冬ごもり
「それはね、ヤマカマスだよ」僕の背中からしわがれた声が聞こえた。
振り向けば、一人の作業服を着た老人が笑みを見せながら立っていた。
冬景色の中、葉がすっかり落ちた木の梢に新緑色の蛹が手の届かない場所で風にゆれていた。
「でもきっともう空だろうね、秋に羽化してしまったろうから」
「確か、ウスタビガの蛹でしたよね」
「良く知っているね」老人は私の横に並んで上を見上げた
「一度この蛹を見たことがあって、調べたことがあったんです」
僕が最初に見たのは、他所の遊歩道で、その脇を高速道路が通っていた。余りにも不釣合いな光景に暫くそれが脳裏に焼きついていたのだった。
「羽化して、今頃どうしているのでしょうね」
「交尾して産卵したら、そこで一生の終わりでね。卵で越冬するのさ、きっと今頃卵はじっと耐えているのだろうね」
「よく知っているのですね」
僕が知っているのはこの蛾の名前までに過ぎない。
「このコナラの木にあれが毎年来るからね。暇な時は見に来るのさ、そのうちどんなものだか覚えてしまった。成虫は見たことがあるかい?」
「本物は、無いですね」
「大きいよ、標本があるけど見てみるかい?」
「ええ」
「産卵後に死にたてたものを拾って標本にしたのさ、だから羽はぼろぼろだけどな」
*
そうして、人気のない道を歩いていると前をさえぎる者達が現れた。顔の下半分をバンダナで隠している風体からしても、好ましい相手とは思えなかった。当然彼らが吐く言葉も察しがついた。ただ、運だけは僕に味方をしてくれていたようだ。
「金だしな」右耳に沢山のリングのピアスを付けた黄色い髪の男がぼそりと言った。その両脇には、バットを持った男がぽんぽんと軽く自分の肩を叩いていた。よほど肩が凝っているのかいとでも冗談が一瞬浮かんだが、当然その言葉はしっかり飲み込んだ。
彼らに悲劇なのは、僕の所持金が小銭をあわせても文庫本を2冊買えるかどうか程度ってこと、カードも今は必要な時しか持ち歩かないし、携帯にもお財布アプリは入っていない。
バットを使った肉体労働の割には、稼ぎは僅かにしかならないだろうなと思った。ただこの微々たるお金も持って行かれると僕は2本の足を使って昼夜をかけて帰らなくては
ならないので、僕としてはお金を持っていかれるのは困る。
「お前、足立の倅だな」後ろから老人が声をあらげて言った。
「しらねぇな」バットを持った男が答えた。多分老人が言っていることが正しいのだろう。
「生憎だけど、金はないよ」僕は、正直に言った
「嘘付け」
「本当さ」僕は札入れを出して低額な紙幣を一枚出してひらひらさせると、口を開けたまま下に向けてみせた。自分でも情けないが何も落ちて来なかった。
「やっちまおうぜ」バットを持ったもう一人が言った。
「ポケットに入れているに違いない」僕は道から小石を拾いあげて親指の先に乗せると中指でそれを弾くような体制を取った。
「指弾って知っているかい?」僕は余裕をかましたような声で言ってのけた。男達はふとたじろいだようだった。活字は読まないだろうが、漫画を読んでいれば、それが何を意味するかは分かるだろう。
「横にある枯れている木をみてごらん」3人とも目がそれた。僕は自分は俳優にでも向いているのではないだろうかと思った。その途端、その木が木っ端微塵に吹き飛んだ
彼らのその時の目ときたら、僕を化け物を見るような目つきだった。ただ、老人はおやというような目で僕を見ていたようだ。
男達は、互いに目を合わせると突然逃げ出した。
僕は、倒れた木の傍で一つの石を拾いあげるとそれをハンカチにくるんで老人に渡した。
「重いけど、懐にいれておくと暖かいですよ」
*
小さな、作業場のある家に僕は案内された。良く分からない大きな機械がじっと出番を待っているようだった。
「生憎と今は、暇でね」
老人は、作業場を抜けその奥にある座敷に上がった。
「まぁ、片付いていないけど」丸いちゃぶ台の周りにいろいろな雑誌が散らかっているのを老人は背を丸めて片付けて隅にまとめた
「今、標本を持ってきますね」
その雑誌を見ればどれもバイクのものばかりだった。
「ああ、それは息子のものでね」暫くしても、雑誌の上に視線を置いていた。僕の目を捉えたのか。老人が、卓袱台の上に一つの小さい標本箱とお茶を置いた。
「あんたもバイクをやるのかい?」
「いえ、全然。それよりこれですか」その蛾の羽の色は、蛾らしくあったが、その一部に丸く燐粉が抜けたようになっていた。そして蛾の羽を広げたその大きさは掌から余裕ではみ出すほどだ。
「大きいだろう」と老人は言った。僕は頷くことしかできなかった。
「今は、小さな卵のままでじっと我慢して冬を越しているけど、春がくれば、颯爽と活動を始めるのだよ」老人はゆっくりとあれこれ僕に説明を始めた。
*
「八っちゃんいるかい?」とダミ声がいきなり飛び込んできた。
声の主は、つるっぱげの頭を座敷に出して僕を見ると
「お客さんか、悪いなぁ」といいながら頭を掻いた
「ああ、まぁな。なんだい?」と老人は、身を乗り出した
「僕は、じゃあこれで・・・」と中座しようとすると。
「いや、もうちょっと居なさいな、他にも面白いものを見せてあげるから」老人は笑みを見せたあとで、はげ頭の前に進み出た
「用はなんだい?」
「先生の講演があるのだけど、集まりが悪くてちょっと出てくれないかなぁ」はげ頭は、一枚の紙を差し出した。
「ピンチこそチャンスかぁ、つまらない文句だな」老人は、紙を見てつぶやいた
「資金が調達できれば、チャンスも実のるものだがこんな小さい工場に金を貸してくれるところなんかないからな、実際に現場を知らない奴が紙の上で語る頭の悪い台詞だな」
「まぁ、この辺りじゃあ、みんなそんなものだけどそんな事言わないでさ、顔を出してくれよ」
「悪いけど、お客がいるから無理だな」老人は、僕を振り向き。禿げに見えないように
ウィンクをしてみせた。
「それなら、仕方ないけど。時間があったら出てくれよ。後で宴会もするし」禿げは、口を尖らせて出て行った。
「いいのですか?」僕は、ぬるくなった茶に口をつけた
「かまわんよ、それよりダシにつかってすまんな、どうもあいつとは、昔から反りが合わなくてそうそう、ついでに見て欲しいのがあるのさ」と老人は、引っ込むと、いくつもの標本箱を持ってきたどれも立派なヤママユの仲間だった。
「俺は、中でもオオミズアオが好きでね」白みががった、見事な浅葱色の羽はまるでドレスのように華麗だった。
「綺麗ですね」僕は息を呑んだ
「ああ、まったくだ、昔はこんなものには目も留めることなく、さっきの餓鬼みたいに金金ばかり言っていたなぁ。楽しい事は金がないと掴めないとばかり思っていたさ、不思議なもので、今では動くのも億劫だし金もないしとなると、それはそれで、いろいろと楽しいものが見えてくるみたいだ。」
「分かりますねそれ、こんな寒い季節でも赤くなってじっと耐え忍んでいるスイバを集めてジャムにすると美味しいんですよ」
「そうなのかい、しかしお前さんはむしろ食い気のようじゃな」老人は、にこにこ笑った。
「ええまぁ」僕は、なにか恥ずかしくて自分の頭を掻いた。
*
「すみませーん」と外で声がした、何か明るい声の響きだった。その声に聞き覚えがあるのか老人の表情がふっと明るくなった。入って来たのは、スーツ姿の若者だった。若者は、座敷の前で礼をすると、内ポケットから一枚の封筒を取り、差し出した。
「遅れまして申しわけございません」
「ご苦労さま、ようやく売れたかい」老人は、その封筒を手にした
「ええ、時間はかかりましたが全部売り切りました。そして他にも仕事を取ってきましたよ、もっとも、値切られてしまいましたが」
「まぁ、辛抱するさ」
「でも、機械少なくなりましたね。大丈夫ですか?」
「景気にいいときに買った割りには使い切れなったものばかり売り払ったからね、本当に必要な機械と腕と心意気は何処にも捨ててないからな、安心しな」
「それを聞いて安心しました。これが、見積依頼書になります。」若者は、鞄から一つの封筒を出した。
老人は、最初に受け取った封筒をそのままちゃぶ台に置いて。早速その封筒を開けた
「こりゃまた、大変そうだな」老人は、ヒューと息を吐いた
「その割に、今までの2割引きです。納期も短いです」
「ひでぇ仕事だ。」老人は、渋い顔をしながらも、封に収めた。
「見積もりは何時までに出せばいい?」
「納期が納期なので、できれば明日中にでもください」
「分かった。FAXで送っていいか?」
「いえ、また明日こっちを回っていますから、後で押印したものをその時に受け取ります、何時もご迷惑ばかりかけてすみません」
「いや、お互いさまさ。寒いからお茶でも飲んでいかないか?」
「有難うございます。でも他に寄るところがありますので、そのうちゆっくりお邪魔させていただきます」若者は、そそくさと出て行った。
「まぁ、そのうちと幽霊だけは見たことはねえけどな」老人は僕を見て笑った。
「さて、そろそろ僕もお暇させていただきますね」僕は、片ひざを立てた。
「引き止めてすまないなぁ」
「大変良いものを見ることができて良かったです有難うございました」
「なに、いいさ。近くに来たらまた寄ってくれ、とそれから」と老人は、部屋に隅に置きっぱなしになっていた石を取り上げた
「隕鉄かねこれ…」
「さぁ・・・」僕は、頭をかしげてみせた
「重かったから、そうかも」
「持って行かないのかね?」
「ええ、荷物になるのはちょっと、僕にはゴミみたいなものですし」
「ひとつ訊きたかったのだが」
「なんです?」
「君は、あそこにこれが落ちて来るのを知っていたのじゃないかね?」
「まさか」
「まぁいいけど、でもこれは有難く使わせてもらうよ、これがなければ、次の仕事は請けるのを断るところだった。そうそう、錬金術師は元気かね」
「ええ、騒がしいほどに」僕は、自分で返事をしてから老人の顔を良く見た。なぜ彼を知っているのか?
「なら、鉄屋もこっちに居るから、たまには顔を出せと伝えておいてくれ」
「はい」
「あんた」と老人は、去ろうとした僕の背に声をかけた」
「はい?」
「あんたの季節は冬かね?」
「もう一年中冬みたいなものかも知れませんね」
「冬だからこそ、得られる経験や逢える人も居るものだよ、我慢していればそれがきっと役に立つ日も来るよ。むりくりチャンスに変えることが出来ないなら、とことん辛抱するのも一つの手だよ」
陽はいつの間にか傾きかけ、木枯らしが梢をならして、最後の枯葉さえ細い枝から奪っていった。僕は、ゆっくりと駅に向かう道をたどり帰途に付いた。