朝顔
夏の朝は、どうしても早起きになる。目覚まし時計が鳴る前だというのに東の窓から陽が力強く射し込んでくるから眩しいし、余りの暑さに寝ていられる状態ではないからだ。 うなり声を上げて裸同然の姿のまま伸びをしてから、まだふらつく体をゆっくりと起こし狭いベランダに出て親の敵を見るような気分で空を見上げる。その僕の足元には、鉢植えの朝顔が、棒切れに巻きついて小さいながらも京紫の綺麗な色で花を絞り状に染め上げている。
僕の唯一の朝の慰みだ。そしてここでやっと体がまともに動くようになる。もっとも未だ寝ていたいという感覚は尾を引いたままなのではあるが。日差しと暑さが二度寝を許してくれない。
ただ、こんな風に日々朝が早いという状態なのに、隣の住人のせいで寝付ける時間も遅くなっていて睡眠不足が続いていた。これも夜な夜な、男がやって来ては愛の時間が延々と続くからだ。
隣の女性は、一人者だけど、以前部屋を出たところでばったり出くわしてしまった男は結婚指輪をしていたので、まぁきっと世間でいう不倫ってやつだろう。そいつは口も聞かずそっぽを向くようにして出ていったけど、誰が見ても容姿が良く服の着こなしもそれに見合ったものだった。
僕としては羨ましい限りだ、そしてこんな色男が女性を二人も三人もモノにしているせいで、こっちまで回ってこないんだと嫉妬も覚えた。こんな、迷惑なお隣だが所詮他人事である。あれこれ詮索したって始まらないから、いずれこんな火遊びも終って静かな夜がやってくるだろうと期待をしていた。所詮小心者の僕に出来ることはそれしかなかっただけなのである。
隣さんもベランダには、朝顔を育てていてこれまた、僕の嫉妬心を煽るように見事に咲いている大輪の朝顔だ。まったく、どうしてこうも夜な夜な続くんだろうとぼやく僕に、そりゃあんた。とお月さんがおちょくりに来た。手にはコップを持ち、それを耳に当てて壁にしっかり付けて盗み聞きをしている。
「そんなことしなくても、安普請のアパートなんだから、よく聞こえるよ」
「おおおーー、不倫かぁ」お月さんが感動したように言った。そして、毎度毎度の声が漏れてくる。
「朝顔って、けっこうこういう秘め事が好きなんだよね」お月さんが言った。
コップは壁から離して、本来のあるべき使い道として冷酒が注がれている。
「ヒルガオ同様に聞き耳立てていそうだもんね」でも、朝しか咲かないんじゃ、あまりこれと言った話は聞けないんじゃないかな
「いやいや夜の営みが終わって、目覚めてからの別れ際って一番辛い時間でもあるし、そこでまた愛の交歓があるのよ」お月さんはふっふっといやらしい笑い声を漏らした。
「そして聞いた秘め事は、簡単に漏れないように秋には硬い種の中に封じ込められるのだよ」
やがて、夏の終わりとともに彼女の元には男が来なくなった。秋の深まる頃、彼女は知らぬ間に引越しをした。ベランダには、持ってゆくのが面倒だったのか忘れ去られた朝顔が種をつけたまま放置されていた。想いが伝わることのない棒きれに、枯れてもなおしっかりしがみついたまま冷たい風に揺れているだけの朝顔がむなしく思えた。