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苦手な方はご注意ください。

宣告の先へ

作者: じゃぎ

漫画版を、ニコニコ静画 (マンガ)に投稿しました。よろしければ目を通してみてください。

挿絵(By みてみん)

・プロローグ


 激流と化していたはずの光の雲海が静止する。

 自由落下する雨粒もまた、歪な球体のまま中空に静止している。


――ああ、またか。


 静寂が覆う大地にて、唯一流れるは黒炎。眼前に群がりつつあるそれは人の形に似ていた。


――また、あいつだ。


 水面に引き込まれゆく最中さなかで静止した雨粒の、その向こう側。水面に波紋を広げることなく、黒い人影は歩みを進めてくる。見上げれば、おぼろげな視界において、そいつは判然たる実体をもってただずんでいた。


――死だ。死の迎えがきやがった……。


 頭上、日の光を背景に見下ろすそいつは真白の肌を露わにした。


「宣告、スル」


 フードから覗くは、黒く窪んだ深淵の如き眼孔。剥き出しの歯。人の皮を剥ぎ取り、肉を削ぎ落し、ひび割れて風化しつつある穢れた亡者の姿があった。その“死神”は白骨化した指を突き付けて告げる。


「オ前ハ死ヌ。明日、必ズ、死ヌ」


 それは逃れようのない決定された命運を突き付ける、紛うことなき死の宣告。

 途端、亡者の影が風に溶けていく、眼前にて静止していた雨粒が水面に引き込まれる。しぶきが上がった。


――ああ、なんだ。そんなこと……。言われずともわかっている。


 連続した冷ややかな雨が、あられの如く全身を打ち付ける。奴の姿は消え、世界は流転を取り戻した。

 自身の感覚までもが鈍く沈みこんでいく虚脱の感覚を取り戻してしまう。沼地に沈みこんでいくような、大地に還るかのような、あの心地よくも恐ろしい感覚。夜の闇を越えてもなお残る虚ろの重り……。


 色濃く。

 鮮明に。

 この上なくはっきりとわかる。

 

――――俺は、もうじき死ぬ。







 宣告の先へ






・1


「いいかい」


 大きな手がそっと頭に置かれた。包み込まれるかのような大きな手。石のように硬くはあったが人肌のぬくもり以上のものを持っていて、何よりも頼もしいものに感じられた。

 腕を辿った先には見慣れた、見慣れていた父の姿があった。


「この国が今どんな状況にあるのか。君は知っているだろう」


 逆光のせいか表情は窺えない。


「君は聡明で、正義感に溢れ、なによりその胸には誇りがある」


 されど声には厳粛たる響きが込められていて。


「その“誇り”を決して忘れてはいけないよ」


 その約束が固く、“僕”の胸に課せられたのだ。

 父は表情を綻ばせることも、名残惜しさも見せずに「時間だ」と“僕”の頭から手を引いて身を翻した。


「それじゃあ、また逢える日まで」


 父は手を振って、光の指す方へと遠ざかっていく。

 “僕”が手を伸ばしたのは、その姿がもう豆粒ほどにまで小さくなったころだった……。




 体の芯にまで響いた騒音と震動に意識が覚醒する。

 気怠い浮遊感を抱えながらも、飛び起きた視界は鮮明。目の前には遠ざかる影の代わりに“俺”の手。昨晩の雨でできた水溜りは回転する車輪のせいでさざ波立っている。


「ああ……。またか」


 顔を上げた先には飛び起きる羽目になった原因。沸騰したヤカンの如き奇声を上げる蒸気機関車が、朝霧の薄闇を裂いて通過している最中さなかであった。曇天の空に雲を足し続ける汽笛のおかげか頭痛がひどい。ゆりかごから蹴落とされたような不快感に温もりの余韻は消え去った。


「また、今日が始まる……」


 かすれた声は紛れもなく今の自分のもの。路地裏の一角で“俺”は、この暗く汚れた世界に覚醒した。




・2


『とうとう通貨価値は一ドル一億マールを超え、もはや物の価値は無いに等しく、我が国の経済状況に改善の兆しは無いように思われますが―――』


 レンガと石畳の町並みにちょこんと置かれたラジオの音声は雑音まみれ。周囲にたむろする大人たちは溜息を呑み込むためなのか、安物だったはずの希少な酒をこれでもかというほど空けていた。そのうちの一人が不意にこちらに視線を合わせてきたが、またすぐに俯いた。

 帽子の奥に引っ込んだ瞳は泥の臭いを残していったように後味が悪い。


「嫌な街だ……」


 呟いた一言は陰気の中へ消えていく。

 街は失業者で溢れていた。路上いっぱいに溢れた大人たちは寝ころぶか座るか、はたまたあてもないのに歩きまわっているか。行動に違いはあれどそのことごとくがすり切れたコートを身に纏い、帽子を目深に被って俯いている。鬱憤晴らしとでもいうのか、路地裏は薬の中毒者や意味もない暴力が横行していた。

 原因ははっきりしている。

 鼓膜を震わせる野太い羽音に目を落とす。路上脇、騒々しく飛び回る数十のはえが群がるのは、握り拳よりも小さい有機物。溝の汚れを被りながらも露出した、玩具のように陳腐な白い肋骨。四肢は上に向いているが力なく折れ曲がり、肉が溶けながらもその矮躯の半分は辛うじて毛皮に覆われている。

 溝鼠どぶねずみの死骸だ。

 この街は小さな鼠でさえ生き残れないほどの深刻な飢餓状態にあった。商店から食糧は消え、飲食店はそのことごとくが店をたたみ――。日々の糧に困らないのは一部の特権階級ぐらいのものだろう、一般の市民らは僅かな配給を糧として生き延びているようなものだ。中でも、配給すら受けられないあぶれた住人ともなれば日常はもはや地獄も同然……。


「最後に、まともな飯にありつけたのはいつだったか……」


 親を失い、戸籍を消された孤児がそんなあぶれた住人の一種。

 自身の肉体は不満や苛立ちという地点をとうに超えている。食欲どころか空腹に対する苛立ちすらわいてこないほどで、稀に主張してくる腹の音は酷く弱々しい。血が足りないのか、体の反応は鈍く、思考はまともに働かない。ふらつく体は支えがなければ倒れてしまう。

 抗いようのない“飢え”が街の住人の負の感情に直結していることは明らかだと、自身の肉体が証明していた。


「待ちやがれ! 盗人ども!」


 そんな殺伐とした状況だからこそ、食糧を盗む卑しい輩もでてくるのだ。

 男の叫び声に続いて、勢いのある犬の鳴き声が響いた。姿を消しつつある犬猫――良くて非常食になったというところだろう――を飼う余裕があるところといえば思い浮かぶのは一つ。特権をもつ公安組織、警察。


「馬鹿言ってんじゃねぇぜ、公僕が!」


 背後の警官に向けてだろう。大きな路地を駆ける二人組の男はそう叫び返した。その片割れの腕の中には真っ赤に潤う林檎がいくつも抱えられていた。大人顔負けのジャケットを羽織り、整った身なりをしているが、幼い顔つきは十代の少年といったところ。間違いない、徒党を組んだ孤児グループの一員だ。

 少年らの前方、脇の路地からまた一人、孤児グループのメンバーらしき少年が姿を現した。


「こっちだ!」


 それを合図に、二人組のうち林檎を抱えていない方の少年が警察の方に振り返ると、片腕を振り上げた。

 黒ずんだ煙が、追手である警察犬の方へ弧を描くと、途端、連続した破裂音が一帯を轟かせる。警察犬は女々しい悲鳴を上げると、その場で跳ねまわって足を止めてしまった。

 孤児たちの姿が裏路地へ消え、街に閑散とした静けさが戻ると、警察犬のもとへ駆けよったいつもの警官が「クソガキどもめ。また爆竹か」と乱れた息を整えながら悪態をついた。


 孤児。

 大人からも国からも見捨てられた人間が生き残るには、盗むか拾うか。選択肢は二つしかない。


「俺自身、似たような境遇だ」


 ゆえに、盗みに傾いてしまったその心境を理解はしよう。


「……だが、俺は奴らとは違う」


 罪を犯してまで生き延びようなどとは思わない。誰かの幸福を奪ってまで、自分が幸福になろうなどと考えたことも無い。なぜなら――。


――――その“誇り”を決して忘れてはいけないよ。


 この胸には誇りがあった。だから盗みは絶対にしない。悪徳はいらない。そんな堕落は例え神の許しがあったとしても認めてなるものか。


「……今日の分の飯を探しに行かなくちゃあな」


 ふらつく体を取り繕い、外套代わりの汚れたボロ布を翻して裏路地へと足を進める。




・3

 この国は戦争に敗れた。言葉にすればなんてことはない、これだけでこの国は瀕死の重傷を負ったのだ。あらゆる富を絞り尽くすが如き敗戦の代償が、通貨の価値を暴落させ、畑を細らせ、家畜を殺した。

 砂漠の真ん中に放り出されたようなこの国で、食を恒常的に得ることができるのはつまるところ特権階級を持つ人々か、あるいはそのおこぼれを得ることができる中産階級以上の市民といったところ。盗みのターゲットとなるのはもちろん弱者――警察組織に隙間なく守られている特権階級ではなく、そのおこぼれで食っている中産階級ばかりだった。数少ない残飯を拾うことができるのも同様の理由で中産階級ばかり。今現在、数少ない飲食店や、食糧の商店が営業できているのもそうした特権階級との繋がりがあればこそ。

 しかしながら、“店舗の裏にあるゴミ捨て場まで行けば残飯にありつくことができる”と確信できたのも遠い昔。近頃は困窮に一層の拍車がかかり、ゴミ箱の中身から林檎のヘタすら消えつつあった。


「三日前に食えたのは、ミカンの皮だったかな……」

 

 とはいっても水気を失ってカチカチになったものだが、それでも貴重な食糧だった……。

 

 向かう先はパン屋。残飯などまるで出ない所だが、ちっぽけな可能性を逃せる余裕はもうない。

 建物の影から影へと身を隠して移動する。警察官に出くわしたら身なりの汚さもあって盗人の一味としてしょっぴかれてしまうだろうし、慎重にならざるを得ないというもの。と、こそこそやっている内に目的のパン屋が視界に入る。このままの調子で裏口へ回り込もうと、パン屋“バッカライ”の向かいまで接近すると。


「ありがとうございましたー」

 

 ガランと店の入り口が開き、中からそんな声と、高そうなコートを羽織った客らしき男が出てきた。脇にはパンが入っているだろう紙袋を抱えている。

 続けてエプロン姿をした店員の少女が出てきた。客の見送りだろう。


「なんて間が悪い……」

 

 ちょび髭で紳士帽を被った男、体型は丸っこいふくよかなもの。後ろには護衛らしき警官の姿。となると特権階級の人間だろう。警官に見つかっては厄介だ。建物の陰に身を隠す


 「またのご来店をお待ちしております」


 金色の髪。二本ある三つ編みのおさげが跳ねる。少女は深いお辞儀をして客を見送った。

 少女が頭を上げると、直後、またも店の扉が開き、中からエプロンを身に着けた壮年の男性が姿を現した。パン屋の店主、彼女の父親だ。

 今日は本当についていない。そうこぼしたくなるが、声を出すのも億劫だった。今いるのは店の正面。裏手に回るには、どうしてもあの父娘の目の前を横切らなければならない。遠回りしたならその心配はいらないが、残飯がある望みが薄いパン屋程度にそこまでする気力はなかった。どうするかと悩ませつつパン屋の様子を窺う。

 いつの間にか、少女の手にはほうきが握られていた。店内に引っ込む気はさらさらないようだ。店主はそんな少女に口を綻ばせ、父親の手が少女の頭に置かれた。

 黒い影が、視界に映った気がした。


――――うらやましいか?


 耳を掠めた声は荒涼としたもの。脳裏を過ぎったのは父の姿。

 不意に黒々とした衝動が自身の内から湧きあがる。奥歯が軋む。熱を伴う汗が頬を伝う。手は拳に変わり、足は次の目的地へと進んでいた。



・4

 温かみを失いつつある身体を引きずり、冷たさすら失った足に喝を入れて進んでいた。逃げていたというべきだろうか。あの少女と父親から、逃げていた。思い返すだけで吐き気が込み上げてくる。歯を食いしばってしまう。心の悪いところに力が入ってしまう。


 いつも思う。


 父親に頭を撫でられる彼女と独り辛うじて生き延びている俺。日向の彼女と日陰の俺。俺と少女の、一体どこに差があったのだろうか。同じ国、同じ町で暮らす、同じ人間なのに。


「一体、何が違う……」


 父がどこかへ行ってから三年。もう三年も経ってしまった。

 あれから家を失い、少ない食糧も底を尽き、金は意味をなさなくなってこのザマだ。日に日に痩せ細っていく肉体は悲鳴すら上げなり、遂には“死神”とかいう幻まで見えるようになってしまった。

 街の状況は悪くなるばかりで、路上に死体が転がっていることも珍しくない。自身の肉体は寒さを切り抜け、危うくも木々の芽吹きはもうじきというところまで耐えることができた。

 だが、次はもうない。確信できてしまう。


 灰色の薄い雲が空を覆う。

 息が詰まるような重苦しい色ではない。当然、大きく深呼吸をしたくなる快いものでもない。前にも後ろにも進まず、上にも下にも動かず、宙ぶらりんで中途半端でしかない白灰の色。天上の何もかもを虚ろへ転じさせ、地上の何もかもが価値を失うような、醜い灰色の膜がそこにはあった。

 次なる目的地、街で唯一残った肉屋を目前としたそんな時、空気が震えた。


「        !!」 

 

 声にならない絶叫が心臓を突き刺す。一つ隣りの路地からだ。

 商店の裏手にあるゴミ捨て場。ボロ布を纏った子供が巨大な拳を顔面に受け、幸運にも、勢いのままに背後のゴミ袋に受け止められる光景に行きついた。殴りかかった大男は警察帽を被り、肌寒い季節を抜けきらないというのに半袖のシャツを着ている。巡回中を示す黄色の腕章、腰に装着したホルスター。警官であることは明らか。なにより、尋常でないほどに肥えた体には覚えがあった。


「ブッチャー」


 どういうわけだかそんなあだ名で有名な暴力漢。今期からこの地区を担当するようになった警察官だ。


「素直に従わねぇから、そういうことになるんだ。オラ、立て!」


 喉に詰め物でもされたようにこもるブッチャー声。それに抵抗する孤児を、ブッチャーは容赦なく「うるせぇ!」と拳を叩きこんで黙らせ、孤児の黒ずんだ髪の毛を乱暴に掴み上げた。

 それはだった。汚れきって金髪とは判断がつかない程に黒く染まった髪の毛を無造作に掴まれ、無理やり顔をあげさせられた少女。涙と唾液と血液と土埃で汚れた顔には、ギロチン台に首を突っ込まれているようなぐしゃぐしゃな表情が張り付いている。


「人様の物を盗む腐りきった性根! 救いようがねぇな!」


 ブッチャーのそれは罪状を読み上げる処刑人を彷彿とさせる通った声――というより、偽を真にする捻じ曲がった性根の表れだった。


「嘘だ」


 二人の足元には残飯らしきゴミが散らばっている。泥で汚れたジャガイモの皮、カラカラに乾ききった林檎のヘタ、変色しつつある黒緑色の残骸の数々。少女は残飯を漁りに来ただけだ。捨てたものを拾おうとしただけなのだ。悪いことなんて何もしちゃいない。


「行けるか……?」


 相手はブッチャー。それと手前の建物の陰にもう一人、至って特徴もない警察官がいる。


 逸る足を恐怖心がさえぎる。目の前、自分の姿を隠す木箱が、まるで超えてはならない死線のように思えて、足はそこから先へ進まない。

 

「おッ――――おね……」

 

 少女は切れた唇を震わせた。潰れかけた喉から出たのは血。目には涙があふれている。


「お願いします! 許してください! なんでも――なんでもしますから!!」


 血と涙を込めた懇願であった。切れた唇をこれでもかというほどに動かし、目元は涙でいっぱいで、胸を抉るようで……。


「行くぞ、行くぞ……!」


 心臓がうるさいぐらいに鳴りつづける。裸の足がじりじりと地面を押し出すように力を溜める。されど踏み出した足が前に出るよりも早く、ブッチャーの背後にいた警官が動く。


「先輩……。もういいでしょう? 相手は子供ですよ」


 ブッチャーの巨体を抑え込もうと出した手が、制服に触れる程度にとどまっていたのは新人ゆえの遠慮なのだろうか。しかしそのおかげかブッチャーは少女の髪の毛から手を離した。少女の頭部が無造作に石畳を叩く。


「お前も、俺に指図できる身分かよ!」

 

 倒れたまま体を震わせる少女をしり目に、ブッチャーはのそりと立ち上り、若手警官へ拳を一振り。若手が吹っ飛んでから見えたのは、決して見たくはなかった光景の、その前触れともいうべき動作であった。


「大人しく待っていろ。すぐに終わらせる」


 ブッチャーは腰に掛けてあったホルスター手をかけ、それを引き抜いた。重苦しい黒の塊。ガチンと、何かがどこかに収まる硬い音が響いた。

 脳髄に響く小刻みな震動。小石が休みなくぶつかり合う音。それが自分の口内から出ていることに気がついた。 


「……やめろ」


 喉が勝手に震えるが、そんなもの届くわけがなかった。自分の口から出た言葉がまるで引き金を引いたように。直後、簡素な破裂音がひとつだけ響き渡った。


 いつの間にか震えは止まっていた。少女の肉体と、自身の体、視界の震えはなくなった。

 ブッチャーは西部劇風に銃口の煙を吹き払い「苦しまずに逝けたろう? へへ」と――顔は見えないがきっと――得意顔で言い放った。

 尻に冷たい石の感覚。尻もちをついているようだ。死体なんて日常的なものだというのに、少女の亡骸から目を離すことができなかった。雨や泥でぐちゃぐちゃに汚れ、擦り切れた布を身に纏った少女。筋肉の痙攣だけが残った、悲鳴を上げない物言わぬ肉の塊。石畳に流れ出る赤い血液が、水溜りのように点々と溜まっていく。


――――あれが俺のなれの果て。あれが“死ぬ”と言うこと。あれが明日の……。


「さて」


 静寂の中聞えた生意気そうな男の声に目を動かす。ブッチャーは腰のホルスターに拳銃をしまい込んで、その体を“こちらに向けようとしていた”。それを認識した瞬間、自身の肉体は立ち上がり、駆け出していたのだ。警察官の方へ、ではない。その真逆へ、自分の体調もかえりみずに逃げ出していたのだ。



・5

 路地の細道をひたすらに駆けていた。呼吸がままならなくても、足が痙攣していても、ひたすらに走っていた。いくら体を動かしても汗が冷たい。もう十分というほどに距離を取っているはずなのに、心臓を圧迫し続ける強迫観念が安息を許さない。

 暗く、細く、出口の無い路地で、不意に黒い塊が視界を過ぎる。


「気分はどうだ?」


 背中に、奇妙な存在を感じた。


「他人を見捨て、怖くて怖くて逃げだした気分は?」

 

 心のデリケートな部分を逆撫でする“声”が頭に響く。

「お前は他人の幸福を奪わないとのたまっているが、単に不幸を背負いたくないだけだろう?」


 そいつには足音がない。空を飛んでいるからだ。


「生きる障害としてそびえる人様の幸福と、自らに振りかかるだろう不幸を背負いたくないだけだろう?」


 そいつには重さがない。幻だからだ。


「“誇りがある”だなんて言って、結局は逃げているだけじゃないか。お前の“せい”のスタンスは“逃げ”の一辺倒」

 

 そいつには命がない。生きていないからだ。


「不幸から逃げ、生きることを受け入れようとしない」


 またあいつだ。


「ヒヒヒ、ドブ底から逃れるにはまるで足りないな」


 死神だ。


「いい加減認めるのだな。お前の手を引く者はいない、と」


 背中にぴったり纏わりついて離れない死神は俺の心臓を突いた。


「お前の父親は帰ってこない、と」


 突いて、抉りだしたのだ。


「黙れ……」


 意識の外に投げやっていた、微かな光明をも切り捨てる失意の一言を。


「ヒヒ、お前の父親は帰ってこないよ。例え“誇り”を守っていたからってさ。なんたってあの男はお前を――」

「     !!」


 自分の口からどんな言葉が飛び出たのかは覚えていない。

 喉の奥の焼け付く感覚と、つま先に生じた一瞬の衝撃を最後に、肉体が潰れるかのような衝撃が全身を襲う。後には暗闇だけが残った……。



・6

 左足の痛みが引かない。親指の爪は剥げ、足首に痛みの熱を感じてはいたがそれ以上を確認する術はない。ここは夜闇の中。街灯も月の光も届かない黒の闇。いつの間にか“死神”はその存在を消していた。声も聞こえない。

 “死神”。

 奴が見えるようになったのはつい最近のことだ。間の悪い時というか、気分が悪い時に現れる。疫病神のような奴で、なんと人間の言葉もしゃべれるときた。それも根性が捻じ曲がったように聞こえが悪い台詞ばかりを吐く。

 その頭に響く声も、神を気取った仕草も、死者に似た姿形も、対峙する者を悪い道へを誘い込むためのものに思える。だから“死神”と呼んでいる。神の使いなんかではない。その真逆に位置する、あれは“悪”だ。痩せ細った肉体を嘲笑い、真っ直ぐな精神を歪めようと囁く死霊。弱った心に追い打ちをかける邪悪の化身。


「――――なんだ?」


 思考を遮るようにどこからか聞こえたフクロウの鳴き声。

 こんな街中にフクロウなんか……。気のせいとも思えたが、羽音と共にその本体が降り立った。すぐ目の前、二つの光球がじっとこちらを見つめていた。逃がす気など無いと獲物を眺める瞳に思えた。


「俺を、喰いに来たのか?」


 どうしてか口元が緩んでしまう。面白くも、嬉しくもないのに。目頭が苦しいほどに熱い。喉の奥から飛び出そうな酸味を押しとどめ、身体の痛みを堪えているだけなのに、声が漏れてしまう。


「……   」


 自身の口から出たそれは、笑い声のようだった。

 これがきっかけだったのかもしれない。間近にあった光の球は炎を思わせる妖艶な揺らめきを見せると、そのフクロウという仮面がうろこのようにぼろぼろと崩れ落ちていった。


 「お前は与えられた“誇り”という“コトバ”を守っているだけだ」


 中から現れたのは骨。人の頭蓋骨だった。 


「誇りだとか悪徳だとか、そんな小さな視点で物事を見るんじゃあない」


 そいつは死神の声を発していた。


「家族なんて鎖は断ち切って、思うままに飛び出してみろ。ヒヒ、気持ちがいいぞ」


 羽の一片をも残さず崩れ落ちたフクロウの肉体から出てきたのは、紛れもなく死神そのものだった。


「そうでなきゃ、その辺に転がっているドブネズミの仲間入りだ」


 死神が指した先には、肉が溶け、蛆や蠅にたかられている鼠の形をした物があった。


「……お前はハゲタカかカラスだな。“人”が“肉”に変わるのを待っているだけ」

「ヒヒ、今のお前よりは幾分マシというもの。しかし、そんな悪態をつく余裕があるのか?」


 死神はさも踊りだすのではないかというふうに声を弾ませていた。 


「焦点が合っていないぞ。もう瞬きも満足にできないだろうに。強がるなよ」


 小刻みに痙攣する身体はいうことをきかない。視界も時折消えそうになる。けれども、死神に内情を悟られるのは癪で目に力を込める。

 死神は鼻で笑ったようにみえた。


「おいおい、何か言ったらどうだ……?」


 それに応える気はない。


「――――なるほど、お前はどうやら大事なことを忘れているようだな。ならば今一度、改めて宣告しよう」


 死神は歩を進め、俺を見下ろす位置にまで来ると、白骨化した指を俺に突き付けて、告げた。 


「お前は、死ぬ」


 この光景――見覚えがあった。


「明日、必ず死ぬ。逃れる術はない」


 今朝方の再現だ。唯一違うのは、今度は自分の体が動くという点。ブレる焦点を合わせて死神を睨みつけるがどうにもならない。

 死神は口元を歪めると、外套を翻して遠ざかると「ヒヒ、残念だったな。最後の晩餐にすらありつけなくて」そう言葉を残して、闇に溶けていった。物言わぬ暗闇だけが、あたりを漂っている。


「……馬鹿にするな。俺が死ぬだと」


 そんなこと認められるか。あんな亡者に看取られて、あんな幻に殺されることなんて……。


「馬鹿にするな……! 俺はお前なんぞに引っ張られる気はない」 


 強がりはするが、痩せ細った肉体が限界に近いのは誰よりも知っている。このままでは、間違いなく俺は死ぬ。このままでは避けられない。瞼が石になったように動かない。目が化石になったように動かない。

 されど、心臓の火は消えていない。まだ生きているのだから――。


「朝……」


 眩しい光が街の闇を払いのけていく。早朝を告げる汽笛が響いた。

 衰え、弱り切っていた肉体は、立ち上がっていた。




・7

 開錠を知らせる重い音に続けて、厳重に閉ざされていた鉄の扉がゆっくりと開かれる。

 パン屋“バッカライ”の裏側、隣接するパン工房から出てきたのは壮年の男。パン屋の店主。東の空より差し込む陽光は、季節相応に爽やかなもの。


「いい天気だ」


 男は青々と輝く天を仰いで深呼吸した。

 手に持った鉄板の上には、焼き立ての香ばしいパンがぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。


――――行くぞ。


 暗がりに沈んでいた心を引き上げる。

 店主が扉に背を向けたのを確認して立ち上がる。足を忍ばせ、息を殺して、店主までの距離は残り三歩。既に射程内。

 腕を振り上げる。重力に負けそうになる筋肉を精神で支え、一歩一歩、前に進む。店主は、気がつかない。

 寒気がする肉体の中心、心臓部分から溢れる粘つく熱気。スラム街の最深部に流れる狂気じみたそれを腕から、手首へ、そして凶器へ染み渡らせて。振りおろす――。


「      」


 一瞬だけの短く、儚い悲鳴が上がる。

 手首に、骨に駆け抜けるのは人を打った衝撃。振り下ろした鉄パイプはひたすらに重い。店主の後頭部を破壊したパイプは、振り切った勢いのまま手放さざるを得なかった。ガランと身を打ち、遠くへ離れて行った凶器。

 店主は、受け身を取ることなく、顔面から地面に倒れ伏して動かない。「ふぅ」と張りつめた息が僅かに漏れる。いつのまにか、手にはふっくらと湯気と放つパンが握られている。体はしゃがみこんでいた。

 鼻をくすぐるできたての香ばしさ。色よく焼きあがったきつね色の肌。指が沈みこむ生地の柔らかさ。その何もかもが待ち望んでいた感触で、我慢の限界だった。手は震えながらもパンを口元に運ぶ。香りは強く、味覚にすら染み込んでくるほどに強くなる。――が。


「いやああぁぁぁぁ!!」


 一切の安寧を断ち切る絶叫に意識を引き戻された。店主の――父親の娘、あの三つ編みの少女が正面方向にて叫びを上げていた。その悲鳴が俺に不幸を呼び寄せる。


「どうした!! 何があった!?」


 狭い路地の反対方向から若手警察官が相棒の犬を連れてきやがった。さらに向こうには遅れてブッチャーが駆けつけてくる。早すぎる。


「クソ……!」


 溢れる唾液を呑み込み、散らばったパンを抱えられるだけ抱えて、咄嗟に固まったままの少女の方へかけていた。足首の痛みを堪えて、力一杯に足をこぎ、パンを抱えていない方の腕が少女へと突き出される。


「邪魔だ!」


 喉が震えたのも無意識だった。痩せ細り、今にも外れてしまいそうな腕だというのに、いとも簡単に少女を突き飛ばした。無防備に倒れていく少女。その涙にぬれた瞳と目が合う。

 自身の口元が、引きつりながらも緩むのがわかった。


「ざまぁみろ……」


 道は開けた。パン屋の正面側、街において比較的大きな通りへと飛び出す。

 早朝を抜けきらない時間帯、路上の端に座り込む大人はいるが、活動している者は一人としていない。


「そこの男! 止まれ!」


 背後から若い警官の警告が飛んでくる。当然、従うわけがない。すると「行け! GO!」という警察犬へ合図のだろう、それに続けて荒い獣の唸り声が轟いた。振り向けば、こちらに向けて跳躍の如く迫ってくる黒い毛並の犬が目に入る。長い四足を持つスマートな体躯の犬種、ドーベルマン・ピンシャーだ。昔図鑑で見たことがある。食らいついたら離さない厄介なヤツだ。

 しかし、こちらに動揺は無い。警察犬の追跡も「想定済みだ!」と手に用意しておいた、ビスケット大の“それ”から延びる導火線に火をともす。爪楊枝ほどの長さと、その太さ、三本分程度の火薬筒六本が、たこ足のように三本ずつ左右に分かれ、それぞれが一本の導火線で結ばれたもの――爆竹だ。

 導火線の3分の2が焼き消えた頃に下手から爆竹を投げる。振り上げた腕、その筋肉に繊維が裂けるような寒気が走るが、導火線から延びる煙のアーチは緩やかな軌跡を描き、ちょうど警察犬の鼻先で炸裂した。

 連続した爆発が続く向こう側、ロケットのように加速してきたはずの警察犬は狼狽えて縮こまっている。




・8

 湿気が肌に纏わりつく。じめつく空気が閉じ込められたような細い路地を力の限り走る。


「やった……!」 


 頭が回らない。目が霞む。血が足りない。しかし、それを理由にふらつく足を止めるわけにはいかない。

 腕の中にしまい込んだ温もりに目を向ける。十字の切れ目が入ったライ麦パン。それが五つ、現実のものとして自分の腕の中にあった。温もりが食欲をそそる香ばしさとなって嗅覚を刺激する。たったそれだけで、力がみなぎってくる。

 弱った聴覚が軽い靴音を拾う。壁を一枚隔てたような感覚だが、音質は判別がつく。警察の軍靴じみた音ではない、大人の重苦しい足音でもない。警戒心を解かずにその方向、斜め後ろに振り向く。


「上手くやったみたいだな」


 近づいてきたのはこの辺りを縄張りとする孤児集団のトップ。歳は同年代ぐらいだろう、爽やかな青年という印象だが、内面はどうだか……。青年そいつはあっというまに隣に並んできた。


「爆竹も火薬だからよ、たまーにしけってンのが混じってンだが、その様子だと役に立ったみたいだな。安心したぜ」


 並走する最中、青年はこちらの腕の中を覗きながら微笑んだ。盗人の笑みに見えた。

 気に入らないという心境は表に出せない。昨日までなら気を遣う必要はなかったが、今は爆竹を融通してもらった協力者。口元だけでも笑みをつくり、自身の懐からいくつかパンを取り出して差し出す。


「ほらよ、約束の分け前だ」


 その数は三つ。手元に残ったのは二つ。今朝、そういう条件で協力を取り付けたのだ。


「毎度」


 目の前の青年は満足げにそれを受けとり、手元の袋に二つのパンを突っ込んだ。それから手に残したパンにどうということもなく食いついて口を開く。


「早朝に押し掛けられたときはどうしようかと思ったが、まさか上手くやるとは思わなかったぜ。これでお前は俺らの仲間だ。いつでも頼ってくれ」


 “俺はお前らとは違う”。顔に出そうになるそれを押し込んで頷いてみせる。


――――俺は生きると決めたんだ。だからこれぐらいの恥は甘んじて受ける。


 それを胸に刻んで「あぁ、頼りにさせてもらう」と、不自然でない程度に笑顔を浮かべてみせる。

 盗人せいねんは「あいよ」朗らかな表情だったが「――っと、不味いな」そんなことを呟いて眉を顰めた。視線は後方。

 何事かと耳を澄ますが、現状を把握するよりも早く、盗人は「じゃあ、あばよ」とどこへとも消えていった。間もなくして獣の爪音と、熱っぽい息遣いが接近してくることに気がつけた。現状を察することができた。


「もうきやがった!」


 警察犬だ。石畳を叩く爪音、足音がぐんぐん迫ってきている。犬の瞬発力は人間の比ではない。こっちの体力はすっからかん。どうあっても逃げ切るのは不可能――となれば迎え撃つしかない。

 姿を確認する余裕はないと、すぐさま一本隣りの路地へ向けて方向転換する。


「くっ……!」


 ただの転回ターンだというのに足首を引きちぎるような痛みが走る。しかし、足は止められない。通りを横切り、人が二人通れるかという狭隘な地形へと入る。


「ここでなら……」


 迎え撃つことができる。懐の重みに手をかざすが、それは手遅れであった。途端、凶悪な息遣いが耳元に入る。


「まさか!?」


 ここで振り向くことができたのは幸いだったのだろう。この身はすでに警察犬の射程内、警察犬はその身を中空に押し上げていたのだ。唾液にまみれた牙が鋭く光る。胸部から腕の筋力ははち切れんばかりで、その上、獲物に突き立てるだろう爪も長く鋭利。

 対してこちらは背と腹がくっつきそうな胴体、骨の形状を把握できるほどに痩せ細った腕、手元に武器はない。肉体的な不利は覆せない。だけど、意気は衰えるどころか、むしろ憤怒から燃え上がっていた。


「きやがれ!」


 犬の飛びかかりを躱しきる。それができれば最上であったが、あいにくこの体にまともな筋肉は残っていない。せいぜい身をよじって体の角度を変えるぐらいしかできない。

 折れるような負荷が足首を襲う。足を捻り、半身となった体を、完全に犬側に向ける。更に、体幹を右方向へ倒れるつもりで傾ける。差し出すものは――左腕。手の甲が上になるように腕を捻る。瞬間、唾液が光る鋭利な牙が左腕を口破った。


「     」


 肉が裂け、神経に深く食い込む痛覚の悲鳴に声が漏れる。

 骨にまで届く牙が熱をもたらす。顎の膂力は肉食獣のそれ。食い込んだら離さない、それを直感させる剛力。しかし、だからこそ戦い方はある。

 軸足から力を抜き、受けた犬の突進力に身を任せる。腕がもって行かれそうになるほどの力に、膝から上が勢いよく仰け反る。


――――これを待っていた。


 息を止めて全身に力を漲らせ、軸足を地面に残したままもう一方の足で大地を蹴り上げる。犬の重量を支点に、自身の体が中空へと押し上がる。


「――――フッ!」


 視界が一転する。

 犬が食いついたままの腕、その肘を直角に曲げる。反転した身体は警察犬の頭上、見下ろせる位置へと浮上。

 中空に浮かんだままの刹那、空いた方の手で拳をつくり、犬の頭を押さえこむ。即ち、自分の体重を上乗せした圧し掛かり。噛みついたら離さない。それを確信できなければできない、唯一の戦い方。

 歯を食いしばる。腕の痛み、これから来るであろう衝撃への備え――そして、地面との距離が、零になる。


「うううぅぅぅぅぅ!!」


 激突と同時に深々と突き刺さる牙、肘を砕く激痛。脳が大きく揺らぎ、目玉が飛び出るほどの吐き気が襲う。

 突き刺さっていた牙が唾液を光らせながら離れる。犬といえど頭部に衝撃が加われば悶える。顎に力を加えていられない。人間と同じだ。女々しい悲鳴を上げてのたうち回る警察犬。

 ままならない思考を正してすぐに起き上がり、近場に会ったゴミ袋を力の限り投げつける。


「おらぁ!」


 ギャウンと悲鳴を上げた犬は手足をばたつかせる。念を押してもう一つ、二つとゴミ袋を投げてのせる。死ぬことはない。せいぜい身動きが取れない程度。


「正当防衛だ……。悪く思うなよ」


 強がりだというのは自分でもわかる。

 囮に使った左腕はもう使い物にならない。犬による爪と牙の痕は膨れ上がり、黒ずんだ血が流れ出ている。骨こそ飛び出てはいないが、ひじ関節も感覚がない……。


「くそ、パンが潰れちまった」


 動かない左腕を庇いつつ、潰れたパンを懐にしまう。どくどくと絶え間なく溢れ出る脂汗を拭うこともできずに、逃走を続ける。


――――仲間だなんだと言っても、現実はどうだ。孤児グループのあの男は助けもせず、逃げたじゃないか。助けてくれないじゃないか。所詮、人間は独りだという証明じゃないか……。




・9

 細い通りを抜けると、レンガ造り壁が断崖の如くそびえていた。近場には階段。

 誘われるがままに、自身の足は階段を踏みあがっていた。無意識だった。階段なんかで気力を絞るよりは、入り組んだ路地の中に身を隠す方が賢明だと気づいていた。

 だのに、足は進む。行きつく先はわかっていた。体が覚えていたのかもしれない。


「なんで、俺は――」


 昔、父と住んでいた家を目指しているのだろう。

 石の階段から眺められる風景は以前のままだ。市街地の並びも、教会の尖った屋根も、劇場の建物も。何もかもが三年前のままのように思えて――。


「父さん……なんで…………」


 視界がままならない。吹き付ける風が肩をゆする。足腰の力が抜けていくようだった。

 足もとまでが揺れているような錯覚――というより、漏れ出る嗚咽の合間、地震のような震動と地響きに似たざわつきが鼓膜をゆすった。なにごとかを知るのは、苔の生えた手すりから下に目をやってからだった。


「いたぞ! あの小僧だ!」


 階段を駆け上がる街の大人たちが発する足音、雄叫び、雑音が、地響きの原因だった。「パンを持っているはずだ!」「早いもん勝ちだぞ!」「放せ!」「行かせるか、あれは俺のだ!」と誰もかれもが荒い鼻息で駆け昇ってくる。警官の仕業か、はたまた耳の速い野郎がいたのか。


「大の大人が、寄ってたかって!」


 もはや一刻の猶予もない。一足飛びに階段を駆け上がる。悲鳴を上げる肉体を気力で引っ張り上げ、なんとか頂上へ辿りつくと、すぐ目の前には“危険”と記された看板が鎮座していた。丸太やらシャベルやらが積まれている。ここは人気のない住宅街、おそらく住宅工事の資材置き場だろう。


「……俺はついてる」


 それらは一つ押し込めば階段へなだれ落ちるかという絶好の場所にあった。

 死人が出るかもしれないと考えはしても気にはならなかった。動かない体で逃げ切る術は他にないのだ。むしろ、やるしかないという強迫的な猛りが湧いてきた。足を踏ん張り、資材置き場へと急ぐ。


――丸太なら転がせば動く。


 一筋の望みを胸に、丸太に手を伸ばす。が、どうにも“死神の宣告”という呪いは払いきれないようだ……。

 手が丸太に触れるかというの瞬間、一筋のきらめきが、丸太を乱暴に抉り抜けた。散弾のように飛び散る木片、それを成したのは、一発の弾丸であった。


「ああ、確かにな。俺は、運がいいみてぇだ」


 弾痕から方角を察する。その方から姿を現したのは、威圧的な声調を持つ巨漢。


「両手を挙げろ、パンは持っているな」

「ブッチャー……!」


 住宅街より現れた巨漢、加えてその陰にはパン屋の娘が沈痛な雰囲気でもって立ち尽くしていた……。




・10


「見ろ、ガキがいるぜ」


 階段より駆け上がってきた大人たち、その先頭を走っていた若者がこちらへと足を踏み出そうとするが、それは銃声によって阻止させる。


「やかましい、引っ込んでな!」


 一瞬の発光だった。銃弾はあらぬ方向へ飛んでいき、大人たちは短い悲鳴をあげて、階段下に身を潜めた。

 邪魔者はいなくなったとばかりに、ブッチャーはのしのしと足を進めてきた。それは獲物を追いつめる時の警戒的な足取りに見えた。


「この娘がお前の事を知っていてな。この辺にお前の家があったらしいじゃないか。父親は……議員だったか?  落ちぶれたもんだ」


 挑発的な台詞は、こちらが満身創痍であるからの余裕か。

 通りよりも開けた広場。ブッチャーは、こちらの背後が切り立った絶壁になるように、逃げ場をなくすように移動して、左手の中にある黒光りする拳銃を主張するように向けてきた。


「さて、大人しくパンを寄越して大人しく投降しろ。でなけりゃ、わかるよな」


 後方は絶壁。のぼってきた階段側に辿りつくには、ブッチャーとの距離を詰めなければならない。仮に辿りつけたとしても大人たちの壁が邪魔をする。

 左方には広々とした空間が広がっているが、そっち側こそむしろ死路だと直感する。身を隠す障害物がないことから、機動力が無いこの肉体は狙い撃ちにされるだろう。

 かといって前方、住宅街に向かうにはブッチャーを越えていかねばならない。細身の銃身が待ち受ける方向を。


――――ああ、なるほど。俺はここで終わるのか。


 “死”。

 飢餓と拳銃に挟まれた自身の状況が予感させた確固たる感覚。

 まぶたが酷く重い。脚の震えが一層強くなり、膝から力が抜けていく。悟ってしまったがゆえの諦観が、心臓の火を小さく、小さく弱めていく。

 そんな折に頭を掠めたのは、黒い人影。それは想像上の映像ではなかった。視界に黒い影がちらついて、それは人影を成していき。


――――ヒヒ。


 笑い声が、聞こえた気がした。

 浮つくように弾んだ調子は愉悦を示し、妙に甲高い声調は嘲笑の如く耳に残る。

 フードの奥、白くも黄ばんだ歯を三日月に歪めているのが、自身のおぼろげな視界にどういうわけか鮮明に映った死神の姿。それも次の瞬間には幻の如く消え去っていた……。

 冷え切った心臓から赤黒く濁った怨毒の泥が噴き出す。懐にしまい込み、厳重に封をしていた重みを強く思い起こさせた。真に迫る冷え切った重みから、自然と声が漏れた。


「わかった……。パンは返す。だから撃たないでくれ」


 最後に残った、生命線ともいえる食糧。潰れたライ麦パンを二個、ブッチャーに見えるように取りだす。


「あぁ、約束は守ってやる……。それをこっちに投げろ。落とさないようにな。さぁ……」


 ねっとりした声が癇に障るが、表情を、内心を悟られてはならない。

 筋繊維をずたずたに裂かれた左腕に喝を入れて、自身の外套の裾を持ち上げる。脂汗が流れた。

 荒れそうになる息を潜め、俯きながら小さく深呼吸。乾ききった口内から入ってきた空気を入れ替え、肺に溜めて、二つのパンを上空へ放り投げる。目一杯の放物線を描くように――。

 ブッチャーの視線が、風船のように上昇していくパンを追って、上空を仰ぐ。


 直後、自身の足は石の大地を蹴っていた。最大の障害物――巨大な警察官に向けて、駆け出していた。

 パンが描いた放物線が最大値を示す。するとブッチャーに反応が見えた。見た目の鈍さを払拭するかのように、即座に構えの動作に入った。


「バカが!」


 左の人差し指を引き金に、右手を添えて、両の肘を伸ばす。拳銃の構えの動作に狼狽はない。黒く引き込まれるような銃口がこちらを捉えているように見える。

 しかし猶予はある。鋭敏な動作の反動つまりは腕のブレは、そのまま銃身のブレに直結し、間違いなくこちらに数秒の猶予をくれる。


「 」


 足は止めずに短く息を吸う。

 ブッチャーはまだ引き金を引かない。

 左腕からのぼってくる恒常的な疼痛は、まだ神経が通っている証。外套の裾を握ったままの左手、そのひ弱な握力が途切れないように、吸い込んだ空気を力みに変えて、一気に引き上げる。

 それは自身を覆い隠す布きれの盾、一瞬だけの煙幕。

 目の前を埋め尽くすのは暗い布きれ、擦り切れた外套。


「ふっ――!」


 そこから踏みでる為、細足を気力で右方向へと押し出した直後、銃声が左腕を掠めた。ボロ布の中央が弾け飛ぶさまを視界の端で捉えつつ、疾走。


「なにぃ!?」


 外套を抜け出た先は、ブッチャーのがら空きの脇下。ブッチャーに拳銃の構えを解く間は許さない。

 右手にあるのは“重み”。それは丈にして拳銃ほどしかなく、それは質量としては革靴ほどしかないにもかかわらず、地の底に根付いて引き込まれるような超常的な重量を持っているように錯覚してしまう。

 されどそんな違和感を退けるように、頭の中に木霊する言葉があった。


――――生きる。


 鋭利な先端を封じていた、平べったい木の鞘を投げ捨てる。

 露わになった銀の輝き。それを支える木製の柄を右手できつく握り締め、次いで脇を絞める。柄を肘で支え、肘を胴で固定し、加速をそのままに、鋭い光をブッチャーの脇腹へと突きつける。


――――俺は、生きる!


 ピンと張った薄紙を貫いたときに似た張りのある衝撃が腕に響く。そこからスルリと、油の上を滑るようになだらかな感覚で刃は進む。


「ひひっ」


 口元から奴の笑い声がこぼれる。突きつけた刃から伝うのは濁った赤い液体。


――――だから、俺以外全員おまえらみんな、地獄に落ちろ。


 自身の手首が何の躊躇もなく柄を捻る。ぐりゅんと泥の中を掻きまわすような抵抗が生じ、即座に手を離す。バケツをひっくり返したように目の前の腹から血液が零れ落ちた。


「うおおおおおぉぉッ!?」


 野太い悲鳴が目の前から噴き上がるや否や、脇腹に残った果物ナイフから意識を離し、地面に転がっているパンを一つ、右手で掴んで広場側へと駆ける。


 自分のほかに誰もいない、開けた道を駆けていた。

 風を感じる。解放感が風になって、体の中を吹き抜けているかのよう。足取りは軽快。視界は明朗。心中に漂い続ける死神の残滓が消えていくかのような爽快感が、足元から頭の先までに満ち満ちていた。

 でかい顔をする警察に怯えることもなくなる。

 路上に転がる大人たちに見下されることもなくなる。

 たかが、父子の馴れ合いを羨むことだってなくなる。

 世の中が自分の思うがままになる、と。そんな突拍子もない優越感が身体に力を送り込んでくる。


「俺は、自由だ」


 一筋の涙が頬を伝う。それがどこから生じたのかはわからなかった。わかりたくなかった。

 けれども、現実を誤魔化しきることはできなくて――。


 一発の銃声が空気を震わせた。


 胸の底に生じ、押しとどめていた陰鬱とした気が、現実の力となって肉体を突き抜けたのだ。それは気のせいではなくて、風船の中の空気が抜け出ていく肉体的な虚脱感が確かに、現実のものとしてあった。

 地面がずり落ちていく。

 違う。

 視界が沈みこんでいく。

 違う。

 体が、倒れこんでいる。

 衝撃の感覚をすっ飛ばして、冷やかな石床が体の前面を覆っていた。持っていたはずのパンはどこかへ消えた。


「はぁッ! はぁ……はぁ……」


 呼吸はできた。が、体に力が入らない。脚か足か。腿か、それともふくらはぎか……。焼け付く熱さが、脳を痺れさせる。肉体を麻痺させる。立ち上がれない。


「オイオイ、見てくれよ。ヒデェ出血だ。クソッ! 海ができちまう!」


 右の腕を支えに、声の主を睨み付ける。

 ブッチャーは膝をついて傷口を押さえながら、溢れ出る血液を指して笑っている。血溜まりには薬莢やっきょうが転がっていた。拳銃の口からは煙が上がっていた。


「大人しくしてりゃあよぉ……あぁ、俺がマヌケだった。すっかり忘れてたぜ」 


 そんな自嘲気味の笑いが歯ぎしりにかわり、ブッチャーは拳銃を構え直した。


「テメェら盗人に生きる価値がねぇってことをよ!」


 穴の底に落ちていくかのような吐き気を伴う浮遊感に、意識が揺らぐ。

 霞んでいく視界、ブッチャーの隣りに誰かが立つのを見て取れた。


「待ってください」


 女の声。少女の声が銃口を遮ったのをおぼろげに視認する。遠くに聞こえる複数にも思える声が、いくつか交わると、少女の陰がこちらを向いた。


「おい、聞いてんのか!? お嬢ちゃん!」


 膝をつくブッチャーの叫びのみが辛うじて耳に入るが、そのブッチャーの姿が蜃気楼のように虚ろに消えていく。空の青は白に転じ、建物は消え失せ、今にも途切れそうだった視界には、三つ編みを揺らしながら近づいてくるパン屋の娘だけがくっきりと映し出されていた。

 黒いもやが少女の姿を覆っていく。それは見慣れたあいつの影。


『よくも――』


 ガラスを隔てたような声が脳裏に響く。


『よくも、父を――――』


 少女の輪郭を、黒い外套が覆う。次第に接近してくる少女の目に、底なしの黒い眼孔が空く。肌は白色から真白へと削ぎ落ち、なめらかだった表面は、ひび割れた硬質なそれへと変貌した。


『父を、殺したな』


 それは“死の迎え”の具現であった。


「           」


 喉が破けそうな悲鳴が、腹の底、地の底から留まることなく込みあがる。爪を裂きながら大地を掻いても、血にまみれた細足で地面を漕いでも、体は前に進まない。逃げられない。


「俺に近づくな! 来るなぁ! 来るんじゃない!」


 腕を振ろうと、それが威嚇にもならないことに思考は至らない。

 振り向いた先、真白く、冷たいあの硬質な指が目前に来ていた。声は果て、喉は隙間風を出すのみで、ただただ、涙だけが溢れていた。

 のっそりと、底なし沼に沈みこんでいく恐怖を思わせるように伸びる白骨化した手が、死に迎え入れようと伸ばされた手が、とうとう、震えるだけの血にまみれた腕を捕まえた……。



 暖かく包み込む人肌のぬくもりがあった。



「そのパンは貴方に差し上げます。ですから、もういいんです」


 目の前にはパン屋の少女が膝をついて、春の陽気のような温もりでもってこの震える手を包み込んでいた。その言葉が、少女の行動が意味するところを解するのにどれだけの時が流れただろうか。


「なぜだ?」


 力の入らない体に喝を入れて、肘をついて上体を起こす。口から漏れ出たのは、少女が向け続ける慈愛の瞳に対する疑問。問うべきではないのに、手を払って逃げれば良いのに、抑えのきかない衝動は噴出する。


「オレはお前の父親を殺したんだぞ! オレが憎くないのか!? どうしておおらかでいられる!? どうして、オレを許せるというのか!?」


 疲弊した喉を酷使して声を張ったのは虚勢を張るためかもしれない。勢い任せに手を払ったのは自身の震えを悟らせないためだったのかもしれない。少女の水晶のような眼を睨み付けているのは――どうしてだろうか。

 それでも少女は、憎たらしい聖母の紛い視線を折らない。


「答えろ!!」


 喉は震え、腹の底からの振動は傷を抉るが、目をそらす気はない。

 泥のような汗が流れる。

 少女はほんの数秒の間――もしかしたら一瞬だったのかもしれない――目を伏せてから、手をついて立ち上がった。見上げた先、少女の薄い唇がそっと開かれた。


「国は敗れ、富は失われ、人々は日々の生活を奪われました」


 大人びいた瞳は陽光を受けて金色に光り、遠く見渡せる陰鬱な街並みに注がれていた。


「幸運にも私たちは人に助けられ、路頭に迷うことなく、こうしてパン屋を続けることができています。その時に感じたのです。苦しい時代を生き抜くには、すべての人が手を取り合う必要がある、と」


 冬の残り香にも思える風に、彼女の三つ編みが物憂げに揺らめく。 


「人が人を蹴落として幸せを独占しようとするなら、その先はきっと……」


 これ以上、少女に目を向けていられなかった。奥歯に力が入る。唇が震える。この込み上げてくる感情がどこからくるのか判断がつかず、堪える以外に抗う術を知らない。

 足音が移動する。彼女の足音がいくらか離れると、砂利を踏みしめた音が耳に入り、それからまたこちらに近づいてくる。


「『今は権力を持った人にしかパンを作ってあげられない。』父はそう言いました。」


 その一歩一歩は整然としていながら、時に力強く。


「私は、お腹が空いて困っている人のためにパンを作りたいのに……。“大人の事情”というものらしいです」


 時に弱々しく。


「だから思うことがあります。『たまには他の人が幸せになってもいいんじゃないか』って。もちろん犯罪はいけませんよ」


 確かな、生きた人間の鼓動を思い起こさせた。


「ですから」


 少女の足音が止まると、視界の隅に小麦色がちらついた。それを目だけで追う。そこには、ふっくらとした中身を彷彿とさせる厚く膨れ上がった生地の面影はなく、荒っぽい力で押し潰されたライ麦パンがあった。

 さらに向こうには、薄汚れたそれをまるで傷みやすい宝石を扱うかのように差し出された手があって、後はもう自然の成り行きで、無意識の視線はその手元を追っていた。


「ですから、このパンはあなたに差し上げます。あなたはいつもお店のパンを眺めに来ていたから……。私は、あなたに食べてほしいのです」


 逆光を受け、彼女は、柔らかく微笑んだ。




・11

 脇腹に突き立てられた銀の刃から血が滴る。どっぷりと肥えた肉に半分ほど埋まった果物ナイフは、その突き刺さっている人間と共に、忙しなく、小刻みに震えていた。


「どけよ、オイ、お嬢ちゃん!」


 身体と同様に震える銃口は孤児へ向いているが、隣にはパン屋の少女が寄り添っている。手元の狂いは必至。引き金を引いたなら、その結果が確定的でないことは明らか。

 軍隊帰りの警察官、ブッチャーは生来の気質と、与えられた職務との板挟みにあっていた。


「早くどけってんだよ!」


 警官としての彼の使命は“市民を守ること”。そこに関して、彼は誠実な態度をみせていた。軍隊で嫌というほど学んだ“順守”の性質がそうさせていた。


――――もしも守るべき市民を撃ってしまったなら……。


 強く思い浮かぶのは、自身にとってこの上なく悪い想像。それは彼生来の気質がそうさせていた

 少女を撃ってしまったなら、警察としての職を失う。言い換えれば公安組織の一員という特権を失うということ。特権を失えば、日々の生活における安寧も失う。あぶれた住人どもからの報復はない――とは言い切れない。犯罪者だろうと犯罪者もどきだろうと、報復がないよう徹底して息の根を止めてきたが、考えてみればそれらの仲間から報復を受けないとは限らない。むしろその線は濃厚。あり得る。しかし目の前の小僧はどうだ。たったひとり、満身創痍じゃないか。……きっと痛めつけた奴らを恨んでいる。ここで確実に息の根を止めなければ報復される。ああ、でも、銃弾が少女にあたりでもしたら――。

 連鎖する妄想、繰り返す連環の思考に、ブッチャーの頭はパンク寸前。腹部からのぼってくるひりつく痛覚が、その親指のように太いひとさし指に力を入れた。銃身内部に軋轢が生じる。


「どかないと……でないとホントに……!」


 禁断症状の如き肉体のゆすりはより激しさを増す。そこには狂気すら垣間見え、照準はままならない。


「本当に撃っちまうぞ!!」


 足もとの血だまりが波立つ。彼の内で、前後不覚のまま“臆病”が大きく背中を押した。

 決定的な一押しに、ブッチャーは今一度引き金に力を込めて――。


「やめなさい」


 彼が引き金を引くことはなかった。

 銃身に太く逞しい男の手が置かれ、ブッチャーは怯えた瞳に力を込めて、手のもとにいた人物を睨み付ける。


「やめなさい」

 

 再度の警告。ブッチャーは声の主を目にした途端、その眉が委縮したように縮こまった。


「あ、あんた――いや。貴方は……!」


 男の人相に覚えがあった。ぷっくりと大きく高い鼻の下には、短く切りそろえたちょび髭。紳士帽を被り、体型は丸っこいふくよかなもの。

 ブッチャーの腕がしなしなと地に降りる。恐る恐る開かれた口から、その名が飛び出そうになるが「無暗に口を開くものではない、わかるな」という男それにきゅっと口を結んだ。「ここより先、警察官きみたちの出る幕はない。下がりたまえ」と男はブッチャーと目を合わせることなく、そう会話を切った。

 しかし、とブッチャーは声を荒げた。


「しかし大尉! 見てください。俺、血がこんなに出て――」

「アントン二等兵」


 男はたった一言。号令に似た張りと共に多少うんざりした色を込めて告げると、ブッチャーの肩が震えた。男はこれ以上の警告はないと言わんばかりに「上官命令だぞ」とだけ付け足した。

 ブッチャーの瞳孔がぶれる。彼を縛り付ける軍役の経験が喉を詰まらせた。それから辛うじて絞り出したのは「申し訳ありません」と消沈したような声色。拳銃は手から離れ、血だまりに転がる。

 男は満足して頷くと、陽の指す方へと体を向けた。


「見たまえ、あの光景を」


 温和に細めた目は偽りのない聖職者のようで、その先には傷つき痩せこけ、懺悔の涙を流す少年と、寄り添い小さく震える肩を支える若き聖母を彷彿とさせる少女が、一筋の光に照らしだされていた。


「私や君のような人殺しが、堂々と街中を歩けるこんな世の中でも、あのような光景が生まれるのだ。そう考えると『世の中まだまだ捨てたものではない』と、そうは思わないかね」


 荒涼とした地に春風が吹き抜ける。街は一時だけの、穏やかな静寂を取り戻した。






・エピローグⅠ 少年

 

――――あの日、俺は“死ぬ”という感覚を知った。


 パン屋“バッカライ”の裏手、建物の影にて一つの人影が揺らめく。人影は左腕に包帯を巻き、左足を引きずりながら、肩幅ほどの木箱をよたよたいかにも重そうに運んでいる。


――――命を落とすことだけが“死”の全てではない。過去との決別だとか、悪しき日々の終わりだとか。“決着”を意味することもある。

  

 それから目的地に着いたのだろう、ゴミ箱の対面に木箱を少々乱暴に下ろした。


「これで最後か」


 人影は息切れを整えつつ、頬を伝う汗を、袖を捲ったスウェットシャツの二の腕部分で拭う。


――――あの日、俺は悪しき日々に決着を着けた。

 

 露出した左腕には包帯が巻かれていた。


「しかし、あの親父……、どうしてこうもこき使うのかね。傷も治ってないってのに……」


 人影は木箱を蹴った。するとそれを見ていたかのように、鉄の扉が勢いよく開かれた。


「おい新入り! たらたらやってんな、鍵閉めちまうぞ!!」


 パン屋の店主の叱責が人影を飛び上がらせた。扉の向こうでは「ちょっと、お父さん!」という少女の声に追随してドタバタと騒がしい音が聞こえる。それらはものの一分もしない内におさまると、扉から苦笑いを浮かべた少女が顔を出した。


――――今にして思えば、あの死神は、悪しき日々の俺を“殺す”きっかけをくれた、俺の中の弱い心が生んだ、俺だけの幻だったのかもしれない。


 三つ編みの金髪が夕日に光る。


「ごめんなさい。お父さんったら、また……」


 人影もまた夕日に照らし出され、少年の姿が露わになる。


「悪いことをしたのは反省してる。どんなふうに扱われても文句はいわないつもりだったけど……。親父さん、何とかならない? いっつも怒鳴られるのはやっぱ辛い。……殴られたこと、まだ根に持ってるのかね」


 少年は軍手を外してから、短くなった汚れのない金髪を掻いて口を尖らせる。


――――その証に、死神は、あの日を最後に姿を消した。


 少女は首を横に振った。


「たぶん、違いますよ。あの人、中身も石頭なんです」

「どういうこと?」


 皆目見当もつかないと少年が訊き返すと、少女は「どういうことでしょうね」ととぼけたふうに首を傾げた。

 少年は自分のあずかり知らない所で動く思惑を感じ取って、これ以上口を挟むことは憚られた。

 少女はそっと微笑むと、少年の傷のない方の腕を引っ張る。


「さぁ、早く戻りましょう。晩御飯できてますから」

 

 言われてみて、少年は鼻に漂う甘みのある香りに気がつき、覚えず腹の音が鳴る。少ないながらの夕食の香りだった。少年は若干俯きながら口を開く。


「毎日、本当に助かるよ。ありがとう」

「ふふ、大事な男手ですからね、しっかり精をつけてもらわないと。労働者の管理は資本家の基本です」


 少年は笑い声を漏らした。それが表面的な言い方でしかない事を知っていたからだ。


――――理由は一つ。今の俺には必要ないからだ。そしてこれから先も……。


 少女もまた同様に微笑んだ。


「明日もよろしくお願いしますね、新入りさん」


 少年は胸の内に差し込む夕焼けに似た輝きを込めて、そのたった一言の言葉を口にした。


「あいよ」


――――もう二度と、会う気はない。






・エピローグⅡ 死神の独白


 これから先、彼の未来が明るいものになるとは限らない。

 彼の父親が返ってくるかも定かではない。

 “生きる”とは必ずしも“幸福”ではない。

 ややもすれば、彼はあの日陰の生活に逆戻りすることもあるだろう。


 しかし、私はそう言った不幸の淵にしか存在できない。

 そこでしか君たちと逢えない。


 君達は、私の姿を穢れた亡者としていとうだろう。

 君達は、私の声を罪深き所業へ誘う悪魔の囁きとして退しりぞけるだろう。

 故に、私の生の声は君たちに届かない。私の本心を知る者はひとりとしていない。




 だがそれでも、私は君たちに言いたい。




 月だけが映す孤独な世界で、誰も耳にすることのない独白だが……。

 私は、君達に向けて言おう!



「生きろ」



 ただ、それのみを願う。

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