます。王都近くには比較的御しやすい山越え路がございますが、ブガルクがここを通ることは難しかろうと存じます」
「砂漠があるからですか」
「さよう」
白マントは未だに顔を現さないながらも、できの良い生徒に対するように満足気にうなずいた。
「南岸航路は未だ開拓されておりません。寄るべき港もございませんし、南蛮は闇夜に紛れ、毒矢を用いて海賊行為を行います。さしもの蛮族ザー・ラムもこれには手を焼いているようです」
南蛮、と聞いて鴨南蛮そばが思い浮かぶ。朝めし、食べたばかりとはいえ質素だったしな。昨日からずっと食べてなかったし。
「三つ目は北岸から大山脈地帯を越える道です。こちらは山が急峻な上、下山した先が直接深森に通じます。そのためプーリアは安全なのです」
「どういうことですか」
俺は困惑して尋ねた。木を隠すなら森に、ではないけれど、ひっそりと山越えをした部隊が森に隠れてゲリラ戦を開始したら打つ手がないのではないだろうか。
「賓様がいらっしゃったのは、このことに関係があるのでございますよ」
訳知り顔、いや顔はマントで隠れて見えないから訳知り声、とでも言うべきだろうか。そんな様子で長は言うと、ふたたび地理の授業へと戻っていく。
この国にある大きな都市はふたつ。ひとつが大湖東岸にあるサルンで、ここは代々王の第二王子が領主となるのが慣わしなのだという。世嗣も王位継承までサルンに住む。サルンは商都で、国外交易の拠点でもある。遊牧が盛んなプーリアは繊維産業にも秀でており、大湖周辺のすべての金持ちが顧客になる。
この点でプーリアは有利だった。サルンに上陸できるのを民間の限られた商船だけに絞り、軍事的な脅威から逃れることに成功したのだ。現在はサルンへの入市権で肥えた国内外の商人たちが港を自治している。その中にはブガルクの出身者もいる。へたに軍事行動を取られると自分たちの商売があがったりになるのだから祖国への牽制も効く。かくしてプーリアは独立を守りつつ、サルンにごく限られたエリアとはいえ多国籍都市を成立させたのだった。
もうひとつの都市が南岸の大山岳地帯ふもとにある王都プーリアだ。こちらは即位した王と、それに伴って「ご一新」した——つまり後継に地位を譲った王族、貴族(諸侯というらしい)が住む。サルン領主も即位のタイミングで交代する。プーリアは大湖を北に望む急峻な崖の上に建て上げられていて、三方をぐるりと山に囲まれている。外に出ていくためには定期交易船に乗るしかない。
「プーリアへの入市は厳密に管理されております」
長は説明した。
「王族ですら、許されるのは年に一度の祭のときのみでございます」
「どうしてですか」
「王は祭司であり、プーリアは神殿なのです」
長はもったいぶった口調で答えた。
「何を祀っているんですか。その、母なるイーですか」
ついうっかり興味が先だって聞いてしまった。めんどくさいことになるぞと、さっき我慢したのに。
「最後の日々のあと、母なるイーがどこに旅立たれたかはわかっておりません」
よくわからない返事が返ってきた。
「しかし最後の日々に、母なるイーが日々祈りを捧げていたことは記録によって伝わっております。王はその跡を継ぎ祈るのです」
「何を、誰に祈るんですか」
「魔王とふたたび相まみえる日の遠からんことをです」
いよいよファンタジーらしくなってきた。異世界、封建制、宗教、そして魔王。その単語を聞いた瞬間ついうっかり吹き出しそうになった俺はようやっとのことで真顔を保った。相手に対して失礼かどうか、はあまり考えなかった。むしろ今の体力で吹き出したらその瞬間呼吸困難になりそうだ、という理性が役立った。
長はまじめな調子で説明を続けた。なんでも今から数百年ほど前、オルドガルの一領主が彼我の差に目をつけた。自分の土地は痩せていて寒く、森を切り開かなければ何ひとつままならない。一方、大山脈地帯をへだてたプーリアは素朴ながらも変化に富んだ地形を持ち、農業も遊牧もできている。不公平ではないかというわけだった。
領主は格差解消のための簡単な作戦を立てた。まずおとりの艦隊を仕立て、水上から東岸北部へ圧力をかける。プーリアがそれに気を取られている間に、大山脈地帯を経由してプーリア入りする本隊が深森から奇襲をかける。艦隊は水上から本隊の南下を助ける。わかりやすい。
しかしこの領主の思惑は成就しなかった。待てど暮らせど、先にプーリア入りしているはずの本隊からの沙汰がない。しびれを切らした領主が勢いあまって水上からの侵攻を開始したときにことは起こった。深森から「死の風」が吹いたのだ。湖上で北風の直撃を受けた艦隊は壊滅し、領主もろとも湖の藻屑と消えた。死の風はそのまま吹いて王都にまで達し、王を含めた少なからぬ貴人と都の中に住む民間人の命を奪ったという。深森の中を移動していたはずの本隊はついぞ発見されなかった。死の風ですべて死に絶えたのだろうと考えられている。
死の風を吹かせるのが魔王そのものであるとプーリアは信じてきた。オルドガル艦隊が壊滅したときもプーリアはすでに魔王復活の予兆を受けとっていた。それはまず深森の変化から始まる。周辺の森と同様に常緑でありながら、普段はややしおれたような、生気のない木々がぱらぱらと生えているのが深森だ。そんな森になぜ「深い」という名がついたのか、それは魔王の出現と関連がある。深森は魔王によって息を吹き込まれるのだ。突如として青々としはじめた森は最後にはもはや緑というよりは黒に近い色合いにまで成長し、つねに見られないほどに密集する。この変化は深森の中心から始まり周縁部へと広がる。周縁部は少し変わった風景が見られる。普通の森が枯死していくのだ。
それと時を同じくして、生き物たちにも変化が見られる。兎に狐、穴熊や鹿など、深森をすみかとしている生き物たちが、追われるかのように深森の外へと大移動を始めるのだ。
生き物たちの大移動を最初に確認するのは、深森に境界を接する北部シュマルゥディス領の人々だ。突如として獣が増える。文字通り濡れ手に粟、素手で兎を捕らえられるほどに生き物たちが大移動を行うので、どんな無学な領民ですら異変に気づくのだ。
いったん異常が観測されれば、その報は必ず王都まで届けられることになっている。王は大湖へとせり出した峰へ登る。深森の変化を確認するためだ。それはすぐに確認できる。そのころには深森は黒くたくましく恐ろしげなまでに膨れ上がっている。周縁にほかの森の骸骨をぶら下げながら。
魔王の復活が起こらないことを日夜祈念するプーリアは、しかし手をこまねいているだけでもないのだという。深森の変化よりも先に、プーリアはひとつの予兆を受け取る。それは光の子の誕生だ。
「光の子は生まれながらにして、いえ生まれる以前より役目を担っております。プーリア語を会得するよりも先に古代神聖語を話し、夢で母なるイーにまみえ、賓様をお迎えしてともに旅立ちます」
「古代神聖語?」
巫覡めいた存在も謎だったが、さらに謎なのが古代神聖語という単語だ。なんだそれは。
「賓様がお話になっているこの言葉でございます」
「俺が」
理の当然、とばかりに押し切られて納得しかけたが意識の片隅に残った違和感が仕事をした。それって。
「現代日本語じゃないですか」
俺のつっこみに長は驚いたふうもなく返してくる。
「歴代の賓様が古代神聖語を日本語とお呼びになるのは存じております。私やこちらに控えておりますスフは古代神聖語を学んで会得したのでございます。一方プーリア・トァン殿下は」
さっきから一言もしゃべらない赤い目をした青年についてふれてから長は最初の白マントを振り返った。
「我々と異なり完全に正しい古代神聖語をお話しになるようです。これは私どもも今日初めて、賓様がお話しになるのを拝聴して正確に理解いたしましたが」
確かにそうなのだった。最初に入室してきた白マントは俺にとってまったく違和感のない日本語を話す。一方、スフと魔法史の長の日本語はイントネーションが不思議だ。さっきも言ったけど、聞いているとなぜか鳥のさえずりを思い浮かべてしまうのだ。
納得しかけた俺はあることに気づいた。
「ということはつまり……ええと、殿下は」
小さいほうの白マントが困ったように揺れた。
「トァンとお呼びください」
「それなら賓様っていうのもやめてもらえます?」
答は絶対に否だろうなと直感的にわかってはいたものの俺は尋ねた。その直感は正しかった。
「賓様は、賓様でございます」
さらに困ったように、しかしきっぱりとトァンは言った。
「じゃあ俺も殿下と呼びますよ」
軽口なのかなんなのかわからない答えを返して、俺は話を戻した。
「殿下が今の光の子だと、そういうことですか」
「さようでございます」
魔王と賓の間に立たされるらしい巫覡は少女の声で答えた。
「夢で母なるイーに会う」とか、魔法史の長から聞いた話の中にはいくつか不穏なものが混じっている。しかしまずは俺に期待されているらしい何かを明らかにするほうが先だろうと思った。その内容はどういうわけかなんとなく想像がつくし、想像の範囲内で言えばものすごく聞きたくないようなたぐいのものな気がする。するんだけど、巻きこまれている以上聞かないわけにもいかないだろうなと思った。公務員生活も三年目になると人生に対して変な諦めがついてくる。
「殿下は日本語を話すから光の子だと、そういうわけですよね」
確認のための俺の言葉に、しかし長は軽くフードごと頭を振った。
「それだけではございません。また後ほどご覧に入れましょうが、光の子も賓様も、違わずその方であられる証拠をすでにお持ちなのですよ」
謎めいた言葉だ。俺は思わず両手のひらで顔をこすった。相貌に何か変化があって、それで俺が異世界からの客人だと判断できるようになっているのかと思ったのだ。しかしとくに何もなさそうだった。
俺の様子に気づいたのかどうなのか、長は説明をする姿勢に戻ったようだった。
「賓様がおいでになってすぐ、殿下は商都サルンへ向けて早熊を出しております。サルンはすぐに王都へと伺いを立て、おふたりの取るべき手立てを確認して連絡をよこしてくるでしょう」
「はやぐま」
「熊でございます。他国では長距離の移動手段に馬なぞを使いおるようですが、プーリアがともに暮らすのは母なるイーとともにあった熊、そして烏だけでございます」
何やらナショナリズムにふれるような話だったらしい。ちょっとめんどくさいなと思いながら俺はついうっかり聞いてしまった。
「羊はどうなんですか」
「羊は野で飼うものです。また食物であり、衣服です。この地図も羊の皮からできております」
白く年老いた指が布団の上に置かれた地図をとんとんと叩いた。
わかったようでわからない説明だ。面倒そうなので、とりあえず深追いするのはやめた。
「つまり要約すると」
形ばかり長にうなずいて俺は話を要約してみる。
「光の子が生まれて、俺が来た。魔王が出現してるんですね?」
「さようでございます。民にはまだ伏せられておりますが、昨年より王都はすでに深森の変化を確認しております。王はすぐに賓様をお招きになるでしょう。それまでしばしの間ですが、ここトツァンドでお体をお休めください」
一足飛びに話が終わりのほうまで飛んでいったので俺はちょっとあわてた。
「ええと、それで俺は何をすれば良いんですか、結局?」
その言葉を発したとき、ほんの一瞬だけだが空間に何かの余白が生まれたように感じた。しかし違和感に首をかしげる間もなく、少女の声が答えた。
「賓様がお持ちになっている力は、魔王を斃すことができるものでございます」
「力?」
「さようでございます。王都から深森までは、わたくしが賓様をご案内申し上げます」
まさかの勇者枠だった。いや、異世界に呼ばれちゃう時点でいわれてみれば確かにヒーロー枠なんだけど、そういうのってもう少し若い子なんだと思ってた。十代後半とかの。なんでアラサーの公務員が、トレッキングしていて途中で記憶がなくなるような——それで気づいたときには満足に体も動かせないような体で布団に寝かされているような俺が勇者枠に入るんだ?
「魔王を斃す? 俺が? 正気ですか?」
弱々しい声でだいぶ失礼なことを言ってしまう。しかし本音だ。
「さようでございます。賓様のお力は間違いのないものでございます」
「なんなんですか、その力って」
「これからご覧に入れましょう」
少女は先ほどの長と同じようなことを言った。
話をしていてだんだんわかってきたことがある。俺は恐ろしいのだった。まだ頭のどこかでこれが手の込んだドッキリなのではないかという疑いを持っていたのだが、今や疑いは期待にまでその形を変えていた。異世界。なるほど。来た道から戻れない。たいへんけっこう。このまま永遠に続くのではないかと思われた日常から解き放たれたのかもしれないという淡い期待は俺をちょっと気分良くさせた。しかしその代償が死の風を吹かせる魔王退治なら話は別だ。絶対にそんな仕事したくない。
異世界だというこの場所では熊が二本足で立って召使いみたいに動きまわる。ひいては烏が人語を話しはじめた。それだけでもじゅうぶん気味が悪いのに、あまつさえ体を張って正体不明の魔物をどうにかせよと言われているのだ。無理だ。無理だし、そんなとほうもないことをさも当然かのように俺に期待してくるこの白マントたちが何よりも恐ろしかった。
俺は粘った。
「もし斃せなかったらどうするんです? もしくはあなたたちの待ち人が俺じゃなかったら? いや、もし俺だったとしても、その力とやらの使い方がわかってない人間が、どうやって魔王に立ち向かえるというんですか? 相手は風だけで一国の軍隊を滅ぼせるんでしょう」
思わず普通の声量で、いつもみたいにひと息にしゃべった。意外といけるのではと思った刹那、背中の奥のほうから波打つ強い咳が襲いかかってきた。げほげほと体を震わせていると、しだいに頭の芯がぼうっとしてくる。やっぱり空気が薄い感じがする。
「不思議にお思いになるのも無理からぬことです」
なんでもないかのように長が口を開いた。
「殿下、魔法石の説明に移ってもよろしいでしょうか」
「お願いいたします」
少女の明瞭な答えが聞こえる。なんなんだこいつらは。人が強く咳きこんでいるのに心配もせず当然のように放っておくとは。ようやく咳が治まってきた俺は、しかしどうすることもできずに長が立ち上がるのをぼんやり眺めた。
次の瞬間、俺はベッドの上に積まれたたくさんの枕に寄りかかる姿勢で目を閉じていた。どうやら咳が治まって少しの間だけ意識が飛んでいたらしい。聞き取れない音声が近くで聞こえる。長のものだ。おそらくプーリアの言葉なんだろう。音程が上がり下がりするその調子は意味がまったくわからないがゆえにより鳥のさえずりめいている。スフに何やら言いつけているようだった。
「ご気分はいかがですか」
少女の声がした。トァンだ。枕元に立っている。
「大丈夫、です。俺、寝てましたか」
「ほんの数分のことにございます」
少女は答えるとスフのほうを振り返った。
「スフ、魔法石を」
トァンは金髪の青年に命じた。スフは小さくうなずくと立ち上がり、ベッド脇に置かれた小さな机の上にいくつかの石を並べはじめた。
赤く光る石。淡く青みを帯びた石。銀色の渦巻きが底に潜む石。茶色や灰色、黄色などが縞になって流れる石もあった。少しずつ形や大きさが違う。天然石に見える。続いて、何の表情もない白い石も数個並べられた。
「これは魔法石という特殊な石です。プーリア国内のみに産出し、熊たちによって採掘されます。石の形はさまざまですが、共通した特性がございます。賓様、こちらの白いものをひとつ手にお取りくださいませ」
俺はトァンの言うがままに右手を出し、光らない白い石をひとつ取り上げた。触った瞬間にぱちりという感触がして、石が少し熱を持ったように感じた。
「そのままお持ちいただくと……いかがでしょう」
「……光が」
俺は小さな声で答えた。みるみるうちに白い石が内側に輝きを持ちはじめたのだった。黄金色で、たまにちらちらと青い遊色がうごめく。俺の指先のまわりにまとわりつくようにしていたそれは、一分もしない間に石全体を光で埋め尽くした。
「それが賓様のお持ちになる魔法。闇を退ける魔法、光魔法とも呼ばれるルウシイでございます」
「光魔法?」
俺は急に馬鹿らしさを感じて石を机上に置いた。石を持ったときの感触を俺は正確に記述することができる。静電気だ。真冬にドアノブをさわって起きる、あのばちっとした感覚そのものだった。静電破壊される闇ってなんなんだ、ICチップじゃあるまいし。
「プーリアの民はそれぞれに魔力を体内に持っております。長よ、拝見しても良いですか」
トァンは隣に座る老人に尋ねた。
「もちろんでございます」
少ししわがれた声で老人は答え、また別の白い石を手に取った。それはしばらくするうちに温かみのある赤い光で埋めつくされた。
「長は火の魔法であるアウグの持ち主です。このほかに、土の魔法であるゼウム、水の魔法であるパニイ、風の魔法であるハワウ」
そう言いながらトァンは青と赤の石を手に取って俺のほうへよこした。
「お手にとってご覧ください。どうお感じになりますか」
俺は黙ってふたつの石を受けとった。赤いほうはほのかに熱を発していて、ずっと持っていると緊張で冷えた指先が温まった。もうひとつの青いほうはというと何となく湿っているように感じられる。乾燥した指先でなでる。濡れた感触がする。しかし水滴がついているわけではない。気のせいなんだろうか。温かいのに近づけてみるとどうだろうと思って、俺はふたつの石を持って両手で閉じこめてみた。
「いかがですか」
トァンが再度尋ねた。
「これは……蒸しタオルを当ててるみたいだ」
青いほうから感じる湿度と赤いほうからの熱が相まって、手の中はほかほかになっていた。両手を開くと一瞬だけ赤い石の表面が曇り、そしてすぐにもとの色に戻った。
「このふたつももとはただの白い石なのでございます。しかし魔力を持つ者がふれると、このように中に魔力が宿ります。プーリアの民はゼウム、パニイ、アウグ、ハワウ、この四つのうちどれかの魔力を必ず持ちます。プーリア生まれの熊と烏も同様です。一方」
そう言ってトァンは振り返った。
「スフよ、ご覧に入れて」
金髪の青年はうなずくと白い石を手に取った。今度は何色になるかなと見つめるが、石に変化は起こらない。
「スフはプーリアの東、ステムプレの生まれです。そのため魔力を持たず、魔法石を扱うことができません」
「つまりあなたたちの国の人たちだけが特殊能力を持っていると」
「そのように申しても良いかもしれませんね」
トァンは微笑んだ。
「そしてわたくしですが」
流れるように話を続けながら、少女はスフから石を受け取った。白い手のひらに乗せられた石は、しばらくすると俺が持ったときのように黄金色に輝きはじめた。
「この世界の民が持つことのないはずの光魔法、ルウシイを持って生まれました。わたくしは光の子、賓様をお迎えし無事に旅の最後までお連れするのがその定めなのでございます」