ばらばら
満月が、唐突に厚い雲に隠れた深夜、天気予報では未明に雷雨になりそうだと言っていた。闇に染まった空気は熱気を含んだ湿気が充満し、ねっとり感が沈滞している。その上風の動きさえ感じられない。そんな夜だ。もし予報通りにひと雨あるならば嬉しい事この上ないだろう、風を期待して開け放ったままの窓から夜烏の不気味な啼き声が入ってきた。
そして、お月さんは、何時もより青白い顔をしてやってきた。お月さんは左右のこめかみを親指と中指で押さえ、丸い顔を覆い隠しているが、瞬時にして顔面蒼白という様な顔色をしているのが伺い取れた。二日酔いではなさそうだ。
何時もとは違う雰囲気に、思わずどうしたの?と聞かずには居られなかった。するとお月さんは、こめかみを押さえていた手を外し、険しい目で僕を見つめた
「人間がこれほど迄に残酷な存在とは思わなかった」お月さんは、ゆっくりと一言一言に力を込めるように言った。どうやらよほど酷いものを見たらしい。
「何があったの?」僕は、恐る恐る聞いた。
「それより、ビールをくれないか?あんなものを見て喉がからからなんだ。いや無いというなら麦茶でもいい」初夏を迎え暑いはずの部屋は、一瞬にして冷気に包まれた感じがした。一体お月さんは何を見てしまったのだろう。僕は、缶ビールと秋刀魚の蒲焼の缶詰をお月さんの前に置いた。お月さんはすかさず、ビールのプルタブを外し、ゴクゴクとビールを飲んだ。そして一呼吸おいてから缶を置いた。
「バラバラにされた死体を見た。」お月さんは、真顔で僕を直視していきなり本題を言い放った。
「俺だってまぁ、長い間人の営みを眺めて来たがこんな酷いのは始めてだ」
「なんだって!」そんな事聞いては放っておけないが、僕の頭の中はいきなり暴走を始めそうだった。
「直ぐに警察に連絡しないと、場所は?」僕は中腰になりながらお月さんに訊いた
「お前、俺に聞いたとでも言うつもりか?」お月さんは、じっと僕を見つめた。
「それに俺だって、空の上から見ただけだ、直ぐに何処だのって言えないぜ」確かに、そうだ。それにこの近くだと聞いた訳ではない、遠くの県の藪の中という事もあろう
「どの辺りだったの」とお月さんの言葉に一応冷静を取り戻した振りをして訊いた
「お前の家の前の河原にある藪の中さ」思わず僕は、息を呑んだ。お月さんは立って僕を上から見ろした。
「連絡するのだろう?付いてこいよ」腰が引けた。そんな事、僕が今行かなくても
きっと誰かが見つけるに決まっている、血なまぐさいものなんか見たくない、何よりこんな事件で第一発見者になって、警察にあれこれ尋問されるのも面倒くさいし、マスコミ取材なんかされるのもまっぴらご免だ。
「行こう」とお月さんは、身動き一つとれないでいる僕を煽った。もし立たなければきっと無理やり立たされてしまうだろう。
「うん」僕は、しぶしぶ立ち上がった。
深夜ともなれば、熱の籠もった部屋より川沿いの方がそこそこ涼しい、僕らは、人気のない河川敷沿いのサイクリングロードを連れ添って歩いた。何時もは、深夜に犬を連れて散歩をしたり、終電を乗り過ごした帰宅難民がふらふらと歩いているのに出くわすのに、こんな晩に限って人の影さえない。
「急ごう」お月さんは言った。
「上から見ている間も、何か野生動物が死体の一部を咥えて持ち去って行ったんだ。」
「うん」と僕は、返事をするにも気が重い。嫌だ、見たくない、絶対見たくない。にもかかわらず黙っていると余計に悪い方向に想像が膨らんでしまいそうなのでついつい口を開いてしまった
「犯人は見たの?」
「ああ、言いたくはないが」お月さんは、躊躇いがちに言った。
「人間が如何に残虐な存在であるかが分かった。君達は生まれながらにして、殺人者ではないかと思うよ」
「なんで?」
「犯人は子供でね、まだ小学生じゃないかな、それがさ7歳位のを寄ってたかって殺してバラバラに切り刻んでいたのだよ」
「そんなまさか」僕の足が止まった。
「いや、それもまるでゲームの延長のように楽しんでやっていたよ。人というのは年々残酷になって行く気がする」前を行くお月さんは、土手を河に向かって降りたその先には、更に暗く薄に覆われた藪になっている。湿気が多い、脇の下から冷たい汗が湧いてわき腹まで伝わって落ちて行った。
*
二人で藪を漕いで進むとやがて、薄が刈られて作られた小さな空間に出た。
「ここだ」とお月さんは、ぼそりと言った。しかし、そこには何も見えない、死体のひとかけらも存在しない。動物が全部咥えて持っていってしまったのだろうか、しかし、暗い地面には心なしかあちこちに黒い染みのようなものが出来ているように見える。
「死体がないね」僕は周りを見回しながら言った。そればかりはホッとした気分だ。そうなら警察に通報することもない、なんと言っても死体が無いのに殺人があったなんて説明できる訳が無い。
「見えないかい?」お月さんの返事は僕の期待に沿わないものだった。お月さんは地面の一角を指して同じ台詞を再度言った。そこに破片が残っているのだろうか 僕は、おそるおそるその指し示す場所に移動した。じっと暗がりの地面を懐中電灯で照らすが何もない。僕は首を横に振った。
「そんな筈は無いと思うが」お月さんは僕の横に来るとしゃがんで何かを探しているようだった。そして、地面に手を伸ばすとなにか小さくて黒いものをつまみあげた。乾いた血にまみれた子供の親指に見えた。
「ほれ、あった」それを僕の目の前に差し出した。思わず僕は顔を背けた。そんなもの正視できる筈がないにもかかわらず執拗にお月さんはほれほれと僕にそれを見せようを僕の鼻先に突き出す とうとう視界にそれがまともに入ってしまった。
「蝉?」と思わず口に出た。そうそう、お月さんは頷いた。
「あのガキども、7才にしてやっと地上に出た蝉の幼虫を捕まえたものの、足や羽をもいで遊びやがってな・・・」蝉は、お月さんの手の中で一つの物体のようにみえた。まるで河原で拾った小石のようだ。小さい蝉だニィニィゼミだろうか
「残酷だよねぇ」とお月さんは僕に同意を求めた。
「確かに」そういや、お月さんは、人の死体とは一言も言っていなかったな。と思い出した。
「そしてな・・・」とお月さんは、藪の奥を指して言った。あっちにも可愛そうな死体があってなとお月さんは、しみじみと言った。はいはい、と僕がそっちの藪を両脇にのける様に一歩踏み出すと、白い人の掌が大きな黒い袋からにょきと伸びていた。
ざざ・・・と何かが音を立てて藪の中に入ってゆき、そこから光る目が僕を睨んだ。
「あとは宜しく」と言ってお月さんは僕をその場に残し空に帰って行った。
「待ってよ」と叫ぼうとする声が、喉の奥に支えて出てこない。やがて、光る目がそっと闇の中からこちらに向かってきて、僕の存在を無視するかのように黒いゴミ袋に近づいた。黒い猫だった。猫は、ゴミ袋を噛み付き引っかき中の物を洗いざらい出してしまおうとしていた。 異臭が漂い始めた。生ゴミの匂いだった。手じかにあった棒きれで白い手をそっと突付くと、それが異常に硬い。頭の中で死後硬直という言葉が浮かんだ。
猫がその間にも、袋を引っかきやがて掌がポロリと地面に落ちた。思わずを身を引いてしまったがその手首からボルトが一本飛び出しているようだった。まさか骨ではと思いつつも、猫を追い払ってよく見てみれば、マネキンか人形の手首の様な物であることが分かった。 ほっとするのと気が抜けるのが同時に襲ってきてその場でへたりこんでしまう所だった。
「まったくお月さんにはしてやられてばかりだ」とゴミ袋を背にして帰ろうとすると声がかかった。
「ネコを追い払ってくれてありがとう」子供の様な声だったが、振り返ると誰も居なかった。空耳かと思って戻ろうとすると、頬に大粒の雨が当たった、とうとう来たかと思って空を見上げると空に青白い稲妻が走った。そして驟雨が、襲ってきた。ふたたび、気になって振り返ると、一瞬の稲光の中に小さい子供の姿が見えたような気がした。しかし
そこにあるのは、黒いゴミ袋唯一つだった。あれは何だったのだろう、という心に一つのしこりを残したまま、僕は泥水を跳ね上げて走って帰った。
翌日、その辺りには警察官が多く集まり、黄色いテープがあちこちに張られていたので、立ち入る事は出来なかった。