正常はもう終わり、僕は僕の現実を生き始める
「後ろめたい事など何一つ無い」
彼はそう言って笑った。
僕達は何処を目指すとも無く走らせてきた車から降りて、夕焼けを映した空を並んで見ていた。気持ちの悪い情景だ、と思う。それは僕に今まで流してきた、そしてこれから流すであろう血を連想させたからだ。自分のものなのか、他人のものなのかは知れないけれど
、しかしこれから血は流れる。それを望もうとも望まなくとも。
元々、僕は巻き込まれた人間だった。
つまり、彼と道中を共にするという事は自分の意思から選び取った事ではない。
済崩し的にそうせざるを得なかったというだけである。いわば物語への途中参加のようなものだ。既に転がっている物語へと上手く身を併せなければ弾き飛ばされてしまう。そして後は外から傍観するしかない。けれど、傍観するだけならばそれはそれでいいだろう、と思う。つまり、本当ならこんな物語の中に参加などしたくはないのだ、僕は。不平を並べても現状は改善される事が無い。
オーケー、腹を括るしか無いんだ。全てはなるようにしかならない。
夕焼けはやがて暗闇に変わり、僕達は車に戻
った。
ライトは付けないまま、その場に車を止めて
その時を待つ。沈黙と静寂。耐えかねた僕は煙草に火を付けようとした。
「煙草はNGだ」
彼はそう言うと僕の手からライターを奪い取った。そして、続けた。
「火を付けずに吸えるのなら好きにすればいいけれど」
僕はライトを付けずにいる意味を忘れてしま
っていた。なんて間抜けなんだ、と自分を呪う。煙草に付けられた火は、暗闇の中で此処に人が居る事を教えてしまうだろう。勿論そんな事はそうなる可能性でしかないけれど、出来ることなら自分達の身を危険に晒すような可能性は全て取っ払ってしまいたいと思うのが普通だろう。勿論僕も例外ではない。けれど、煙草に火を付けようとした。何も考えないで、沈黙と静寂に耐え切れず。我ながら細い精神をしている上に間抜けな事この上ない。
「ごめん」
僕がそう言うと、彼は暗闇の中で肩をすくめたようだった。
「仕方ない。君は元々こんな事に慣れてはいないんだから」そう言った後、ダッシュボードを開いて拳銃を取り出して僕に渡した。
「使えるとも思えないけれど、持っとけ。威嚇にはなるし、最悪でも鈍器になってくれるからな」
僕はそれを受け取った。思ったよりも、ずっと重い。危うく落としそうになった。
「引き金を引けば弾が出るって訳じゃないんだろう?」僕がそう尋ねると、彼は頷いて言
った。
「そんなにシンプルじゃない。けれど難しい訳でも無い。撃つだけならただ安全装置を外せば良いだけの話だからな」
彼は僕に安全装置の外し方を教えてくれた。窓の外に神経を集中させたままだったけれど僕にその使い方を教える事はそんなに手間がかかるような事では無いらしい。
「手順を踏むんだ。正しい手順を、然るべきやり方で」
そう言って、彼は再び視線を車窓の外に移した。僕はその横でこれから起こるべき出来事について思いを巡らせていた。例えば、僕が誰かを撃たなければならないとして、その時に少しでもスムーズに事を運べるようにイメージをしていたのだったけれど、何度やっても上手く行かなかった。
僕は相手に安全装置を外した銃口を向けて、威嚇する。僕は震えているだろう。それを見た相手は余裕を取り戻して近づいてくる。その手には武器が握られている。銃か、ナイフか。銃ならば僕が撃つよりも早く相手が僕を打ちぬく。ナイフならば引き金を引けない僕の首元をそれが切り裂く。鮮血に塗れる。
これから流される血は、僕のものに他ならないだろう。けれど、それらは全てイメージに過ぎない。僕の稚拙な想像が現実に追いつけない事を祈るだけだ。
彼は相変わらず身動きすらせずに車窓の外を睨んでいる。
「来たぞ」
彼がそう言うと、車道の方からこちらへ向か
って来る車が見えた。ライトはこちらの方を照らしているけれど、まだ直接にそれを浴びた訳では無い。気づかれているのだろうか?僕がそんな事を考えていると、彼は
「行うべき事は解っているな?」と聞いた。
僕は黙って頷くと、銃を強く握り締めた。
車はだんだんとスピードを落とし、やがて停車した。男が二人降りてくる。長身で痩せ型
の影とずんぐりとした影だった。僕は思わず身を強張らせた。
男達は迷い無く此方へと向かって来ているようだった。少なくとも僕にはそう見えた。覚悟を決めようと思った次の瞬間、銃声がしてずんぐりとした男が後へ倒れこんでいるのが見えた。彼の方を見ようとした時、フロントガラスが砕けているのが目の端に移った。そしてもう一発の銃声。彼が車の中から、二人を撃ち抜いたのだった。
「俺があいつらなら結果は逆だったな」
彼はそう言って、ドアを開けて車の外へと出た。躊躇い無い足取りで二人の男が倒れた場所まで進んでいく。僕も慌てて車を降り、彼の後を追った。
火薬の臭いが鼻を突くような車の中の空気から車外の冷たい空気に触れ、身が強張るのを感じた。身が強張った理由はそれだけでは無い。二人の人間が銃で撃たれるという瞬間を目の当たりにした実感が追ってやってきたのだ。或いはそれは一歩間違えれば僕達だったのかもしれない。銃弾が自分の身を打ち抜く瞬間を思い浮かべると、ぞっとする。助かった、と思った。
彼は二人の身体を調べると、2丁の銃を自分のジーンズに捻じ込んだ。低い呻き声が聞こえる。どちらのものかは解らないけれど、それは一人の声だけだった。
「こんなにも上手く当たるとは思っていなかったな」
彼はずんぐりとした方を見下ろして、言った。
僕がそれを覗き込むと調度男の頭を銃弾が打ち抜いているのが解った。即死だ。
という事はこの呻き声は長身の方か。
「急所は外したんだ。まあ、当たってしまったら仕方ないって程度の腕しか無いんだけどな、本当は」
彼はそう言って僕の方を向き肩をすくめた。
「そいつ、大丈夫なのか?」
僕がそう言うと彼は笑っているような声で答えた。
「俺達の安全なら大丈夫だ。まさかこいつの命の心配してるわけじゃないだろう?」
僕は頷いて、長身へ一歩近づいた。右胸を撃たれているようだった。傷口からは鮮血が吹き出ている。これじゃあ銃を持っていたとしても上手く身体を動かせないだろうなと思った。ましてや男の持っていた拳銃は既に彼が奪っている。
「喋れるか?」
彼は男に尋ねた。男は苦しそうな呻き声の合間に言葉を吐いて答えた。
「お前ら…もう…後には…戻れないぞ」
彼は笑って言った。
「そんな言葉を最後の言葉にしたいのか?映画じゃないんだから、さ。なあ、お前らは俺の事を知っていたのか?」そう言って、彼は男の顔を覗き込んだ。男は閉じかけた目で彼の顔を見つめ、言った。
「こんな…若造に…殺されちまうなんて」
彼は僕の方を振り返ると、満足したように言った。
「こいつらは俺達の事を知らないみたいだ」
僕はその言葉に心の底から安堵した。
これで、終わりだ。もう誰も僕達を追ってはこないだろう。
話は数時間前に遡る。
僕はその時にこんな血生臭い事に巻き込まれるなんて考えてさえいなかった。
春の、午後。その響きだけで穏やかな陽光が木々の間から降り注いでいるような、柔らかい風が頬を撫でる心地よい瞬間を想像してしまう僕はきっと想像力が乏しいのだろう。ともかく、季節は春で、そして僕は太陽が南中を迎えた後の街を歩いていた。大学は午前で終わり、僕はバイトまでの時間をぶらぶらと潰していたのだった。
遅い昼ご飯を食べる為にチェーンのハンバーガーショップに入り、チーズバーガーのセットを頼んで席に付いた。
冷めないようにセットのポテトを食べていると、どこからか携帯のバイブの音が聞こえたのだった。そんなもの無視すれば良かったのだけど、珍しく周りには誰も居なく、きっとそれは誰かが忘れていったんだろうな、と思
った。普段ならそんなもの気にしなかったのだけど、たまたま、本当にたまたまその携帯が自分の視界の端に映っていた為に、手にしてしまったのだった。留守電に切り替わらないのか?と思いながら、しつこくコールを続ける相手がもしかしたら持ち主かも知れない
、と思って電話を取った。
「もしもし」
僕がそう答えると、電話口からは有無を言わさず、一方的に言葉が返ってきた。僕はその後に電話を拾ったものですけど、と言いたかったのだけどそんな事は一切無視して一気に最後まで話すと、相手は電話を切った。
内容はこうだ。
「取引は失敗。馬鹿が金を奪われた。鞄には発信機が付いている。追って殺せ」
それだけを告げて、電話は切れた。僕は呆然とそれを聞いて、そしてそれを元あった場所へ戻した。僕が取った、という事は相手には解らないだろう。僕は聞いてなかった、何も
、何一つ知らない。
そう思って席に戻ろうとした時、男が一人僕の持っていた携帯に視線を注いでいた。若い男だ。痩せすぎの身体で、僕と同じ位の身長だろうか。男は携帯を指差して、僕に向かって尋ねた。
「今、その電話取った?」
僕が首を振ると、男は携帯を手に取り、着信履歴を調べ始めた。厄介な話だ、と思うような余裕は無く、ただこれから一体何が起こるのかという事を考えながら、僕はその場を逃げ出したい衝動に駆られた。
「聞いてるじゃん。これ、通話着信。さっきだな。28秒。ねえ、一体何を話したの?」
男は僕に向かってそう問うた。
僕は暫く無言でいたけれど、諦めてさっきの電話の話をした。
「だけど、僕には何の事か、さっぱり」
男は少し目を伏せて何かを考えているようだ
った。そして、顔を上げると、僕に向かって言った。
「悪いけど、付き合って」
僕はそれを拒もうと試みたけれど、結局無為に終った。その電話を聞いた時点でこうなってしまうであろう予感はしていたのだけど。
結局済崩し的に彼の車に乗せられてしまったのだった。
そして今では立派な人殺しだ。もっとも殺したのは僕では無いのだけれど。
こんな風に簡単に人生のルーレットは想いも寄らない結果を招くなんて知らなかった。鞭で居る事は免罪符にはならない事を知った。
それは充分に教訓となる。
「ゲームは終わりだ」
彼はそう言って僕にスコップを手渡した。
僕は、それを受け取っても暫くは呆けて何も出来ないままだ。彼は肩をすくめて言った。
「家に帰るまでが遠足です、ってか」
そして、スコップで穴を掘り始めた。僕は漸く彼が何をしようとしているのかを理解し、横に並んで穴を掘った。深く、深く。
彼はそんな僕を見て言った。
「明日からは、いつも通りの暮らしが待ってるんだ」
僕達は男の身体を穴の中に沈めた。二度と地面に現れないように。僕がそんな事を祈っていると、彼は辺りから石を探しては男の身体の上に被せるように投げ入れた。
「このままじゃ野犬に掘り返されちまう、明日からの君の日常生活も危機に晒されちまうぜ?」
僕は彼に習って石を拾い上げては投げ入れた。男の身体が見えなくなるまで、幾つも。
そして、砂を掛け強く足で踏み固めると漸く一連の作業を終えた。
彼は笑って言った。
「相棒になるか?」
僕はその言葉に慌てて首を振った。彼は静かに僕の瞳を眺めて、頷く。
「君は普通の人間だろう、きっと」
僕はその言葉に胸を抉られたような気分になった。人殺しに見初められるのは嫌だ、けれど普通の人間だって言われてしまう事も嫌な気分になるものなのだ。
彼はそんな僕の気持ちを察したのか、付け加えた。
「つまり、君はまともな人間だって事だ」
僕はその意図する事が解ったような気がした。まともじゃない世界は確かに存在する。今垣間見たような世界だ。そして、僕はそんな世界で生き延びられる程タフではないだろう。
彼が言葉で指示してくれなければ明日からの生活さえ送れなかったろうな人間だ。
彼が運転する車で、初めて会ったファーストフード店にたどり着くと、彼は笑って握手を求めてきた。僕は戸惑ったけれど、その手を握り返すと、彼は笑って言った。
「まともな人間なんて、本当は少ないんだぜ?」
僕はその意味が解らず彼に返す言葉を選べなかった。
彼は車に乗り込むと、エンジンを掛けて発信させた。視界の中で車が遠く、小さくなり消えてしまった後も僕はただ立ち尽くし、それが消えてしまった先を眺めるだけだった。
その間にある境界線を必死に目を凝らしてみようとしたけれど、見えない。
僕は一体そこにあるはずの境界線のどちら側にいるのだろうか?
僕は本当に、彼の言うまともな人間なのだろうか?
解らない。ただ、数時間前に流された血だけが現実なのだと思う。
その血を流させるつもりは無くても、流れてしまったのだ。時計は戻らない。
僕は、人の死を見届けた。
ただ、それだけだ。
そして、明日からはまた僕の退屈な日常に帰るのだろう。否応無く。
それは、とても幸せなのだろうか?不幸な事なのだろうか?
幸せなんてどうにだって定義出来る。普通の幸せなんて人の数だけ存在するのだろう。
だったら、僕にとっての幸せは一体難なのだろうか?退屈な日常の繰り返しよりは非日常の方が望ましい。だったら。
僕は彼に躊躇せずついていくべきだたのだろうか?今ではもう答えなんて求めるべくもないけれど。
僕は僕の生活に戻る、それだけだった。




