南京錠
「暇ができたら慰めに、行ってやろうか」と彼女は言った。
「こんな所にくるなんざ、寂しがりやの証拠だ」
「そんな事はないさ」僕は、何やら体のあちこちが痛くなってきたのを感じた。
「23ものつまらん話も聞けたし、そうか、皆あちこちから来ていたんだね。かすかにそうとは思っていたけど」ふっと、目の前の中空に古ぼけた南京錠が唐突に浮かび上がった。なにをつなぎ止めているのかは分からない、ただ閉じた錠はまるで開けられるのを待っているように見えた。
「さぁ、やっとお帰りの時間だ。」
彼女は、掌の上に一つの鍵をのせた白い手を差し出した。
「これを…」
僕がそれを摘むようにして受け取ると、彼女の白い手がそっと闇の中に引かれた。
ゆっくりとゆっくりと、彼女の白い輪郭がぼやけてゆく
「ここに居るもよし、出るのもよし、しかしお勧めはこの南京錠を自分で開けることかな」
「この錠はなんだい、で、ここは何処なんだい?」
「死者の国さ、分かっていたのだろ?私が死んだことは」僕は頷いていた。
「うん、でも。余りに突然だったから信じられなかった今までだって、ひょっとしたら生きているのじゃないかなって思っていたし」
「あんたが私に逢いたいと思う気持ちがあるからきっと此処に来たんだね。それは嬉しいよ」
彼女は、冷たい手で僕の手を握った。
「でも、あんたがここに来るには未だ早いよ」窓辺のハンゲショウの葉が揺れた。
「この葉が白くなる頃にそっと逢いに行くからね、あんたには見えないかも知れないけどね」
僕は、病院のベッドで目を覚ました。傍には、枯れたハンゲショウが置いてあった。
そうか、山に行った帰りに家の近くで信号待ちをしていたら、僕達の中に車が突っ込んできたんだ。幾日、夢の中で不思議な、そして奇妙でばかげた話を聞かされたのだろう。
しかし、かつて失ってしまった彼女の顔だけはまだ、瞼の裏に焼きついてしまったかのように、目を閉じれば何時でも、会う事ができた。
(ああ、暑い夏の日に待っているよ)
数日後、退院をした僕が家路に就いている途中、僕が事故にあった道には枯れた花が花瓶に入ったままだった。その枯れた花とともに、去ってしまった少年がいたことを思い出した。
僕は、そっと手を合わせて家路を急いだ。