熱帯夜
「最近ジョギングをしているのだけどね」僕は、ちゃぶ台で一杯やっているお月さんをちらりと見て言った。そして汗だらけのTシャツを脱ぐと、ワイヤー製のハンガーに通した。お月さんは、そんな僕を鬱陶しそうに見ている。暑い夜に汗だらだらの奴が傍に居ればそりゃ見苦しいと思う。
「いまさら何のためだい」お月さんは、鼻で笑いながら言った。茹でたての枝豆が、
僕の体同様に熱を発散している。その枝豆をお月さんはポンと中身をはじき飛ばすように口に入れた。
「一応健康の為というか最近腹が出てきたし、健康診断でもちょっとコレステロールの値が高いって注意されたんだ。まぁ一寸は運動しろって指導を受けたのが原因だけど」ハンガーを持ってベランダに出ると、河を渡ってそよぐ爽やかな風が汗の滴り落ちる体に心地よい。
「ふーん」とお月さんの生返事は、感心が無いからだ。
僕は、汗で湿ったTシャツをベランダのもの干し棹に吊るした。洗濯後3日は使い続けているのではっきり言って汗臭い。しかしこれはランニング用の一張羅だし、夜な夜なこのシャツ一枚だけを洗っていられないので明日の為にそのまま干すのである。干さないともっと悲惨な運命がこのシャツと僕を襲う事になる。当然、週に一回くらいは洗っているから、その瞬間だけは清潔なシャツに戻るから構わないだろうと自分に言い聞かせているけど。
部屋に戻ると風が入ってこないので、蒸し暑さがこもったままだ。
「ふう」と僕は上半身裸のまま、団扇で体を扇いだ。残念ながらエアコンは故障中だ。その姿のまま台所まで行き、ジョギングで火照った体を芯から冷やそうと冷蔵庫を開けた。しかしビールは在庫切れ、あるのは麦茶だけだった。
最後のビールはお月さんの手中にあったことを思い出した。僕は悔しい思いで麦茶をグラスに注ぐと、氷をそれに落とした。これも麦のエキスと我慢をしながら、枝豆と麦茶を交互に口に入れながら、僕はそうかジョギングの話をしていたのだなと思い出した。
「この時間に走っていると、何時も会う人が居てね土手道のこの家の前で必ず追い越されるんだ。しかも妙に静かに追い越してね、不思議と足音一つ立たないのさ」
「幽霊じゃないのかい」お月さんは、いひひと笑って幽霊の真似をしてみせた。うらめしいのは、むしろお月さんの手元にあるビールの方だ。
「いやいや、追い越し様にいつも片手をあげて挨拶をするみたいな仕草をするし、足もちゃんと有るから、違うと思うよ。きっと、いい靴を履いているから音も出ないのじゃないかな」コースだってきちんと舗装されているし、値段の高いシューズなら音も出ないのかなというのは、そういう靴というものを知らない勘ぐりだけなのだけど。
「ふーん」お月さんの今度のふーんはやや興味を持ったみたいな様子だった。
「その静かに追い越す人がなんだって?」
「いや、何時も黙って追い越されるのもなんだし『こんばんわ、走るの早いですね』と声をかけたら、いきなり驚いた顔で僕を見てね、そのままダッシュして居なくなってしまったんだ。なんでだろうね」僕が言いたかったのは唯それだけのことだ。
「ああ、ひょっとしてあいつかな」お月さんは覚えがあるようだった
「誰?」
「下っ端の死神だよ。前さんみたいに、無茶な運動するやつから追い越し様に片手で少しづつ命をこそぎ落としているのさ、まさか見えているとは思わなかったらしいね。今日もこうして訪ねてきたのも、危ないから気を付けなよと忠告してあげようと思ったからなのさ、もっとも必要無かったみたいだけどね」そしてビールをぐびぐびと飲んだ。
ぼくは、ぞくぞくと背筋に悪寒のような物を感じた。熱帯夜を迎えた夜には十分過ぎる涼しさだった。