ミツバチ
扉を閉めて、裏手にある雑木林の中にわけ入ると。丈の高い草が、脛や膝をくすぐりました。二人の男は獣道の様な小径をその周りに繁茂する草の葉をかき分けながら奥へと向かいました。せわしく小さなハチ達が二人の男の周りを警戒するように飛んでいました。
何気なく一輪の黄色い花に手を出した彼の手の甲に小さなミツバチが乗ったかと思いきやそれはちくりと彼の手を刺して飛び去りました。
「まったく、なんてこったい」錬金術師は手の甲に残った針を抜き取りました。
「やられましたね」助手は、夏だというのに厚い服を身に纏っているせいで汗だくになって居ました。「だから防護服くらい買えばよかったんですよ師匠」
「言うな、滅多に来ない機会のためにいちいちそんなもの買ってられるか」錬金術師は、珍しくTシャツに半ズボンという出立ちでした。いつもなら夏でも黒いコート姿という辛気臭い格好をしているのですけどこの時はちょっと妙にはしゃいでいるようでした。
目当ての場所は、雑木林の中で開けたところにありました。木漏れ日も多く降り注ぎ、地面の草はどれも刈り取られたように短い草だけが生え、その真ん中に一つの木箱が置かれて居ました。
沢山のミツバチがその箱の周りで飛び交いしきりにその箱に出入りをしています。その周囲には、見たことのない黄色い花が一面に咲き乱れていました。甘い花の香りが一帯に漂っていました。
助手はその花の名を錬金術師に聞きましたが、彼は妙な笑みを浮かべるばかりで答えを返さしませんでした。
「しかし、空の巣箱を置いておくだけで蜂が勝手に巣を作ってくれるなんて、師匠も妙な事を知っていますね」
「普通に空の箱を置いておいたってダメだよただ、ここはそういう場所なんだ。知識じゃあ得られない、知恵ってやつさ」錬金術師の周りでは今にでも襲いかかろうとばかりに多くの蜂が飛んでいました。
「さて、お仕事をするかな」と彼はそういうと手にしていた噴霧器のハンドルを引きそして思い切り押しました。するとその先端から煙のようなものが噴霧されて蜂がころんころんと地面に落ちていきました。
そして箱に近づいてさらに、何度も噴霧を続けました。やがて彼の周りを飛び交う蜂たちは居なくなってしまいました。
そこで、箱についている一つの引き出しを引くと、中は蜂の巣がぎっしりと詰まっており、その上には動かない状態の蜂が丸くなっていました。彼はそれを手で払い落としてから隣でじっと見ている助手が持っているバケツに蜂の巣を削ぎ落としました。それだけでも、蜂蜜がどろりと巣からこぼれてきます。
「殺虫剤じゃないですよね」助手が、まだ蜂の巣の上に残っている蜂を指して不安そうに訊きました。
「まさか、蜜を食べれなくはしないよ。ちょっと蜂に眠ってもらう為の秘密の薬さ」彼は笑みを見せながら答えました。そして引き出しの一つだけそのままにして、残りはすべてバケツの中に蜜を入れました。
「他の蜜は、蜂のために残してあげないとな、さて帰ろうかね」
二人は額の汗を拭い、暑い暑いとぼやきながら帰途に就きました。
翌日、「師匠、焼けました」と弟子は、オーブンから色よく焼けたスコーンを取り出しました。まだ熱く柔らかいスコーンを皿に盛り付けて、テーブルに乱雑に置かれた色々な器具を脇にどかして、皿を置き、その脇に黄金色の蜂蜜を入れたガラス容器を置きました。
「さて、いただこうかね」錬金術師は皿の上のスコーンに手を伸ばして、それを二つに
割ると、蜜をその間に塗りました。
花の香りが鼻腔から体全体に満ちてくる感じに、錬金術師は、ふぅっとため息をつきました。助手も同じように食べました。
「まるで果物を塗っているようですね」助手は、人差し指でスコーンの上の蜂蜜だけ
をすくってなめました。
「こんな蜂蜜があるなんて」
「美味いだろ」錬金術師は、微笑みました
「僕のスコーンも忘れないでくださいよ」助手は、この暑い最中に氷を張ったボウルの中にまたボウルを置いてその中で粉と小さく切ったバターを混ぜるのがいかに大変だったかをこと細かく説明しました。
「分かった、分かった。」錬金術師はこれ以上細々といわれるのも嫌なので、
早々に助手の仕事っぷりを認めました。
「そうそう、あの香りのいい花はなんと言うのですか?」助手は、まさにその花の香りがする蜜を食べながら訊きました。
「そうだな、この蜜を十分食べたその後で教えよう」
「なぜです?」
「まぁ、急ぐこともないし、ちょっと今は不味いのでな」
そして、花鳥風月が移り。季節は秋に向いました。
雑木林も中に生えるツルウメモドキやカラスウリの赤い実がみられ、ナナカマド、イチョウの染まった葉が静かに降って地面に積もりました。目を何処においても綺羅錦秋の風景が広がっています。
そして、錬金術師は助手を連れて花のあった場所に連れて行きました。そこには異臭ともいえるような臭いが漂い、なにか茶色い楕円形の怪しげな形の実がありこちに見受けられました。地面にはその実が落ちた跡らしいのも見受けられており、それは溶けて腐りさらに酷い匂いを発しているようでした。
「これがあの花の行く末さ」錬金術師は言いました。
「名前はタヌキのクソという、酷い名前だろ」
「あの花が、これですか?」
「ああ、イヌフグリだって、花は可愛いのに実がフグリの形に似ているからあんな名前を貰っているだろ」
「この臭いは、本当に糞としか表現できないですね。クサヤの方がずっとましです」
「実もまずくて食えたものじゃないぞ」
「とてもあの花とは思えないです」
「自然のなせる業さ、受粉させるために煌びやかなな花を咲かせ、甘い蜜を与えるが、でも実はこの地に確実に落とすために食べられないようにするんだ」
「普通は、食べてもらって種を伝播させるのと違いますか?」
「この花は違う、この地が一種の特異点だからねこの場所から動きたくないし、ここでなければ育たないんだ」
「特異点?」
「そう、多元宇宙と重なり合う場所で、何十年かに一度、この花はこの宇宙にやってくる」
「言っている意味が・・・」
「私の傍にいれば自ずと分かってくるさ」
「そうですか、しかし酷い臭いです。」
「いや、今のは俺のすかしっ屁だ」錬金術師が、自分のマントのすそを煽ると匂いがなお強くなりました。
「昨日芋を食いすぎたせいか屁が多くてかなわん」霧雨が降り始め風が通らない森の中はひたすら匂うばかりでした。