標識
暗い部屋の中で、その小さなガラスの球体の表面上にはまるでシャボン玉に浮かぶ虹色の模様のようなものがゆらゆらと現れては消えていました。外では、長い間雨が降り注いでいます。
その機械は、重力子を使った交わることのない二つの異世界の間で情報をやりとりをする通信機器でした。故郷の異世界に置かれた対となすそれは同じ様にガラスの球面に綺麗な模様を動かしている筈です。誰にも見つからないように森の中に作った研究所の中でひっそりと同じように模様が輝いている筈でした。
彼は、こちら側でこの装置を作るのに要した日々を思うと、なんと無駄なことをしたのかなと思いました。今まで苦労して作り上げたものでも、受信はできても送信はできないという不完全なものが手一杯だったのです。それも帰れることのない自分を追放した世界への憧憬という感傷が形になったと思うと、理性的なもう一人の自分が不要な物を作ったとしか考えられないと文句を言います。
ふとガラスの中に人影が見えました。不安な表情を露にしています。彼は、じっとその人物を見つめました。知っている人物ではありません、たまたま、あそこに誰かが入り込んだというだけかもしれません。声を伝えることは出来ません、聞くこともできません。 ましてや、向こう側の人物の不安を取り除くことはもっての他です。しかし、久々に見る同胞の姿に彼は心の中に歓喜の声が上がるのを感じていました。
<おれは、ここにいるぞ。こっちをもって向いてくれ>しかしその人影は、部屋の中をうろついているだけでした。
<こっちだ>なにかを物色しているようにも見えません。ただ、不安げにうろついているだけのようです。
そして、棚の陰とか机の下にそっと入っては小さくうずくまりまた出てきて自分がうずくまっていたところを離れてみています。どこからか出してきたのか、箱をいくつか机の前に並べ、映像の彼はそっとその下に入ってから箱を、中から積み上げました。
<隠れようとしているのか>
それきり・・ガラスの表面は再び虹色に戻りました。動きが無くなるとそうなってしまうのでした。変化があったときだけ、それは動作するのです。
彼はこれから何が起きるのだろうとじっと見ていました。しかし、その表面はずっと変わりがありません。
彼は、部屋に居る間はいつもその装置の前に居るようになりました。
そして、ある日機械の表面に机とその前にちらばった箱が見えました。箱の前を小動物が通って行きました。
<もう居ないのか、当然だな>彼は、その機械から電源を抜き多くの試作機が放り込まれている倉庫にそれを放り込みました。
<感傷的にこんなものばかりに関わっていると、やりたいことも出来なくなってくる。誰も通らない道路の標識みたいだ。あっても、役に立つことがありゃしない>
彼は、音を立てて扉を閉め、次の発明の模索を頭の中で開始しました。