表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その丘の向こうで  作者: クロ
第一章
4/145

はじまり(4)


 家には先に篤子に入らせて、恭介は目立たないようにそそくさと部屋に戻ったため、洋子は額に怪我していることを、夕食の時まで気が付かなかった。部屋から出てきたときは、絆創膏に張り替えていてそう目立たないが、洋子はすかさず指摘する。


「どうしたの?その頭」


「ちょっと切っちゃいまして」


 篤子のばつの悪そうな顔が目に入ったが、恭介は気が付かないように振る舞い、あまり突っ込まれても困るので話題を変える。


「それより今日の面談なんですが」


 皿にサラダをとりながら、学業優秀で友人もできて、とまずは学校生活の話をする。それを聞いて洋子はほっとした様子だ。


「進路はちょっと混み入ってますので、食事の後にしましょう」


 恭介が皿を洗い食器洗濯機に並べ、お茶の準備をしてダイニングに並べる。ちなみに後片づけとお茶の準備、それに風呂洗いは恭介の担当になっている。

 恭介が篤子に自分から話をするように促すと、少し口籠った後に、意を決したように口を開いた。

 

「私は、中学を出たら働く」


 洋子はそれを聞き、驚いて口元に手を当てる。それを見ても篤子の勢いは止まらない。


「いつまでもお世話になってるわけにはいかないでしょう。私が働いて部屋を借りる」


 洋子は恭介に救いを求める目を向ける。高校進学については、恭介と話し合った上でネゴはできているのだ。恭介はどこに解決の糸口があるのか、探りを入れてみる事にした。


「篤子さんは、将来やってみたいこととかないんですか?」


 少し間が開いてから口を開く。


「ない」


 本当は、色々やってみたいことはある。勉強を頑張っているのもそのためだ。でも、母との独立が先だ。


「今の世の中の制度だと、大変残念ですが、中卒で就ける仕事も、取れる資格も、驚くほど少ないです」


 現実と言うものはそう優しくはない。篤子はそんなことがわからないほど愚かではなく、百も承知だ。


「高卒検定があります。それを取れば一緒でしょ」


 まずは独立、そして勉強して、大検とって、と筋道を考えている。


「検定受けて取るのも否定しません。ただ、それは、通常のルートよりも険しく難しいことです。働きながら勉強するのは大変です。なにより、給料が少ないです。大抵の職種では、学歴に応じて基本給が決まります。お二人で働いて、部屋を借りて、というのもいいですが、苦しい生活になりやすいのはそういう事でしょう」


 二人で、という言葉にどきっとする。篤子は母に無理をして欲しくなく、一人で働くつもりだった。だが、自分が働きだせば、洋子も働くはずだ。


”思いつかなかった”


 篤子は唇を噛む。今のまま恭介の世話になっていれば、洋子は無理をすることもなく、穏やかに暮らせるだろう。母は今まで自分のために頑張ってきた、自分が望まない男との子供だったということは分かっている。それでも、何よりも自分を大切にしてくれる母が何よりも大事だ。そう思うと気持ちが揺らぐ。


「そんなのはわかっています」


 叫ぶように言い放つ。ここで、威を張らないと、自分が負けてしまいそうに感じた。


 そんな顔を恭介はさらりと見ていた。

 

「と、言うのがよく言われる建前です」


 恭介はあっさり、今までの話はどうでもよいような切り方をする。

 

「私が思うのは、高校時代というのは、一生に一度しか送れないものということです。楽しいかどうなのかはさておき、色々経験できるチャンスを逃してしまうと、後で取り戻せません」


 横で洋子がうなずく。篤子も行けたら楽しそう、というのはわかっている。できることなら行きたいのだ。

 何か言い返さなければ、と言葉を探すが、何も思い浮かばない。声が出ずに目が泳ぐ。

 自分たちが甘えることのできない状態だから、就職という選択なのに。

 

「これもよく言われますね」


 またも恭介はあっさりと流す。篤子は行きたいという気持ちが見透かされているように思った。


「まぁ、簡単に言いますと、ここにいればお金の心配もないのですから、行ってみればいいんじゃないですか。行って見て、価値がないからと途中でやめても同じでしょ?」


 それはそうだけど、と今までの流れで、これでいいような気がしてきてしまう。


「使えるものは使えばいいんです。自分の目標をかなえようとしている時は負けじゃないんですよ」


 恭介はカップから紅茶を一口飲んだ。


”負けって”


 篤子ははたと顧みる。いったい自分は何と戦って、何に負けると言っているのだろう。どんな状況でも自分の思うようになるよう、考えて進んでいく。恭介はその環境をくれると言っている。

 

”くれるものを捨てる必要はない”

 

 洋子も納得済みのようだし、その案でいいのではないか、と思い始めたが、振り上げたこぶしを下げるのは難しい。篤子は素直になることもできず、つまらない言い訳をする。


「けど、学校でもうみんなに言っちゃったし」


 恭介の説得に負けたというのもある。それに、一緒の高校に行こうよ、と言ってくれている新しい友達たちに、就職すると言い張ったので、コロッと意見を変えるのはなにか恥ずかしい気がした。


 小声でポソポソと言い訳する篤子を見て、なんでも良いから友達に対する言い訳が欲しいのだろう、と恭介は思う。


「わかりました。私が懇願します。高校に行ってください。お願いします」


「皆に言っちゃうよ、高校に行ってくれって泣きながら土下座されたって」


 学費も出してくれると言っているのに、素直になれずわざと嫌なことを言ってしまう。


「ちょっ、篤子」


 洋子が血相を変えて叱ろうとするのを止めて、恭介は頭を下げた。


「泣きはしませんが、これで一つ」


 篤子にはもう打つ手がない。


「わかりました。行ってあげます」


 篤子はうまく言いくるめられた感じがする。ここにいれば母は穏やかに過ごせるだろうという気持ちと、自分が高校に行けると思ったらとても嬉しくなった。でも、そういう顔を見せたくなくて、部屋に慌てて戻る。


「本当にごめんなさい」


 洋子は申し訳なさそうに、ずっと謝りそうな様子だが、恭介はそれを遮った。


「いいんです。それより、洋子さん」


 恭介は座りなおして言った。


「洋子さんも大学に復学しませんか?」


「は?」


 あまりに意外過ぎて、なんの話なのかすら、洋子は理解できない。


「前にA美術大学に通われてたとおっしゃられてましたよね」


 前にいろいろと取り決めた際に、少し話をしたのを恭介は覚えていて、退学した経緯も分かっている。学校によっては、復学するのに試験免除と言うところもあり、A美大はまさにそうだった。


「失礼ですが、大学の事、調べさせていただきました。単位制度が変わってしまったので、また最初からになるそうですが、復学できるそうです」


「えっ」


 洋子は絵が好きで、中学、高校と美術部で過ごし、美術大学に入学した。しかし、大学一年の夏、父が事業の失敗で自殺をし、後期の授業料が払えなくなり、退学したのだった。

 そのあと、生活費と借金の返済のために水商売に入ったが、世間知らずの自分は男に騙され篤子を出産した。今でも、夢で絵を描いている自分を見ることがある。起きて現実の世界に引き戻され、思わず涙する。

 絵をまた学べたら、とは思う、あの頃に戻れるのでは、と。それはかなわぬことと知っていても。


「チャンスです。ここから通えます」


「えっ、いや、そんなわけには」


 篤子の高校の話をしていて、自分に重ね合わせていたからだろうか、心が大きく揺れる。そんな様子は恭介が見ても一目瞭然だった。

 

「篤子さんにもいい刺激になると思うんです。洋子さんの前向きな姿は」


”篤子のために”


 確かに、篤子には苦労している姿しか見せたことがない。人生は辛いものだと思ってるに違いなく、明るい未来を示すことができれば、とは思う。しかし、現実は厳しいものだということもわかっている。先立つものも必要なのだ。

 洋子は首を振り、やっぱり無理です、と答えた。


「学費ですか?」


 恭介の質問に、嘘をついても仕方がないとうなずく。雄介は恭介に遺産を残したわけではなく、恭介の持つ資産運用の手助けをしていただけだ。篤子の学費と二人の生活費だけでも申し訳ないくらいなのに、あてもない話をしても仕方ない。


「A美大の学費ですが、私が出しましょう。お気に病むなら、卒業後にでも分割でお支払いください」


 一体この人は何を言ってるんだろう、という顔で恭介を見つめる。そんな空手形でいいわけがない。


「しかし、お返しできるかわかりません。就職できるかもわからないのに」


「そんなこと言い始めたら、誰が未来のことをわかるというんです?もしかしたら、世界的アーティストになるかもしれないじゃないですか。さっき篤子さんにも、やってみなきゃわからないってところで頷いていたでしょう?」


 投資ですよ、と熱く語るでもなく、淡々と話す恭介を洋子は不思議な気持ちで見た。


「しかし、夢を見る時ではないですし」


「それでは、いつ見るつもりなんですか?」


”いつ、いつ?”


 もうこれから一生夢を見ることはないのか。いやだ、それは嫌だ。洋子の気持ちがぐらぐらと動く。今までの不幸な人生が、もしかしたら、とわずかな希望が湧くのを止められない。


「夢を、見たい」


 洋子の目から涙がこぼれた。


***


 篤子はリビングで、なにか洋子と恭介が言い合いしているのを気が付いてはいる。だが、どうせ自分のことだろう、と出るのはやめにした。その後、洋子が泣きはらした目で部屋に戻ってきたのを見て、ますます何も言えず、おとなしく寝ることにした。


 翌日、篤子は学校で、受験をすることを柊に伝えた。


「佐々木君に説得されちゃった?」


 柊かニコニコしながら尋ねる。


「泣いて頼むもんですから。かわいそうになっちゃって」


 篤子は憎まれ口を叩く。


「そうかぁ、佐々木君らしいねぇ。菜々ちゃんの時も一生懸命だったし。それで篤子ちゃん、志望校はどうする?」


 菜々?誰だろう、と思いつつ、まだ決めてないことを伝えると、佐々木君に相談しておいてね、と高校案内のパンフレットの山を受け取った。


***


「志望校なんですけど」


 帰りが遅くなった恭介がリビングで休んでいると、篤子がおずおずと話しかけた。


「公立のB高校にしようかと思いまして」


 恭介はふーん、と言って、篤子の持ってきたパンフレットをパラパラめくる。恭介自身、ここのエリアの出身なので、学校の特色は把握している。


「どうしてそこがいいんですか?」


 実は、柊から情報を得ていて、仲のよい友達からはC大学付属高校を受けよう、と誘われているそうだ。レベルも学区内では上位に属していて申し分ない。公立を選ぼうとしているのは、学費のことだけだそうだ。


「校風があってるかなって」


 そんなことを思っていないのは顔に書いてあるが、そ知らぬふりで返事をした。


「そうですか」


 恭介は他のパンフレットをパラパラと見たりして、C大学付属高校のパンフレットを抜き出した。


「ここはどうです?」


気持ちを隠せず篤子の目が輝く。


「えっ、でも」


「ここがいいんじゃないかと思います。制服もかわいいですし」


パンフレットの生徒の写真のところを開いて、篤子に見せた。


「へ、変態ですか。制服好きなんて」


 だが、篤子の顔が喜色にあふれるのを見逃すことはない。


「篤子さんにこのブレザー、よく似合うと思いますよ」


 恭介は再び自分でパンフレットを見ながら言う。


「し、仕方ないですね。一応志望校の中に入れておきます」


 恭介は、私からも連絡入れておきますから、と伝える。


 それから二日後。夜、恭介が帰ってくるのを待ちわびていた篤子が、玄関まで飛び出てきた。


「ちょっと、恭介さん!なんでC高校の推薦受ける話になってるんですか!」


 恭介は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えながら答える。


「柊先生が、ぎりぎり間に合いましたって言ってましたよ」


 特別推薦枠で、篤子の成績だと高確率で合格できるらしい。ほかの友人たちも推薦というので、頼んでおいたのだ。


「そんなこと聞いてません!合格したら行かないといけないんですよ!」


 社会通念上、推薦での合格を断ることはできないと篤子は聞いている。


「合格してもいかないつもりだったんですか?」


 恭介は不思議そうな顔を作って尋ねた。


「えっ、いえ。そういうわけでは」


 仲良くなった友達と同じ学校に行きたくないわけがない。でも、と篤子は思うが、次の恭介の言葉に自分の耳を疑った。


「じゃあ問題ないですね。洋子さんも春から女子大生ですし、めでたいですねぇ」


「えっ?」


 今、何か不思議なことを言われた気がして、篤子の文句はそこで引っ込む。それを無視して恭介は居間までいくと、鞄から書類を出す。


「洋子さん、手続き終わりましたよ」


 洋子が嬉しそうに書類を受け取る。篤子は母のそんな嬉しそうな顔を、生まれて初めて見た。


***


「お母さんが女子大生になるとは」


 もう寝る寸前で、二人はベッドで話している。


「私もこんなことになるとは思ってなかったのよ。恭介さんと話してたら、なぜかそういう話になってしまって」


 篤子もいつの間にか希望の高校に行くことになったりして、不思議な感じがする。


「大丈夫? その」


 なんだかうまく言いくるめられてしまった気がするが、お金の問題は避けては通れない。篤子も私学に行くし、洋子もその点は理解している。


「学費は貸してもらうことになってるから」


 実際には、洋子がこの家の面倒を見るということで話はついている。ただ、それを篤子に言うと、また邪推するのではないかということでの表向きの説明だが、やはりその点を心配してきた。


「それを盾に、なにかされないかな」

 

 今のところ何もされてはいないし、要求されてもいない。だが、義父が死んだ時のように、人は豹変するものだ。がんじがらめにしておいて、とよからぬことを企んでいるかもしれない。

 

「そうねぇ、それはわからないけど、信じてみることにしたの」


 篤子はずいぶん楽観的な見方だな、と思う。なんの見返りも求めないなんて、そんな善人がいるだろうか。


「信じれそうな人かな」


 篤子にはわからない。あの田舎に引っ越してから、誰一人信用できる大人がいなかった。誰であろうと簡単に信用するのはとても危険だ、という気持ちがある。


「短い付き合いだけど、人を羨んだり、うまく使ってやろうというところが全然ないでしょう? 私、水商売でいろんなお客さん見てたけど、どんなに取りつくってもそういうの隠せないものなのよ」


”そうかもしれないけれど、まだ付き合い短いし”


「あと、アカネさんかな。あの子、相当難しい子よ。でも恭介さんを信じ切ってるでしょう?」


 どう難しいかは篤子にはわからないが、信じてたというか、甘えていたというか。そういう機敏はまだ理解できなかった。


「なにかね、すごいチャンス来たーって感じがするのよ」


 大丈夫か?この親、と篤子は思う。そのノリで結婚したんじゃないよね?と不安になる。


「普通の大学生とは歳も違うし、苦労することは多いとは思うんだけど、でも、途中であきらめてたのを、やり直せるって素敵じゃない?」


 篤子は母が自分を産んで、自分のせいで色々なものをあきらめた、と責任を感じていた母の人生が、今新しいものになろうとしている、と思えて、篤子自身もとてもうれしく感じた。

 

 ただ、恭介については、まだ信用できない。


”あの男、口がうまい。ジゴロってやつかも” 


 やはり少し語彙が古い。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ