沈丁花
水を流す音を背にして、お手洗いから部屋に戻ると良い香りが窓から入ってきていた。ひんやりとした春の空気の中その清楚な香りは、とても気持ちが良い
既に窓から入ってきて寛いでいるお月さんは、ゆっくりとグラスの中の冷酒を飲んでいた。
「それは、とっておきの大吟醸じゃないか」僕は、壜をひったくって自分のグラスにそれを注いだ。「全く味が分かるのやら分からないのやら」
「味も香りも風流も分かるさ」お月さんは、それにしてもいい香りだと付けくわえた。
「この香りを嗅ぐとまさに春って気がするね」僕は、酒の香りをかぎ、そして部屋に入りこんだ香りを吸った。
「わかるかね」お月さんは、自分の服の匂いを嗅いだ。「なかなか良いセンスだろう。」
「え・・・?」
「今日はちと沈丁花に服を被せておいたんだな」お月さんはさもどうだいという顔をした。
「まぁ、良い移り香ですねぇ」香りの元はこいつにあったのかと思うとちょっとがっかりした。
「どこでそんな事を覚えたの?」
遠い昔のことだとお月さんは言った。身分はそれほどに高くは無いものの、なかなかの美女だったので、深窓に育った娘がいてね。ただ両親は、かつての政権の争いに破れた側にいたので、零落した貴族そのものの生活でね身分相応のものと言えたものではなかったんだ。
ただ両親は、何れ娘を残したまま死んでしまう前に、なんとか良い縁に結ばれますようにと日々仏に願をかけてたり、琴や手跡の習い事を自ら教え込んでいたんだ。
で、そのうち私の加護があってね、身分ある人をこの家にさ迷い入れたんだよ、男は、香によほど詳しいと見え着物からは、うっとりとするような香りが漂っており、それも決して強すぎることさえなかったよ。その高貴さに娘も男にぞっこんって事になったんだよ。
そんなものだから、男はお忍びで訪れては、朝ぼらけまで語らっていたんだ。しかし、もう一人この娘に懸想をしている男がいてね。こっちは、香のたしなみなんて持ち合わせもいないものだから、昼の間に梅の花にかけておいた着物を羽織って宵闇にまぎれて娘の家を訪れたのさ。顔かたちは分からないし、その香りの良さでうっかり引き入れてしまったのさ
「それ泥沼になりそうだな」僕は言った。
もちろん、そのもう一人の男ってのが、最初に見初めた男の弟だったからねぇ、でもなんだかんだと二人を見事に手玉にとっていたのは、実はかの姫君でね、二人を競い合わせてかなりの贈り物をせしめたんだ。
なんだかんだと、話に聞き入っている間に、僕の酒瓶はみごとに空にされていた。