第十話 最強の大狼・参
幻日とは、屈折によって太陽の本来の位置とは別に光が見える大気光学現象だ。
出自を同じくするスコルとハティという狼がそれぞれ日食と月食を司るように、マーナガルムもまた幻日を司る。
ならば。同名であり近似の性質を持つであろう目の前の障害が同様に幻日を司るのならば、成る程この現象に説明は付く。
マナを媒介にし魔力で編んだ、本体と同等の分身。
これが本来の幻日と同じく実態の伴わない錯覚であったのなら話が簡単だったのだが、それならば奴が最強と謳われるわけがない。
再度の激突からどれだけの時間が経ったのか。
三体のマーナガルムはそれぞれが別個の意思を有しているかのように動き、それでいながら寸分の隙もないようなコンビネーションを見せる。
ただでさえ手を焼いていた相手が搦め手を使ってきただけでも厄介であるのに、それだけに収まらない事実が俺を苛む。
「チィッ! 厄介な! 触れない癖に触れてくる、どういう了見だ!」
思わず口を吐いた悪態が示すように、奴の分身体は俺がどれだけ爪で薙ぎ、牙を突き立てようとも霞を食むように意味を成さない。一方で、分身体が振るう爪や牙は俺の身体を切り穿ってくるのだ。
あたかも、幻日の光輝に目映さを感じるように。
それだけではない。分身体を幻日と称するのなら、本体は今や太陽であると言わざるを得ないだろう。
これまでは掠り傷程度でしかなかった奴の爪牙が、獰猛な肉食獣に相応しいだけの威を示しているのだ。
俺の身体が弱体化した訳ではない。変身した際に定めた状態から逸脱することは、俺自身ですら一度元の姿に戻らないことには不可能なのだ。弱体化などが意味を成すわけがない。そもそも身に滾る力の充実感に変わりはないのだ。
そう、つまりこれは、奴の性能が急激に上昇している。あるいは、今の状態こそが奴にとっては本来の有り様なのか。
地を滑るように駆ける一体を左前肢で叩きつけるように引き裂く。しかしそこに手応えはない。腹に牙が突き立てられる。
跳躍した一体が上空から強襲。鋭い爪が身を裂くのを構わず、噛みついている一体ごと振るい払うように身を捻る。その勢いを利用して隙を窺っていたもう一体に突撃を行うも、視覚としては強かに打ち付けた己の身が虚を抜く。
そうと理解した瞬間に急制動し身構えるも、その時には既に奴の爪が目前に! 直ぐ様後ろへと跳躍して躱す。
一番厄介なのが、本体と分身体の別が効かないことだ。視覚的には全く同じ像を映し、感覚的には寸分たがわない密度を感じる。
奴へと触れて初めてそれが本体か分身かが解る有り様なのだ。
俺を中心に置き、挑発するように一定間隔でグルグルと周回する三体。その瞳に慢心も侮りも嘲りも無い。これまでの生で何度と無く見てきた、冷たい殺意に凪いだ瞳だ。
事ここに至っては己の不明を認める他無いだろう。
思い上がり侮っていたと。
獅子が狼如きに負ける道理はないと驕っていたと。
確かに。奴を倒すこと、それ自体は容易だ。元の姿へと戻り諸供に踏み潰すなり、薙ぎ払うなりすれば良い。
だが、それは逃げだ。敵わぬと、敗けたと認めたことになる。理屈ではない。感情が、意思が屈服したと認めることに他ならない。
誰がそうと思わなくとも、その事実は俺の中で毒のように苛み続けることになる。
初志貫徹。俺は、ネメアーの獅子であるならば、ネメアーの獅子と成った“俺”ならば奴に勝てると判断した。
ならば勝たねばならぬ。違えてはならぬ。
咆哮を轟かせる。
低く、重く。
裂帛では足りない。
雷鳴りのように、天を裂く雷音を!
敵は強大だ。認めよう。その力は驚異だ。認めよう。奴は俺を殺しうるだろう。認めよう。俺は奴に劣っていたのだと認めよう。
だが、奴が勝利する未来だけは許容できない。
夜陰を裂いて輝く、七色の銀光を纏う最強を見据える。
恐れるな。構うな。この肉体は最強だ。皮も肉も幾らでもくれてやる。
だが、命と勝利は俺が貰う!
無意識下にあった本能的な痛みへの忌避感を捨て去り、意気を高め気炎を迸らせる。
四肢を弦に、地を弓として、矢の如く疾り、左手側の一体に狙いを定め機先を制す。
俺の動きを合図にするように残りの二体が躍りかかってくるのを感じる。
ガヂンッ! と大口開けた顎が虚を噛んだ。分身体の方だったか。
ハズレを引いた事実を意識の外に捨て、即座に身を捻って僅かに早かった方へと爪を振るう。爪が薙いだのは大地と、その上で群生する草花のみ。
ならば残りこそが本体である。
最初の一体が横腹に牙を杭込ませている。
次の一体が振り抜いた右前肢に喰らい付いた。
だが、そんなことはどうでも良い。
むしろ好都合だ。グッ、と力むことで杭込み、喰らいついた牙が俺の身体から抜けないようにする。こちらが触れないのだから無意味かも知れないが、なに構わない。それならそれで防御は高まる。ハズレへと僅かに割いた意識をここで完全に切る。
それらと並列して。
間隙を穿つように、顎門をギロチンよろしく振り落とさんとする本体に、こちらから飛び込むように突っ込むことで返礼とする。
――どれだけの速度を誇ろうとも、的が自ら迫る状況では意味など成さないだろう?
強かに激突し、縺れ合い、組み合いながら、もはや決して離さぬと大狼の肩口に牙を突き立てる。
魔力によって強化されているのだろう。鋼でも食むような歯応えを感じながらも、そんなものは知らぬとばかりに、全力でもって無理矢理に皮を穿ち、肉を裂き割って、骨へと牙を突き込ませる。
分身体の抵抗が激しくなる。肉を喰い千切られる鋭い痛みを感じるが、元よりくれてやる気でいたのだ。どうと言うことはない。
本体も必死に暴れているが、今や右前肢で顔を押さえ付け、左前肢で腹を抑え込んでいる。全体重を架けている上に、奴には肩の痛みもあるだろう。脱するには至らない。
そして。
バヂンッ、と。右前肢を肩口ごと引き千切るように喰らい取る。
鮮血が吹き上がり、炎のように熱い紅が顔を染めるのを感じる。むせ返るほどに煙る芳いは、しかし己の身体に更なる熱が滾り、力が漲る芳醇さで鼻孔を擽る。
痛みに大狼が甲高い鳴き声を上げた。
吐き捨て、それでも口に残る肉の残骸を租借することなく呑み込み、無防備を晒す喉元へと食らいつく。
今さら己の醜態に気づいても既に遅い。
お前がどれだけ魔力を高めたところで意味がない。
幻日がどれだけ俺を灼いたところで、その眩さに太陽を見失うことはもう二度と無い。
これは礼だ。俺を打倒し得る強敵が存在するのだと教えてくれ、己の慢心がもたらす意味を理解させてくれ、最強と謳われた貴様であっても俺は殺せるのだと示してくれた。
最後の晩餐に喰らうと良い。形は違えどそれは竜の肉だ。神にも等しい真の竜の血肉だ。
悔いの無いように抗うと良い。命尽きる瞬間は目前だ。
皮を噛み千切り、
肉を貪り抉り、
そして、骨を、砕き折った――
銀光が尽きる。
波のように押し寄せる夜陰が銀光の余韻をも余さず黒で満たす。
屍肉から顔を上げ、空へと咆哮を打ち上げた。
空へと轟き、夜闇に残響する咆哮は雷音に相応しい。
けれどそこには、勝者たる王への歓声も追従も無く。
森を満たす寂寞だけが俺の勝利を称えている。
仰ぎ見る天蓋に明かりはない。夜天には分厚い雲が何処までも広がっていた。
没した太陽を悼むように……。
更新出来た(歓喜




