表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/155

天人唐草

 春の暖かい日、空が青く透明になったとき、その色が地上に移りこむことがある。天神唐草の花の色に。


 その少女は、若葉が萌え出した草原の中でひとり膝を抱え、じっと地面を見ていた。

彼女の赤い紅が塗られた唇に挟まれた一本のタバコからは、細く青白い煙が青い空に向かって登って行くのがみえた。

 その服装からは、近所にある高校のものであろうことは察しがついた。紺のブレザーには自分で縫い付けたのか刺繍が施され、紺の短いスカートにはわざとらしい端布が縫い付けてあった。靴下も何を考えているのか左右の色が違う。黒い髪にはメッシュが入っていた。

 授業をサボっている一人の不良少女という風景だろう。こういう輩は無視して通り過ぎるのが無難だろう。きっと同様な仲間もいるだろうし、そういうのには絡まれたくはない

 そうして彼女の背後を通りぬけたときに、彼女の視線の先にあるものが、青い小さな花の群落であることが分かった。堤防の上で自転車の甲高いブレーキ音が聞こえた。僕と彼女の目がそちらに向いた。

 巡回をしていた、補導員らしかった。彼女は、さっと立ち上がると一目散に駆け出し、そして一度酷く転倒してもう一度走り出した。

 「また、あの子か」と僕の横で頭の毛をポマードで固めた男が悪態をついた。

 「あんたも、大人なんだからああいうの注意しないとだめでしょ」といきなり僕を睨みつけてから、堤防の上に戻った。

 そんなこと知った事ではない、若造だろうが年寄りだろうが、他人の生き方に口を出せるほど僕はご立派な奴じゃない

 

 その少女が、僕のアパートの部屋の前の通路でじっとうずくまっていた。そこは日陰になっているために空気が冷たく淀んでいる。知らぬ振りをして前を通ると彼女の手が傷だらけなのに気が付いた。

 蹲っているドアの部屋の主は、よく大声で夜遅くまで騒いでいる若者のものだった。大方彼女もまた、呼ばれては一緒に遊んでいたのだろう。

 

 部屋に戻ったものの、よく騒ぐ若造も何時もどって彼女を部屋に入れてやれるのやら、とか怪我は大丈夫なのだろうか?とか変に気になってしまい。

 役に立つかどうかは分からないが、僕は救急絆創膏を持ち出すと、ドアを小さくあけて左右を伺った。未だ彼女は、そこに居た。


 僕は、サンダル履きで外にでると「使う?」と絆創膏を差し出した。驚いたような表情をみせて彼女は顔を上げた

「ありがとう」と言って差し出した手には血が沢山こびりついていた。見れば、もう片方の手にはハンカチが巻かれているものの血がにじみ出ている。こんな小さな救急バンじゃあ追いつかないみたいだった。実際、彼女がぎこちなく傷口に貼り付けようとするものの、それは押さえつけていたハンカチを外した途端にあふれる血で貼り付けるどころではなかった。

「ダメだね」と僕は、黙ったまままたハンカチで押さえる彼女に言った。

「とりあえずちゃんとした応急処置しないと駄目だな。ちょっとうちに入りるか?」

彼女は「いい、そのうち止まるよ」としゃがんだまま僕を見上げた。声とはうらはらに目は何かを訴えているようだった。僕の頭の中で雑音のような声にならない声がしている気がした。助けてあげなよという偽善じみた声。こんな女放っておいて、知らない振りをした方がいいじゃないか、そう思っているのにその雑音がいらつかせる

「襲ったりしないから、入りな」僕は、強制した。妙な苛立ちで声もやや荒い気がした。

「消毒して、ガーゼを当てるだけだ、そしたらすぐに医者に行きなさい」

「うざいなぁ、放っておいてよ」そんな事を言われておこらない方がおかしい

僕は、むっとしてドアを力強く閉め、自分の部屋に戻った。


 その癖、やはり気になるのか、救急箱を漁っているのが不思議だった。消毒液と、発明家が作った結構役に立つガーゼ(一見すると粗いメッシュ状の絆創膏だ)を取り出した。

 もっとも、傷を洗わない事には傷口に異物が入っていれば化膿するだけだろうなと思った。僕自身かつて医者に中に砂が入ったままの傷口をブラシで洗われるという死ぬような痛い目にあったことがあるのだが、医者ももっともらしいことを言うので納得するしかなかったのだ。

 一通り物がでると、それを持って生意気な彼女に前に放るつもりでいた


しかし、折れたのは彼女の方だった。ドアのチャイムが鳴り、出てみれば彼女は必死に赤茶けたハンカチを押さえて、「すみません、お願いします」と視線を床に向けたまま言った。怒りで一杯だった僕はその出鼻を挫かれた感じだった。自分で言っておいて帰れなんか言えないし。

「入りな」としか言えない。もっとも口調がぶっきらぼうになるのは当然だけど。


 彼女には、傷口を良く洗うようにいいつけ傷口を自分で綺麗に拭かせると

消毒液を塗ってやった、深い傷じゃないが斜めに切り込みが入っていた。

僕も同じような傷をこしらえ、見える場所ばかり消毒をしたらしっかりその奥の方で化膿してしまい、結局傷口をナイフで開きなおして中を消毒したという痛い記憶がよみがえった。

 念入りに中までとなると、切り込みの入った上側の皮膚を持ち上げる格好に

なるので、当然痛い、まぁそこは子供じゃないのだから、彼女はしかめっ面をしたまま堪えてくれた。


 後は、秘密のガーゼを小さく折ってそこに貼り付け止血も兼ねてきつくメッシュの

絆創膏で巻いた。ガーゼは、痛み止めや止血の成分をゆっくりと染み出してくれるので

結構治りが早くなるのだ。もっとも、若ければこんなのが無くてもあっというまに傷が閉じるだろう。

「ほれ、出来た。終わった。完璧だ」ありがとうと彼女はしおらしく言った。そして僕の部屋を出たかなと思ったらすぐに戻ってきた。

「どうしたんだい?」

僕は、消毒液とかを救急箱に片付けながらいった。

「もうすこし居ていいですか」と彼女は言った。

「ああ、まぁかまわないけど」本当は思い切り構うし、ごみためみたいな部屋でこんな奴と二人で居たって会話のネタさえない。気まずい雰囲気になるのは目みえている。

「でもどうしたの?」僕は、ゆっくりと片付けをしながら言った。もし手持ち無沙汰になったら、きっと何か会話をしなくてはならない、それが嫌だった。

「嫌な奴が外にいたから」先ほど、彼女を追っていた自転車の男がきっと鵜の目鷹の目で徘徊しているのだろうそして会話が切れた。僕は、救急箱をしまいこんだ

「お茶でも飲む?」彼女は、いえと断ったが、急須には二人分のお湯を注ぐと中でじゅっという音が聞こえた。二つの湯のみにそれを淹れた。その音さえも妙に大きく聞こえる。僕が一つを差し出すと

「すみません」と言って、両手でそれを持った。


「さっきオオイヌフグリを見ていただろう?」僕は、会話の糸口を探していた。あまりにも、静か過ぎるからだ。

「え?」彼女は、一体僕が何を言い出したのか分からないみたいだった。

「河川敷でじっと花を見ていたでしょ」

「うん、そう。青い小さい花を見ていたよまるで空の色が映ったみたいだった。おじさん見ていたんだぁ、いやだなあ」

おじさんかよ。そんな歳なのか

「見ていたわけじゃない」僕は、むすっと言った

「その制服が珍しいから目に付いただけだ」

「ああ、これね。本当は破けちゃったから刺繍して隠してんだ。でも結構イケてるでしょ なーんかさ、自分らしさっていうか自分だけのものというか、自分で言うのもなんだけど、すげーいい!!って思っているんだ」

「ああ、個性的だね」思ったまま僕は言った。

「なんかそういわれると嬉しい」彼女は、顔一杯に笑みを浮かべて高い声を出した。

「悪くいえば社会的じゃないけどな」僕は、別に喜ぶような事を言いたくてそう言ったわけじゃないので、その笑みを消してやりたかった。

「でも、個性的って言われると嬉しい」

「そういうものかねぇ」僕は笑みにどんどん磨きがかかってゆく彼女が憎らしく思えた。

「うん、そうだよ。ウチのクラスだって勉強のできるやつとか、運動のできる奴とか居るけどさ、そういう奴はそれで目だっているわけじゃん、でもさ勉強もダメだし運動もダメ何をやっても人と同じかそれ以下だとやっぱり嫌じゃん・・・そうすると、ちょっと気に食わない奴とか苛めるとちょっと優越感とかあっていいんだけどさ、それもそれで後で気まずくなるしさ。でもなんでもいいからさ、人と違うと、ちょっと嬉しいじゃん。」

「まぁ、勉強できるやつもスポーツできる奴も努力はしているのだろうけどね」

そういう天性はあるかもしれないけれど何もしないで、できるやつなんか居ない。

「おじさん、分かってないよ。その努力が出来ない奴って居るんだよ。私なんかどう頑張ればいいのか未だに分からないよ」彼女の顔から笑みが消えた。

「そもそも何を目的に頑張るのかも分からないよ。やっぱり馬鹿なのかなぁ、みんなそんな目で見ているしおじさんは、どうだったの?」

「さぁ」と僕は答えた、

「覚えていないな」

「え?けっこう天才だったとか?」

「いや、記憶がないのさ、ぽつぽつとね」どんな事故があったのかは、覚えているつもりだ。そして、僕は過去の一部を途切れ途切れに失ってしまった事も。

「記憶喪失?」彼女は小声で恐る恐る訊いた。

「多分ね」

「ごめんなさい」別に、謝ってもらうようなことじゃない、そもそも、自分で蒔いた種が及ぼした結果だ。気にしていることを正面から責められると腹が立つが、当の昔にに自分の中で割り切ってしまった物事について言われたってなんともない。

「別に構わんさ」ふと、妙に突っ張っているこの少女が垣間見せた素直さが可愛く思えた。でも、それを口にすればこの少女はきっとそれを否定するだろう。

「俺が昔、どんな馬鹿だったかは分からないが、お前が思っているような事で悩んでいたとおもうよ、そして多分今もね」

「今もって・・・ちょっと酷くない?」

「いや、自分の描く自分の理想像と今の自分のギャップは永遠に埋められないさ、その上自分に正直になれない時期が重なると最悪だな」

「そうかも・・・ね。」少女は、ふっと息を吐いた

「でも、なにか綺麗なものに見つけたときって凄く自分の心が透明になって、その瞬間は正直になれそうな気がするよ・・」

「あの小さな青い花、ちいさくて見過ごしそうなのにそこに空の色が映りこんでいるように綺麗だった。春が来て、俯いて歩いていると地面の上にも小さな青い空があるようで、なんとなくその花に頑張れよって言ってしまうのだけど、本当は自分に言っているの、毎年、毎年あの花が目に付いてしまう。それだけ下を向いて歩いているってことだけどね・・・でもどうにもならない・・・また、同じ3年が始まってしまう」

「大丈夫?」僕は少女が涙を流しながら肩をふるわせえているいるのに手をこまねいていた

「やだよ」少女は、膝を抱えてしまった。

「どうしたの?」僕は、おたおたするばかりだった。


「信じられないだろうけどさ」少女は、膝を抱えたまま小さい声を出した。

「卒業式の前に、私意識を失うんだ。そして気がつくと何時も入学式の新入生の中に居るんだ、もう3回も、何時までたっても卒業ができないんだ、それもこれもこんな時計を拾ってから」

少女は左腕にあった小さいピンクのバンドの時計を差し出してみせた。それが普通の時計ではないことは一目瞭然だ。長針、短針、秒針の他に西暦の年月日がそこにあった。

「気がつくと3年前を指すんだ、そしてまた3年の学生生活が始める、同級生は何時も

同じでね」

「タイムマシンだと?」

「他に言いようがないよ。おじさん」

「外せばいいんじゃない?」

「外せないんだ。それにもう時間がないよダチに別れも言えないままだよ」彼女は、壁の向こうにある部屋を思うかのように、僕の部屋のすすけた壁をみた。そして僕が手当てをした手を眺めた。

「本当は、手当てをしなくてもさ、気がつくと3年前の体に戻っているからしなくてもいいんだけどね、もし時が進んでくれたらと思うと…不安になってね。」

「俺とは毎回逢っているのかい?」彼女は首を振った

「すこしづつ何かが変わっているのだと思うよ。おじさんとは初めて会うよ、でも、できたらまた会いたいかもね。ありがとうおじさん」

そして彼女は立ち上がって部屋を出た。


 暫くして、お月さんがふわりとやってきた、僕がその話をすると

「ああ、それは時の中に監禁されているのさ」とお月さんは言った。

「彼女が未来に危険を及ぼす輩か、あるいは何かから彼女を守るためだろうね」

「何時まで続くのだろうね、そんなことが」

「さぁ、未来が誰かさんにとって都合がよくなるまでだろうね」


青空の中、桜が淡い霞のように一面に覆い尽くす公園の道を卒業証書を持った若者達が通る。そしてその出口の傍道では、涙を流しながら

「別れたくないと」鼻声で話す少女

「卒業したくないよぉ」応える少女

 ふと僕は数日前に出会った少女のことを思い出した。あの子は、過去に戻りまた3年をやり直すのだろう。

 天神唐草の花は大きく伸びた草の合間に隠れてその存在は誰も気づくことはない、しかしそれでも青空のような色を輝かせていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ