第一話
「ロフィよ、今日はトンカツが食べたいぞ」
長く美しい金髪に紅い瞳の幼女はそう言った。
俺は財布の中身を確認し、数枚の小銭がチリンと鳴ったのを確認して、嘆息する。
右手で眉間の皺をほぐした後、夕飯時のささやかな要望を伝える幼い少女に返事をする。
「だめだ。俺らの資金はほぼ底をついてるし。今日はもやし炒めで我慢しとけって」
買い物かごには今晩の主食たるもやし様が三袋入っている。
幼女は俺の返答が気に食わなかったらしく、みるみる顔が陰っていく。
「嫌じゃ嫌じゃ! 昨日も一昨日ももやし炒めだったではないか!」
「仕方ないだろ。もやしがおつとめ品でめっちゃ安いんだから。むしろ、もやししか買える食材がないぞ」
「な、なんと……」
俺の主であるアスタロト姫は、ショックのあまり足がもつれてよろめく。
俺はコケそうになるアスタロトの小柄な肩を支えてやった。
「なぜ我らはこんなにも貧乏なのじゃ?」
よろめく姫の幼い瞳が、涙ながらに純粋な疑問をぶつけてきた。
「それはな……俺ら悪魔が人間にボロ負けしたからだよ」
俺たち悪魔の盟主、ルシファーが人類に戦争を仕掛けて一ヶ月。
それは完膚なきまでに叩き潰された。
えっ、こんなに負ける? ……ってくらいの圧倒的敗北、まさに圧敗だった。
人間は、昔から悪魔の性質や能力など細かく記録していて、『いんたーねっと』とかいう電子の本に『うっきーぺでぃあ』のような大勢の人間が知識を共有できる機能を使って研究し尽くしていた。
そして、悪魔にとって力の源である『魔力』を無効化する装置を開発し、世界中に配置していたのである。
俺たちは、何も知らず意気揚々と地上に突っ込んだ。しかし肝心の魔力は使えない。
空を飛んでいた悪魔たちはみんな地面に落ちて戦闘不能に陥った。
まさに青天の霹靂である。
そら負けるわな。
一団を率いていた俺は、もうアカンと思って退却しようとした。逃げるが勝ちである。
すると、人間は悪魔がこれ以上侵略しないように、魔界へのゲートを閉じていた。
いやいや、まだこっち側にいっぱい残ってますよ! と言ってやりたい。
帰還できないことを知った軍は恐慌状態に陥り、散り散りになった。
わけも分からず俺も逃げた。とにかく逃げた。マジでちびりそうだった。
逃げ回っている途中で、護衛もなく孤立してしまったアスタロト姫がわんわん泣いているのを発見した。
一団を率いる将として、姫を見捨てることなどは出来ない。出来ない……よ? 結構心は揺らいだけどね。なんとか俺の中の誠実さが勝った。
俺はアスタロト姫を保護し、これ以上の戦闘不可能と白旗を揚げて人間に投降した。
俺の命はどうなってもよいから、姫の命だけは……と嘆願したが、なぜか人間は苦笑してこちらを優しく見てきた。
どうやら投降した者に対して危害は加えないらしい。先に言ってくれよ。
捕まった後は、市役所に連れられて名前と所属を登録した。
魔王ルシファー軍所属、悪魔宰相ルキフゲ・ロフォカレ……と。
大体の悪魔は人間に管理される形で、住む場所と少額のお金を支給されて生きながらえている。
抵抗を続ける悪魔以外はほとんどが無事に地上で暮らしているらしい。
戦争を起こした魔王ルシファーは、早々にどこかに雲隠れした。
大将がいち早く逃げたのである。もうあんな奴魔王ではないのである。
今度あったらぶっ殺すのである。
「もやしは嫌じゃ……もやしは嫌じゃ……」
俺が半年前の出来事を思い出しながら殺意の波動に目覚めていると、虚ろな瞳で地面を見て呟く金髪幼女の声で現実に戻ってきた。
目の焦点が合ってないアスタロトの様子に、さすがに気の毒になってくる。
「アーシュ、そんなに悲しい顔すんなって。なにか考えるから」
「本当か? 頼むぞ、ロフィ!」
パッと顔を上げて明るい笑顔を見せるアーシュ。
なんて純粋な笑顔なのでしょう。悪魔なのにね。
「おう! 任せとけ!」
特に考えはなかったが、アーシュの期待を裏切らないためにいい加減に返事してしまった。
またやってしまった、と俺は発言を後悔した。
この『何も考えず、思いつきで行動、判断してしまう』が悪魔には異常に多い。
なんとかなるだろう、不都合なことは起こらないだろう、と考えてしまうから。
半年前、魔王ルシファーの起こした人間との戦争は『思いつき』で始まった。
結果、入念な調査と研究を続けていた人間に負けた。
それはそれで良かったのだと思う。
俺は敗戦で大事なことに気づくことができた。
魔界には帰れなくなったが、あの劣悪な環境に今更戻ろうとは思わない。
俺は悪魔宰相として、主であるアーシュを食べさせていけるように多くを学ばねばならない。
最終目標は『悪魔たちの貧乏脱出』。仲魔たちを雇用し養っていけるような悪魔的事業の立ち上げである。
とはいえ、当面は今日の夕飯をどうするかが問題である。
策は無い。言ってるそばからこれである。
「あら、ロフィ君」
悩んでいると、後ろから誰かに声を掛けられた。
振り返ると、良く見知った人間の女性が立っていた。
「あっ、遥香ではないか!」
「ふふっ、こんばんは、アーシュちゃん」
アーシュは遥香と呼んだ女性にとててっと近づいていく。
「こんばんは、遥香さん。今帰りですか?」
「そ、大学の帰り。ロフィ君はアーシュちゃんと買い物?」
女子大生である柊遥香は俺たちの住むアパートのオーナーの娘で、セミロングの黒髪が似合う健康的なプロポーションの美人さんである。
「ええ、夕飯の買い物に行ってたんですよ」
俺はそう言ってもやしの入った買い物袋を少し上げて見せる。
「夕飯かぁ。そうだ! いつもアーシュちゃんとロフィ君二人だけで食べてるっていうのも寂しいし、私の家で一緒にご飯食べないかな? ご馳走するよ?」
遥香さんはにっこり微笑んで提案してきた。願ったりかなったりである。
「行く!」
アーシュが即答した。あまりの速さに思わず苦笑してしまう。
「こら、アーシュ。でも、良いんですか?」
「大丈夫だよ。ロフィ君だけだと、栄養とか偏りそうだし」
その通りである。もう三日間くらいもやししか食ってない。
「では、すみません。お言葉に甘えさせて頂きます」
「ふふ。アーシュちゃんは何が食べたい?」
「トンカツが食べたい!」
「トンカツね。わかったわ」
「やった! 遥香大好き!」
アーシュはトンカツが食べられそうで上機嫌である。
俺も遥香さんのお陰で夕飯のミッションは達成できそうだ。
めでたしめでたし……いや、これはダメなパターンだろ。
行き当たりばったりである。
うん、次はがんばろう。