変態の怒り
そこは、とても閑散とした静かな空間だった。
一階と同じく長い廊下が左右に伸びており、それに沿う形でいくつもの教室と窓があり、そして魔術の力を利用した灯りが人気のない廊下を照らしている。
エレカたちはどこへ行ったのだろう、と階段から一歩廊下に踏み出そうとしたところで、左の方から誰かの声が聞こえた。
「あんたさあ、ちょっと調子乗り過ぎなんじゃないの?」
女の声だ。その声には微かな怒気が含まれている。
それに……、
「昨日も言ったが、調子に乗る、という言葉の意味がよく分からない。私はただ普通に生活を送っているだけだが?」
エレカの声もする。
出っ張った壁から少し顔を覗かせて見ると、先ほどの女生徒たちとエレカが廊下で言い合いをしていた。
誰もいない廊下に、彼女たちの言い合いだけが響く。
「だ、か、ら。そういうところが生意気なんだって言ってんのよ」
「……すまないな、私は母上に似て昔からこういった喋り方なんだ」
「はあ、そんな喋り方で育てるあんたの親ってなに? ありえないでしょ」
「恨むなら恨んでくれて構わないが、私の母上は、
『礼儀のない奴にしてやる礼儀は必要ない』と言っていた」
「あ、あんたっ……!」
皮肉気に笑いながら言うエレカに、女生徒グループのリーダー格でありそうな水色の髪を持つ女生徒が顔を顰める。
こ、怖ぇ~……エレカの奴、口を開けば煽り文句が飛び出てきやがる。
女同士のこういう言い合いってこんなにも恐ろしいものなの?
それにしても、あのエレカと言い合ってるリーダーの女生徒、どこかで……。
…………そうか、あの女生徒どこかで見たことあるかと思ったが、髪の色と喋り方で思い出した。確か、昨日の初授業の時にもエレカと揉めてた奴だ。
でも、どうしてそんな奴がエレカを自分のパーティなんかに……?
「それで、今日は私をこんなところに呼び出して何のつもりだ?
まさか『調子に乗りすぎだ』と言うためだけに呼んだのではあるまいな?」
「……ふふ、いいのかしら。そんな好戦的になっても?」
意味ありげに笑った水色髪の女生徒が別の女生徒に合図をすると、合図を受けた女生徒は服のポケットから何かを取り出した。
あれは……ペンダントのような物だろうか? 金属で出来ているようで、金色で丸い形をしたアクセサリが同じく金色の細いクサリに繋がれている。
「あたしたちはいつだって実行に移しても構わないんだけど?」
その言葉が合図だったかのように、ペンダントを持っていた女生徒は再びポケットから何かを取り出した。
今度取り出したのは、刃が仕舞えるタイプの小型ナイフだった。それがいま、抜き身の状態でペンダントの前にさらされている。
「あんたがこれを異常なまでに大事そうにしているのは最初から知ってた。だから、これを壊されたくなければ素直にあたしたちに従いなさい。
……それとも、壊されるのを覚悟であたしたちに歯向かう?」
まさか、ペンダント一つを人質? その程度であのエレカが屈するはずもない。エレカのことだ、どうせさっさとこの場で取り返して、奴らに一泡吹かせてやるつもり……
しかしエレカはそんな俺の考えとは裏腹に、それ以上の抵抗を見せなかった。
まるでそのペンダントが傷付けられることを何よりも避けるように、エレカはそれ以上何も言わず俯いてしまった。
「……ふふふ、物分りはいいじゃない。
それじゃあ二年の学内ランキング戦まで長い付き合いになるから、よろしく頼むわね」
水色髪の女生徒は気味の悪い笑みを浮かべながら、取り巻きの女生徒たちとともに廊下の奥へと去っていった。
学内ランキング戦……? 聞き慣れない言葉が出てきたが、いまはそれどころではない。何故エレカはあの状況で素直に従ったのか。彼女の実力は試験の時相方を務めた俺が一番よく知っている。
あんな奴ら、エレカに掛かれば何でもないことを。
俺は隠れていた壁から抜け出すと、そのまま奥の階段から帰ろうとしていたエレカを引き止めた。
「おい!」
「セ、セツヤ? お前どうしてここに……」
俺の登場に、エレカは驚いた顔でこちらを見た。
「どうしても何も、お前があの女グループに連れてかれるところを見たからだよ」
「……ということは、ここでの話は全て聞いていたのか?」
窺うように問いてくる。
「……ああ、盗み聞きしたのは悪いと思ってる。でも」
あんな奴らの言うことなんか気にせずさっさとペンダントを取り返しちまえ!
と、言おうとしたところで、
「悪いが、この話にお前は関係無い。
今日聞いたことは全て忘れろ」
エレカはバッサリと、そして素っ気なく言った。
――まただ。またあの、諦めたような、情けない、いつも過剰なくらいの自信を持っているエレカが見せるべきじゃない顔だ。
エレカの態度が無性に頭にきた俺は、声を荒げる。
「何だよその言い方! 俺はお前を心配してっ……!」
誰もいない、森閑とした廊下に俺の怒号が飛ぶ。
しかしエレカはそれに動じたこともなく、極めて平然と言う。
「お前が私の心配をしてくれているのは分かる。
だが、この件は私の問題だ」
それだけ言って、こちらの反応を見ることもなく、エレカは俺の横を通り過ぎて行く。
過ぎ去っていったエレカの顔は、俯いていて窺えない。
「待て! さっきあのペンダントを見せられた時、どうして奪い返さなかった!
お前ならあれくらい何でもないだろ!」
俺は振り返り、エレカに向かって叫んだ。
「…………っ!」
エレカは一瞬立ち止まったものの、それだけで何も口にすることはなかった。
すぐに歩き出し、階段を降りていく。
コツコツと、階段を降りる一つの足音がこだました。
「おいっ!」
俺は再び叫ぶが、もうエレカの足が止まることはなかった。
「何で……、何でっ……!」
そして、廊下にただ一人取り残された俺の中で、ふつふつと怒りが沸いてきた。その怒りはエレカを無理強いさせようとしたあの水色髪の女生徒や、そのグループ全体でもなく、エレカ・アントマーという少女に対してのものだった。
エレカにされた、あの素っ気ない態度が俺の中で気に食わなかった。怒りを噛み締めなければならないほどに、悔しかった。
でも何故自分はこんなことで怒りを感じているのだろう。それが分からないのもまた、怒りの原因の一つかも知れない。
普通に考えれば、何か話せない理由があるのかも知れないと考えるはずなのに。
だが、いまの俺の頭の中はそういった考えを一切受け付けようとしていなかった。考えようとしていなかった。自分でもよく分からない怒りの感情が、俺の頭の中を支配する。
窓から、夕日の放つ朱い斜光が降り注ぎ、俺の横顔を照らした。
「何で………………」
エレカに対して向けられていたはずのその問いは、いつしか自分自身に対する問いにも変化していっていた。