薄原
薄についた霜が陽が登ると共に消えてゆくように
貴方の周りにちりばめた私の想いが散ってゆく
孤独という想いが、凍てついた空気の中で
拠り所を求めて、枯草にしがみついてゆく
夜は、そんな想いが徘徊してゆく
そして、陽が昇るとともに喧騒の中で
想いは溶けて忘れされれてゆく
人は何時も誰かに恋をしているのかもしれない。
恋人を待つ間に、少女の想いはやがて
石になって・・呟き続けた・・
私は、汚い小さなアパートの一室で、滅多に会うことのない友人と酒を飲んでいた。一年に一度この寒い季節になると、私は彼の許を訪れるが、本当は彼に会うためではない。 遠くから出てきて、明日の早朝から明後日の朝までのまる一日のささやかなデートのために、一夜の宿が欲しいからに過ぎない。今晩はこの男の部屋で泊まり、明日には彼女と逢うのだ。
私は、一年ぶりに会う彼女の事で頭の中が一杯なのに友人はよくしゃべる、近くにある河の岸辺の自然のこと、落ちてきた隕石のことなど、それらは彼には悪いが雑音のようにしか聞こなかった。
「河原の近くの公園に小さい社があるのは知っているかい?」彼は指で方向を示した。 「そんなこと知る訳ないだろ」私は、手酌で酒を注ぎながら返事をした。
「まぁ聞けって、そこに霜付き石ってのがあってね、こんな寒い日には、その石の上半分だけ真っ白になるほどに霜が付くというんだ」
「…」私は、聞く気の無い話を聞く羽目になったようだ。
「なんでも、遠い昔にある恋人同士が居てね…」彼の声は陽気だった。
しかし、男には妻が居た。男は年に一度だけ、本家で行われる祭祀の時に妻を留守に置いたまま家を離れ、この町に来ていた。ある年のこと、彼は冷たい河の水を浴びて一人で禊を行っている最中に倒れてしまったが、偶然通りかかった女性に助けられた。
そのお礼にと、手紙や物のやり取りを行っている間に二人は、序所に離れがたい感情を持つようになってきていたという。
なかなか、逢えないという状況は、互いの心をくすぶり続け年に一度の逢える日には、一気に燃え盛る炎の様に互いの心を確かめ合った。それが数年続いた。
そしてその年も寒かったという。寝床の横に座り帰る支度をする男のその背中を抱きしめる女性の足元は、めくるめくような激しい一夜の情事の余韻が残りふらついていた。そして長い黒髪は、流れるように背を這い床に乱れ散っていた。
「また来年ですね」男の背に顔をうずめながら女は訊いた。
「出来れば、我が家の近くに庵を建てようと思う、そこに住んで貰えないだろうか」
「そんな、奥様の目にとまったら…」
「大丈夫だそこはなんとかする。ただ少し時がかかるかもしれない」
「待つのは慣れていますから、黒髪に霜の降るまで待ちますから」男の口調は自信を持ったものであり、女はそれを信じて男を送った。しかし、男は女の許に来ることはなかった。
その日の帰宅途中で賊に襲われた為だった。
女は、待った。何年も、何十年も、その間不思議と女性は若いままであったという、 そして、ある日風の便りに男の悲報を聞いたとたんに、髪は白く染まり、倒れこむと、そのまま石になってしまったという。それが霜付き石の名の由来・・・
「そんな話あるんだぁ」彼女は、私が彼から聞いた話にふうんと鼻を鳴らした。
「まるで私達みたいだね」彼女は、私の腕に甘えるように絡み付いてきた。川向こうには、2件のラブホテルが小さく見えた。
リバーサイドホテルというありふれた名前のホテルとイエスタディという、未来の見えない恋人達のひと時の宿だ。しかし私達の居る部屋も同類のホテルだった。
「人妻と、許せない愛にはまってしまった男との年に一日だけの不倫」
「昔話とは違う」と私は言った。
「離婚だってできるじゃないか」
「そうだね」と彼女は、ふと手から体を離し、私の手を握った。彼女の手はひんやりとしている。何時もそうだ。
「あんたの手ってどうしてこうも暖かいんだろうね」彼女は私の手をさすった。
「旦那と別れて俺と結婚してくれないか?」これはずっと考えていたことだった。
「止めておきなよ」彼女は、眉間に皺をよせてみせた。返事に困ると必ずこんな表情になる。「こんな浮気するような奴だよ」
「こんな女だから、いいんだよ」私は、彼女の中に自分の中の欠けたものが在るように思えていた。電話であれ、手紙であれ、メールであれ。彼女の存在を感じない時は、孤独という闇に食い殺されそうだった。
「そうとう待たせるよ、止めなって」
「髪に霜が降っても待っているよ」私は、答えた。
「馬鹿」
「馬鹿だから、こんな女に惚れるんだ」利口ならこんな恋に溺れることもないだろうし、あるいは、体だけの関係と割り切れれることもできただろう。残念な事に、私は馬鹿だし、今まで女性に優しく接してもらえる事も少なかった。
*
年初めのこの寒い日に、彼女の夫は家を空け、そして私もこの間に仕事から解放される。逢う日を決めようとしても、何故か何時も互いの都合が付かない、付いたとしても突然急用が入る事が続いた。
「呪われた逢瀬だね」彼女は、会う予定だった日に電話で囁くように言った。それも寒い日だった、彼女は河の辺で霜が解けて行くのを見ていたと言った。
「あの日は寒かった」広いベッドの上で私の腕枕に頭をのせて彼女は言った。明日の無い恋人達の館の一室は、二人の為の閉鎖空間だった。フロントも無く、支払いまで誰にも顔を合わせることのない、秘めやかなな空間。ブラックライトに浮かび上がった壁の中のビーナスの絵ががそっと私達を見下ろしていた。私は、彼女の長い黒髪に指を絡ませていた。
「陽の暖かさで霜が溶けていって、薄茶色の葉や、緑のまま頑張っている葉の上できらりと輝くんだよ、それを見ていたらなんとなく、あんたを許せる気になった。逢っていたら、きっとそんな小さなものなんて見ることないからね」
「あの時はごめん、親戚が急に亡くなって」
私は、軽く身を起こすと彼女の顔を上から見つめ唇を重ねた。
「愛しているんだ」
「ばか」彼女もまた返事を唇で返した。
携帯が鳴った。無視をして、私は彼女の唇を貪った。
「いいの?」
「用があれば、メッセージを残すだろ」 携帯から誰かの声が聞こえてきた。留守録に声が記録されてゆく
「聞かないで、まだ、もっと二人でいたい」彼女の白い腕が私の首の後ろで交差した
「今日はずっと居るよ」
私は、彼女の手を外して、シーツに皺を寄せながら柔肌から体を離した。伝言は、昨晩の宿を与えてくれた彼だった。声が震えているような感じだった。
「啓二、お前の彼女が電話をしてきてな、お前が会っている人、もう6年前に死んで
いる…」
「さよなら…」と小さな声が背後から聞こえた。
私が、振り向くと彼女の姿は無かった。
「知っているさ、そんな事、わざわざ教えてくれなくたって」私は携帯を握りしめたまま床を叩いた。
*
「こんな寒い日だったよ」私は、公園のベンチで彼と座っていた。
「俺は、夜行で近くまで着いていたんだ。しかし突然親戚が亡くなったから直ぐに帰って来いっていわれてね、順子は待ちぼうけをくわされ、その帰りに車にはねられたんだ。 その後で、二人の書簡が旦那に見つかってさ、わざわざ旦那は俺に手紙で知らせてくれたよ。葬儀には当然いけない関係だったから行かなかったけどね。でも、信じられなくてね、でも毎年の同じ時期に来ると、何故か彼女に逢えるんだ」
私は、自分の掌を見ていた。酒宴で手相を見ていた友達が、私には結婚の運が少ないと言っていた。そして不幸な出会いをするって。それはあながち外れてはいなかった。
「毎年、また来年に逢おうねと言って別れてさ。今はいっそこのまま死んでしまいたいよ」
「石になる気か?」彼は、公園の隅にある石をそっと撫でた。
「待つ事ができるのは、嘘でもそこに僅な希望があるからだよ。俺は、既に石になった気分だ」心が冷たく動かないような気分のまま私は、彼がなでていた石を見つめた。
「俺は、お前が生きていて嬉しいよ」彼は、言った。
「それに、電話してきたお前の彼女だってそう思っているから、連絡をくれたのじゃないか?」
「洋子は何で知ったのだろう…」ふと私は言った。洋子は、今の女友達だ、時折独身の私の部屋にやってきては、掃除をしたり、手料理を作ってくれたりしてくれる。しかし、順子ほど恋焦がれるような熱さは感じない女性だった。
「手紙とか言ってたな、部屋を掃除してたら出てきたって。なんでも会社から電話が
あって、連絡を取りたいというのに連絡が付かなかったから、あの女性の連絡先を調べていたみたいだよ」
順子に逢うまで携帯を切っていたことを私は後悔した。あの日の様に、逢える寸前で呼び戻されたくなかったからだ。それに家を出るときに、ついつい昔の順子という友達に逢いに行くと言ったが失敗だったのだろう。
私の日常で順子と関わりあう糸が切れてからの日々、私は昔の手紙の封書をあけては読み、退避したメールを復元し、録音してあった彼女の留守電の声を聴いていたものだった。
石になった女性のように、私もまた止まった時の中で生きていた。遠い恋の経歴は、色あせても、そこには熱いときめきの温もりが残っていた。洋子は、それをかいま見たのだろう。そして、私の時間に介入してを時を進ませてしまい、私は現実と向き合うしかなくなった。
「泊まってゆくか?」彼は、一杯飲むしぐさをした
「いや、最終で帰るよ、それまでここに居る」
「今夜も冷えるぞ」彼は、両腕で自分の体を抱えていた。
「一緒に居なくてもいいぞ」
「うん」と返事をする彼は、目を遠くに置いた
「霜はね、人恋しい想いが凍えて、何かにすがりついてできるんだよ」彼は、小さく言った
「温まれば、またどこかに行ってしまうけどね、君の今の彼女の心もすがりつきたがっているよ」
そして、一人の女性が必死になって駆けて来る姿が目に入った。
*
僕は、公園で抱き合う二人を背にしてそこを立ち去った。
白装束の女が僕の横にすっと並んだ
「じゃましやがって」
女は、冷たい息を僕にかけた
「今年であいつの精気を全部ぬいてやろうとおもっていたのに」
「人の心の隙間を狙わなくてもいいのに」
「それが恋の醍醐味だから面白いのさ」女は、唐突に空気の中に溶けて消えた。
「あばよ」と言う声だけが、取り残された。
僕が白く重いため息をつくと、ポンと肩を叩かれた。
「よう、友人は救えたかい?」
「ああ」と声の主に答えると
お月さんは、空の上で笑みを浮かべていた。