変態が知らない話
ラグナはケルティック学院に来る二年ほど前、故郷であるリザガリアで"ある男"と接触した。
その男は一般市民と何ら変わらない服装で振舞っていたが、服の上からでも分かる筋骨隆々の逞しい肉体は、その人物をタダモノではないと訴え続けていた。
「君に、これを渡そう」
そう言って、男がラグナに渡してきた"ソレ"は漆黒の四角い匣だった。
装飾もなにも施されていない黒一色の匣はともすれば怪しげな雰囲気さえ持っていた。
中央だけは人差し指の第一関節程度までの凹みがあり、その中は金箔が貼られたように黄金色にいろどられている。
さらにその中心には、僅かな雫一滴ほどしかない血にも見える紅い出っ張りがあった。
男は言った。
「これは、君の願いを叶える魔法の匣だ」ラグナは最初こそまったく信じなかったが、その考えは即座に変えられることとなる。
匣を入手した次の日から、ラグナがもとより得意であった人間観察の能力が格段に上がったのだ。
ありとあらゆる人間同士の関係がさらに明瞭になり、さらにそれを操作できるようにもなった。
人が今まで以上に思うがまま動く。その快感に、ラグナは一瞬で魅入られた。同時に、匣が手放せない体となってしまった。
それでもラグナは後悔などしていない。自分に匣を渡してきた男の素性は聞きもしなかったが、そんなことはもはやどうでもいい。
ラント・アルグリス。かの少年を追い詰めることさえできれば、ラグナにとってその他のことは関係ない。
「これさえあれば、僕は……!」
懐から匣を取り出し、半ば狂ったような眼で食い見る。
全面黒の中央に輝く金色は、深淵の底でその存在を強く象徴していて、覗くたびに心の全てを持って行かれそうになる。
「匣は、持ち主の心に強く左右される。持ち主が願望野望のために全力で動こうとするなら、同じく全力でそれを手助けする」
持ち主とともに成長する。そうとも残していた。
男の言葉は総じて多分な意味を含んでいるものが多く、一語一語にどんな意味が込められているかなど、その全てを把握することは容易ではなかった。
だがラグナには、それが逆に信頼の置ける言葉にも聞こえた。
その感性もまた正しいのだろう。含まれている意味の中には、聞いた者が全土の信頼をおくような、そんな意味合いもあると思われた。
「つまるところ、持ち主の心が傾けば、匣のちからも弱まると?」
ラグナの問いに、男はしかと頷いた。
男は匣のような道具が、この世界にはまだいくつかあるという。
それらを回収し、持つべき人間へと引き渡すのが、男の役目であるという。
大柄な体躯を持ち、大剣など持たせようものなら片手で振り回せてしまうんじゃないかというように錯覚させてくる男。
名も知らない男だが、どうしてか信頼を置きたくなる。
なんとなく、ラグナは、この目の前の男が普段何かを統べているような気がして。
でもその思考をどこかへと追いやった。
「ふぅ……」
そして、刻は夕刻。
ラグナはある教室の前にいた。
教室の中には、あらかじめ今日この時間この教室に呼んでおいた人物がいる。
ラグナの標的がいる。
(今度こそ、僕は君を消す)
ラグナは決意を固め、夕日を映し出す教室の戸を開けた。




