雨女
長雨が続いている、外では河が泥水の様な色に変わり、大きなうねりを作りながら強く流れている事だろう。事だろうというのは、長年此所に住んでいる事から来る経験からであり、実際に見た訳ではない。だが雨は未だに上がる気配もなく、堰にぶつかる強烈な流れの怒涛の響きは闇の中を貫いてトイレの中まで伝わってくる。そして僕は、絞られるような下腹部の痛みに耐えかねてずっと便座に座りっぱなしだった。
そんな状態なので河がどれほど危険な状態かを見にいける状況でないが、メールでは先ほど避難勧告が送られ僕が住んでいるの町の名前がそこの一覧に名を連ねていた。しかし危ういのは河だけはでなく、まさに現状の状態で避難したくても便座から身動きが取れない状況だ。これは昨日から続いている有様で、トイレと寝床をずっと往復しつづけている。何か悪い病気ではと、這う様にして昼の間に近隣の医者に久々に顔を出せば、
「お腹を冷やしたみたいだね、心配するようなものじゃないからね」と食事の注意だけして、さっさと診療を終わらせてしまった。近所でもまともなドクターと言われているけどせめて薬くらい欲しかったのだけど。
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「やぁやぁ、こりゃまたやつれたもんだ」人が寝床で困っている時に限って陽気に訪問してくる奴であるが本人は一応見舞いのつもりか、てるてる坊主をひっさげてきてアパートのベランダの軒先に吊るしてみせた。
「な、ちょっとは気分転換になるだろう」
「それどころじゃないってば」僕は、布団の上で体をくの時にしたまま言った。キリキリと腹が痛むからだが、もう出るものさえ無いから、きっとこの状況が収まったらウェストはさぞや引き締まっていそうだ。
「まぁ、自業自得ともいうがな」とお月さんは、意味深げに笑みを浮かべた。
「いてて、何でだよ」
「ならば、昨夜は何があった?」昨夜?僕は痛みと戦いながら昨夜の不思議なことを思いだした。
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それは、長雨で河がどれほど増水しているか見に行った時だ。河は闇の中で轟音を轟かせ、時たま強く降る雨は、僕の傘を太鼓の皮のように叩いて響かせていた。闇に慣れると河はかなり増水していて、河川敷にある広場に水が丁度入り込んでいる所なのが分かった。その流れの際に人影が見えた。それは女性の様であり、その輪郭がまるで夜光虫が集っているかのように、光っては消える小さな明かりの群れに囲まれていた。
なんだろうと思ってじっと見ていると、女性の姿はふっと振り返り僕の姿を捉えたかのように見えた。女性は、僕においでおいでをしていた。怖い、そう思いながらも足は勝手に濡れた草を踏み土手から河川敷に降りて行った。
やがて僕が女性の近くに行くと、「寒い」とだけ言って女性は消えてしまった。周りにはその小さな明かりが飛び交い生臭い匂いが漂った。その小さな光の幾つかは僕のすう息に混じって吸い込んでしまった。
一体あれは、何だったのだろう。おかしな幽霊だったりしたら嫌だなと思っていた矢先に、腹を下しだしたのだ。しかし、幽霊と下痢じゃああまりにも取り合わせが変なので
関係ないと思っていた。
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「まぁ、そういう結果もあるかもね」お月さんは言った
「幽霊がいると背筋が寒くなるって言うだろう?」
「まぁ、そうだね。」僕は、じめじめとした部屋の中で冬の残り物である使い捨てカイロを腹に押し込んでいた。
「あれは人の体温から熱エネルギーを奪うことで幽霊は、自己の情報を保持したり、空気の一部の電子を励起させて発光させたりしていたのさ」
「それで?」僕は、正露丸を飲んだ。
「こうゆう湿気が多くて寒い日は、気が凝り易くなってね、固まった状態で、じっとしているのさ。それが人の形を採るのはもともと人の気だからなのだけどね、いずれにしろ暖かい人を見ると、早く暖を取ろうとしてね寄ってくるのさ、しかも凝結しているものだから、誤ると それを飲み込んでしまう。」
「え。じゃあ、腹が冷えているのは、霊がお腹の中で暖を取っているの?」
「まぁ、そういうことかな」お月さんは、冷たいビールをごくりと飲んだ
「まぁ、晴れて、暖かくなれば、勝手に出てゆくさ」尤も、長雨は未だ続いているわけで、僕はまたトイレに駆け込んだ。




