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 霧雨に煙る谷、新緑の香りに包まれた山肌に覆われるようにしてその棚田は下へ下へと広がっていました。村人達は、棚田の上あるいくつかもの家に住んでいたが、一人を残して皆は村を去る準備をしていました。

 バイオリン弾きは、そんな最後の一人とともにこの棚田の見える風景を畦を守るための石垣の上に座って眺めていました。二人の背をクラクションを鳴らして荷物を満載したトラックが走り去って行きました。

 バイオリン弾きの隣に座った老人はしわだらけの黒い腕を高くあげて左右に振って、クラクションに応えました。老人は、脇においた小さい太鼓を股座の間にはさんで掌で打ち始めました。

 タムタムタム・・・・と音が山の間に木霊しました。

 音が返ってきて、そしてまた音が往きます。

 タムタム・・・タムタムタム・・・タ!タン!

まるでそれに呼応するようにカエルたちの声が水田の中から響きました。

 音が音を呼び、それは一つの大きなオーケストラの様になって谷の中に広がってゆきました。

 やがて、疲れたのか老人の手が止みました。それを名残惜しそうにカエルの声が一つ、また一つと消えてゆきました。

 静寂の中で、老人はゆっくりと太鼓をバイオリン弾きに渡しました。バイオリン弾きは苦虫をつぶしたような顔をしました。

 「太鼓は苦手だったか」老人は訊きました。

 「ええ、叩けないことはないですけど」バイオリン弾きは、音階の無い楽器はあまり好きではありませんでした。

 「教えてあげよう、簡単さ」老人は、小さい声で笑いました。



 その風景も、今は錦秋の装いをしています。出会ったあの日にも似たたおやかに降る霧は、秋の風景をまるで磨りガラスを通して見ているようです。

 バイオリン弾きは、石垣の上に一人座り実を成した雑草の生い茂る棚田を見下ろして、太鼓を叩きました。たったひとつの音がかつて棚田だった斜面を駆け下りてゆきます。


 あの日隣に居た老人は異国に生まれた旅人でした。水が少なく、何時も食料が不足して、貧しい国だとぼやいていました。そして、たまたま出会ったこの風景に魅せられてしまい、自分でも知らぬ間にここに住むようになってしまったのだと言ったものでした。

 その老人の死の報せは、風の便りで知りました。死んだのは夏の間で、時折様子を見にきていた村の人が、この石垣の上に横になっているのを発見したのだということでした。


 「なぜ村人と一緒に里に降りないのですか?」と彼に訊いたときがありました。

 「私は、この風景に魅せられえてしまったもの、ここから離れるなんてできないさ、馬鹿だろ・・」老人は、黒い顔に白い歯を光らせて笑いました。

 「それにこの景色を愛でられなくなるというなら、私が生きている意味もない、でも生きている限りはこの風景を見ていたいよ」老人は、一滴の涙を手で拭いました。


 遠くで発破の音が聞こえました。気候が変わりつつあるこの国では、再びダムの建設

が始まっていました。そして、この村は棚田と共にまもなく水底に沈みます。

老人の好きだった風景は、ただ今生きている人の心の中にのみ残ってゆくだけでしょう。 

 彼は、太鼓を叩き続けました。老人の好きだった風景への弔いのために

タムタムタム・・・タムタム

 たった一つの音が山々の中を通りすぎてゆき、それに応える声はありませんでした。

そして霧雨は止むことを知りませんでした。



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