木耳
早朝である。東雲色に彩られた風景の中を、一組の夫婦が、一匹の犬を従えてゆったりと会話を弾ませながらすれ違ってゆく、そして振りむけば二人がそのままの歩調のまま細い道を伝って土手から下に降りてゆく姿が目に映った。緑あふれる川沿いの杜の中へ。
そこには、樹木が何本も寄り添って生えている場所がある。それらの木々はまるで小さい祠を守るように立ち並び、下生えの草木も膝をくすぐるほどに伸びている。
その中でもかなり太いスダジイは恋人の木とも呼ばれている。その為かその木の幹にはいたるところに相合傘マークが痛々しくついている。
誰がこの木にそんな御利益がある様に言い出したのかは知らないけれど、小さい社はあくまでも水害から人を守るためのもので社は関係ない、ただ噂ではこの木の下で恋を囁くとそのカップルは幸せになれるとか、結婚できるとかと言う話が伝わっている。
僕が思うにこの木の位置関係にその噂の由来があるみたいだ。周りに木が密集していて特にこの木の幹あたりに寄り添うと、何処からも陰になって外から見え難くなるのである。こんな場所だから昼も夜も、なんらかの秘密めいたカップルが此処で恋を語らったりするにはうってつけなのである。
さて、こういう場所には全く縁の無い僕であるが、人の居ないのも見計らってこの木によじ登ったりする事がある。別に木の上でカップルを待ちうけ、熱々ぶりを恨めしく観察しようって訳ではない。
僕はには僕なりの用がこの木にはある。不思議とこの木は年がら年中木耳が生えていて採れない日が無いのである。だから小さい籠を持ってそれを採取するために登るのである。
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その木耳をゆでて、シロップに漬けると見栄えを除けば良い感じの歯ごたえのするデザートになる。丁度硬めの寒天と言う所だろう。ゴムタケとかあればもっと最高なのだけど。ちょいとそういうのが生える環境ではなさそうだ。
ただ、それを口にした瞬間、甘さが突き抜け、お月さんは
「これは甘すぎ!!」と呻いた。「ただでさえ甘い言葉を聴きすぎた木耳だけに、甘みは抑えた方が無難だったな」
「ハチミツまで入れたしさ」と僕は味付けに使ったものを回想しながら頷いた。その余りの甘さに喉が痛くなってきた。この木耳はよほど凄い甘言を聞いたらしい。そして、その甘く恋をささやく声さえ胃の中からさえも湧いてくる
「なにこれ」
「強い思いが木耳の中にまで記憶されたのだろうね」お月さんは、もういいって顔をした。しかし未だ沢山木耳は残っている。何時は、刻んで炒め物とかに入れているから、こういう目に合わなかったみたいだ。
「あーこの木耳は、不倫の恋を聞いているし」と僕がうんざりして言えば
「こっちは男同士だぜ、人間って恋には貪欲だよなぁ」とお月さんも感心したいるかのように言う。あれこれ言い合っている内に老菌なのか、硬めの木耳が残った。僕はそれを半分にしてお月さんと分けた。それだけは、酷い味がした。
「ぶっ殺してやる!!」
女性の声が腹の中から頭の先まで響いた。ハスキーな怒りに満ちた声だ。そういえば、ここに引っ越す前に、その場所で殺人事件があったと誰かに聞いたことがあった。恋を語るにもよいが人目につかない分、推理小説の設定にもぴったりだ。ただ、この事件には、名探偵も辣腕の刑事も現れなかったようで、未だに犯人は挙げられていない。
「いくらなんでも十年以上も生きている木耳はないよな」僕は、吐き出しそうになりながら言った。
「怨念が強く木耳の遺伝子に刷り込まれて、胞子から子々孫々に伝えられたのかもね」お月さんの言葉に僕は頷いた。その僅かな隙にお月さんは、そっと手を伸ばして、口直しにと僕の虎の子である燻りがっこをパクパクと立て続けに食べ尽くしてしまった。そうかもな、恋は冷めたりする時があるが、恨みはなかなか冷めないものだったりするから。僕の場合は、特に食い物の恨みは忘れないし。そう考えながら燻りがっこがあった空の皿を見つめるばかりだった。
翌朝、何時も犬を連れて散歩をしている老夫婦にまた出会った。柔らかい表情についついこちらも和んでしまいそうになる。こんな風に長い間連れ添うことが出来るような関係っていいなと思う。何時も一緒で理想的な仲の良い夫婦って感じだ。たまたま、その老犬が僕に尻尾を振りながらじゃれてきた。
「ごめんなさい」いうハスキーな声に続いてその老犬の頭を叩きながら「こら!よしなさい」と犬を叱る老女の声が、あの木耳の声にだぶった。
僕から遠ざかる二人の姿、そして何時もの通りにあの祠のある緑深く陰湿な空間の中に二人は、降りてゆくところだった。気が付けば、夫の手には小さな花束が握られており、老女は、夫の空いている方の腕をしっかりと自分の腕を絡ませていた。
その夕、アパートの大家さんと立ち話がてら、その婦人の話が出たついでに、訊いてみればその老女は後妻であり、前妻はあの木の下で殺されたとのことだった。そう、丁度この日の数十年前の話だったそうだ。




