はじまり(4)
家には先に篤子に入らせて、恭介は目立たないようにそそくさと部屋に戻ったため、洋子は額に怪我していることを、夕食の時まで気が付かなかった。部屋から出てきたときは、絆創膏に張り替えていてそう目立たないが、洋子はすかさず指摘する。
「どうしたの?その頭」
「ちょっと切っちゃいまして」
篤子のばつの悪そうな顔が目に入ったが、恭介は気が付かないように振る舞い、あまり突っ込まれても困るので話題を変える。
「それより今日の面談なんですが」
皿にサラダをとりながら、学業優秀で友人もできて、とまずは学校生活の話をする。それを聞いて洋子はほっとした様子だ。
「進路はちょっと混み入ってますので、食事の後にしましょう」
恭介が皿を洗い食器洗濯機に並べ、お茶の準備をしてダイニングに並べる。ちなみに後片づけとお茶の準備、それに風呂洗いは恭介の担当になっている。
恭介が篤子に自分から話をするように促すと、少し口籠った後に、意を決したように口を開いた。
「私は、中学を出たら働く」
洋子はそれを聞き、驚いて口元に手を当てる。それを見ても篤子の勢いは止まらない。
「いつまでもお世話になってるわけにはいかないでしょう。私が働いて部屋を借りる」
洋子は恭介に救いを求める目を向ける。高校進学については、恭介と話し合った上でネゴはできているのだ。恭介はどこに解決の糸口があるのか、探りを入れてみる事にした。
「篤子さんは、将来やってみたいこととかないんですか?」
少し間が開いてから口を開く。
「ない」
本当は、色々やってみたいことはある。勉強を頑張っているのもそのためだ。でも、母との独立が先だ。
「今の世の中の制度だと、大変残念ですが、中卒で就ける仕事も、取れる資格も、驚くほど少ないです」
現実と言うものはそう優しくはない。篤子はそんなことがわからないほど愚かではなく、百も承知だ。
「高卒検定があります。それを取れば一緒でしょ」
まずは独立、そして勉強して、大検とって、と筋道を考えている。
「検定受けて取るのも否定しません。ただ、それは、通常のルートよりも険しく難しいことです。働きながら勉強するのは大変です。なにより、給料が少ないです。大抵の職種では、学歴に応じて基本給が決まります。お二人で働いて、部屋を借りて、というのもいいですが、苦しい生活になりやすいのはそういう事でしょう」
二人で、という言葉にどきっとする。篤子は母に無理をして欲しくなく、一人で働くつもりだった。だが、自分が働きだせば、洋子も働くはずだ。
”思いつかなかった”
篤子は唇を噛む。今のまま恭介の世話になっていれば、洋子は無理をすることもなく、穏やかに暮らせるだろう。母は今まで自分のために頑張ってきた、自分が望まない男との子供だったということは分かっている。それでも、何よりも自分を大切にしてくれる母が何よりも大事だ。そう思うと気持ちが揺らぐ。
「そんなのはわかっています」
叫ぶように言い放つ。ここで、威を張らないと、自分が負けてしまいそうに感じた。
そんな顔を恭介はさらりと見ていた。
「と、言うのがよく言われる建前です」
恭介はあっさり、今までの話はどうでもよいような切り方をする。
「私が思うのは、高校時代というのは、一生に一度しか送れないものということです。楽しいかどうなのかはさておき、色々経験できるチャンスを逃してしまうと、後で取り戻せません」
横で洋子がうなずく。篤子も行けたら楽しそう、というのはわかっている。できることなら行きたいのだ。
何か言い返さなければ、と言葉を探すが、何も思い浮かばない。声が出ずに目が泳ぐ。
自分たちが甘えることのできない状態だから、就職という選択なのに。
「これもよく言われますね」
またも恭介はあっさりと流す。篤子は行きたいという気持ちが見透かされているように思った。
「まぁ、簡単に言いますと、ここにいればお金の心配もないのですから、行ってみればいいんじゃないですか。行って見て、価値がないからと途中でやめても同じでしょ?」
それはそうだけど、と今までの流れで、これでいいような気がしてきてしまう。
「使えるものは使えばいいんです。自分の目標をかなえようとしている時は負けじゃないんですよ」
恭介はカップから紅茶を一口飲んだ。
”負けって”
篤子ははたと顧みる。いったい自分は何と戦って、何に負けると言っているのだろう。どんな状況でも自分の思うようになるよう、考えて進んでいく。恭介はその環境をくれると言っている。
”くれるものを捨てる必要はない”
洋子も納得済みのようだし、その案でいいのではないか、と思い始めたが、振り上げたこぶしを下げるのは難しい。篤子は素直になることもできず、つまらない言い訳をする。
「けど、学校でもうみんなに言っちゃったし」
恭介の説得に負けたというのもある。それに、一緒の高校に行こうよ、と言ってくれている新しい友達たちに、就職すると言い張ったので、コロッと意見を変えるのはなにか恥ずかしい気がした。
小声でポソポソと言い訳する篤子を見て、なんでも良いから友達に対する言い訳が欲しいのだろう、と恭介は思う。
「わかりました。私が懇願します。高校に行ってください。お願いします」
「皆に言っちゃうよ、高校に行ってくれって泣きながら土下座されたって」
学費も出してくれると言っているのに、素直になれずわざと嫌なことを言ってしまう。
「ちょっ、篤子」
洋子が血相を変えて叱ろうとするのを止めて、恭介は頭を下げた。
「泣きはしませんが、これで一つ」
篤子にはもう打つ手がない。
「わかりました。行ってあげます」
篤子はうまく言いくるめられた感じがする。ここにいれば母は穏やかに過ごせるだろうという気持ちと、自分が高校に行けると思ったらとても嬉しくなった。でも、そういう顔を見せたくなくて、部屋に慌てて戻る。
「本当にごめんなさい」
洋子は申し訳なさそうに、ずっと謝りそうな様子だが、恭介はそれを遮った。
「いいんです。それより、洋子さん」
恭介は座りなおして言った。
「洋子さんも大学に復学しませんか?」
「は?」
あまりに意外過ぎて、なんの話なのかすら、洋子は理解できない。
「前にA美術大学に通われてたとおっしゃられてましたよね」
前にいろいろと取り決めた際に、少し話をしたのを恭介は覚えていて、退学した経緯も分かっている。学校によっては、復学するのに試験免除と言うところもあり、A美大はまさにそうだった。
「失礼ですが、大学の事、調べさせていただきました。単位制度が変わってしまったので、また最初からになるそうですが、復学できるそうです」
「えっ」
洋子は絵が好きで、中学、高校と美術部で過ごし、美術大学に入学した。しかし、大学一年の夏、父が事業の失敗で自殺をし、後期の授業料が払えなくなり、退学したのだった。
そのあと、生活費と借金の返済のために水商売に入ったが、世間知らずの自分は男に騙され篤子を出産した。今でも、夢で絵を描いている自分を見ることがある。起きて現実の世界に引き戻され、思わず涙する。
絵をまた学べたら、とは思う、あの頃に戻れるのでは、と。それはかなわぬことと知っていても。
「チャンスです。ここから通えます」
「えっ、いや、そんなわけには」
篤子の高校の話をしていて、自分に重ね合わせていたからだろうか、心が大きく揺れる。そんな様子は恭介が見ても一目瞭然だった。
「篤子さんにもいい刺激になると思うんです。洋子さんの前向きな姿は」
”篤子のために”
確かに、篤子には苦労している姿しか見せたことがない。人生は辛いものだと思ってるに違いなく、明るい未来を示すことができれば、とは思う。しかし、現実は厳しいものだということもわかっている。先立つものも必要なのだ。
洋子は首を振り、やっぱり無理です、と答えた。
「学費ですか?」
恭介の質問に、嘘をついても仕方がないとうなずく。雄介は恭介に遺産を残したわけではなく、恭介の持つ資産運用の手助けをしていただけだ。篤子の学費と二人の生活費だけでも申し訳ないくらいなのに、あてもない話をしても仕方ない。
「A美大の学費ですが、私が出しましょう。お気に病むなら、卒業後にでも分割でお支払いください」
一体この人は何を言ってるんだろう、という顔で恭介を見つめる。そんな空手形でいいわけがない。
「しかし、お返しできるかわかりません。就職できるかもわからないのに」
「そんなこと言い始めたら、誰が未来のことをわかるというんです?もしかしたら、世界的アーティストになるかもしれないじゃないですか。さっき篤子さんにも、やってみなきゃわからないってところで頷いていたでしょう?」
投資ですよ、と熱く語るでもなく、淡々と話す恭介を洋子は不思議な気持ちで見た。
「しかし、夢を見る時ではないですし」
「それでは、いつ見るつもりなんですか?」
”いつ、いつ?”
もうこれから一生夢を見ることはないのか。いやだ、それは嫌だ。洋子の気持ちがぐらぐらと動く。今までの不幸な人生が、もしかしたら、とわずかな希望が湧くのを止められない。
「夢を、見たい」
洋子の目から涙がこぼれた。
***
篤子はリビングで、なにか洋子と恭介が言い合いしているのを気が付いてはいる。だが、どうせ自分のことだろう、と出るのはやめにした。その後、洋子が泣きはらした目で部屋に戻ってきたのを見て、ますます何も言えず、おとなしく寝ることにした。
翌日、篤子は学校で、受験をすることを柊に伝えた。
「佐々木君に説得されちゃった?」
柊かニコニコしながら尋ねる。
「泣いて頼むもんですから。かわいそうになっちゃって」
篤子は憎まれ口を叩く。
「そうかぁ、佐々木君らしいねぇ。菜々ちゃんの時も一生懸命だったし。それで篤子ちゃん、志望校はどうする?」
菜々?誰だろう、と思いつつ、まだ決めてないことを伝えると、佐々木君に相談しておいてね、と高校案内のパンフレットの山を受け取った。
***
「志望校なんですけど」
帰りが遅くなった恭介がリビングで休んでいると、篤子がおずおずと話しかけた。
「公立のB高校にしようかと思いまして」
恭介はふーん、と言って、篤子の持ってきたパンフレットをパラパラめくる。恭介自身、ここのエリアの出身なので、学校の特色は把握している。
「どうしてそこがいいんですか?」
実は、柊から情報を得ていて、仲のよい友達からはC大学付属高校を受けよう、と誘われているそうだ。レベルも学区内では上位に属していて申し分ない。公立を選ぼうとしているのは、学費のことだけだそうだ。
「校風があってるかなって」
そんなことを思っていないのは顔に書いてあるが、そ知らぬふりで返事をした。
「そうですか」
恭介は他のパンフレットをパラパラと見たりして、C大学付属高校のパンフレットを抜き出した。
「ここはどうです?」
気持ちを隠せず篤子の目が輝く。
「えっ、でも」
「ここがいいんじゃないかと思います。制服もかわいいですし」
パンフレットの生徒の写真のところを開いて、篤子に見せた。
「へ、変態ですか。制服好きなんて」
だが、篤子の顔が喜色にあふれるのを見逃すことはない。
「篤子さんにこのブレザー、よく似合うと思いますよ」
恭介は再び自分でパンフレットを見ながら言う。
「し、仕方ないですね。一応志望校の中に入れておきます」
恭介は、私からも連絡入れておきますから、と伝える。
それから二日後。夜、恭介が帰ってくるのを待ちわびていた篤子が、玄関まで飛び出てきた。
「ちょっと、恭介さん!なんでC高校の推薦受ける話になってるんですか!」
恭介は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えながら答える。
「柊先生が、ぎりぎり間に合いましたって言ってましたよ」
特別推薦枠で、篤子の成績だと高確率で合格できるらしい。ほかの友人たちも推薦というので、頼んでおいたのだ。
「そんなこと聞いてません!合格したら行かないといけないんですよ!」
社会通念上、推薦での合格を断ることはできないと篤子は聞いている。
「合格してもいかないつもりだったんですか?」
恭介は不思議そうな顔を作って尋ねた。
「えっ、いえ。そういうわけでは」
仲良くなった友達と同じ学校に行きたくないわけがない。でも、と篤子は思うが、次の恭介の言葉に自分の耳を疑った。
「じゃあ問題ないですね。洋子さんも春から女子大生ですし、めでたいですねぇ」
「えっ?」
今、何か不思議なことを言われた気がして、篤子の文句はそこで引っ込む。それを無視して恭介は居間までいくと、鞄から書類を出す。
「洋子さん、手続き終わりましたよ」
洋子が嬉しそうに書類を受け取る。篤子は母のそんな嬉しそうな顔を、生まれて初めて見た。
***
「お母さんが女子大生になるとは」
もう寝る寸前で、二人はベッドで話している。
「私もこんなことになるとは思ってなかったのよ。恭介さんと話してたら、なぜかそういう話になってしまって」
篤子もいつの間にか希望の高校に行くことになったりして、不思議な感じがする。
「大丈夫? その」
なんだかうまく言いくるめられてしまった気がするが、お金の問題は避けては通れない。篤子も私学に行くし、洋子もその点は理解している。
「学費は貸してもらうことになってるから」
実際には、洋子がこの家の面倒を見るということで話はついている。ただ、それを篤子に言うと、また邪推するのではないかということでの表向きの説明だが、やはりその点を心配してきた。
「それを盾に、なにかされないかな」
今のところ何もされてはいないし、要求されてもいない。だが、義父が死んだ時のように、人は豹変するものだ。がんじがらめにしておいて、とよからぬことを企んでいるかもしれない。
「そうねぇ、それはわからないけど、信じてみることにしたの」
篤子はずいぶん楽観的な見方だな、と思う。なんの見返りも求めないなんて、そんな善人がいるだろうか。
「信じれそうな人かな」
篤子にはわからない。あの田舎に引っ越してから、誰一人信用できる大人がいなかった。誰であろうと簡単に信用するのはとても危険だ、という気持ちがある。
「短い付き合いだけど、人を羨んだり、うまく使ってやろうというところが全然ないでしょう? 私、水商売でいろんなお客さん見てたけど、どんなに取りつくってもそういうの隠せないものなのよ」
”そうかもしれないけれど、まだ付き合い短いし”
「あと、アカネさんかな。あの子、相当難しい子よ。でも恭介さんを信じ切ってるでしょう?」
どう難しいかは篤子にはわからないが、信じてたというか、甘えていたというか。そういう機敏はまだ理解できなかった。
「なにかね、すごいチャンス来たーって感じがするのよ」
大丈夫か?この親、と篤子は思う。そのノリで結婚したんじゃないよね?と不安になる。
「普通の大学生とは歳も違うし、苦労することは多いとは思うんだけど、でも、途中であきらめてたのを、やり直せるって素敵じゃない?」
篤子は母が自分を産んで、自分のせいで色々なものをあきらめた、と責任を感じていた母の人生が、今新しいものになろうとしている、と思えて、篤子自身もとてもうれしく感じた。
ただ、恭介については、まだ信用できない。
”あの男、口がうまい。ジゴロってやつかも”
やはり少し語彙が古い。