日時計
暗澹と垂れ込めた雲が灰色の雨を地面に落としながらゆっくりと移動してゆくのを
彼は見ていました。秋の長雨が降り続いています。
その雨のカーテンの中を一つの影が木立を縫うようにして駆けてゆく姿を彼は
窓辺に立って見送っていました。
また何かを掠めとってどこかに売り払う気だろう。それがなんであれ、この世界では
それほど価値のあるものでないことを彼は知っていました。ある一部の者にだけ価値を知ることができるものの、それを造ることができる技術者はこの世界には少なく彼はその少ない技術者の一人でした。
そして、既に木陰の中に消えた彼の弟子も何時かはその技術を身に着けるべく鍛錬してきました。長い間培ってきた経験を元に若い男を時間をかけて薫陶するつもりでした。
しかし、それも徒労に終わりそうでした。
異世界から異世界に流れ流れ歩いて、色々な化合物の生成、そして多種にわたる
生物から自然界でしか生まれない物質の精製多くの生物達のなりたちと宇宙の関わりに
ついて、彼は自分の師や多くの経験から学びました。
その知識については知悉しているつもりであったが、それを人に伝達するとなると
勝手が違いすぎました。
どうしたものか、彼は雨を見ながらひとり呟きました。もうこの稼業を継ぐものを求めてはいけないのだろうか。この広い多次元宇宙の何処かにいるであろう同胞の誰かが弟子を育んでいることを期待して、自分の弟子は放逐してしまうべきだろうか。
木立の間には、一つの大きな円柱形をした石の置物のような日時計が置かれていました。太陽の見えない雨の中では何の役にも立たない唯の置物、そもそもこの様な薄暗い日の当たらない場所にあっては晴れの日でさえその機能も発揮しない。
長い月日の間に苔を生してしまったただの石の置物でした。
彼は、傘もささずに家を出るとその日時計の脇に立ち、そのふちをそっと指の先でなぞりました。それに応えるように日時計がかすかに震えました。指針をそっと握るとその振動がもっとよく伝わってきました。
その日時計こそは、彼が一つの宇宙から宇宙へと移動するために使った乗り物でした。この世界、そして今この現実から逃げるのか?心の中で自分に問いました。
その三角形をした指針を回せば、その機械は彼をどこかの世界に連れてゆく機能を持っていました。しかしこれを回して離れれば、彼は、ぐるりと指針を回してさっと身を翻しました。
日時計だけが消え去りました。最初から存在などしていなかったように。
雨の中、弟子がいそいそと戻ってくると「あの・・これ見てもらえませんか?」
と両手で握りしめた石をそっと差し出した。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
不恰好だが錬金術師にはよく見慣れた石でした。
「これを造ったのか?」
「ええ、書庫にある文献を見ながらつくりました」
錬金術師は、驚きの声を心の中であげました。
「よく造れたな、しかし失敗作だ」
「はい、効き目はありませんでした」
「試したのか・・」と訊くと弟子は頷いた
「彼女、病気なんです。助けたいんです」声が震えています。
「分かった、作り方は教えよう。しかしこれで病気は治らない・・細胞のアポトーシスを遅らせるだけだ。この緑の賢者の石ってのはね」
「駄目なのですか・・」
「助けたいなら、おまえ自身腕を磨くことだ、ただ、病気でも長生きをすれば、そのうち治る可能性もあるだろ・・違うかね?」
「ええ、でも・・」弟子の、今すぐにでも彼女の病気を治したいのだろうという気持ちは分かりました。
「病気を治したいなら医者になれ、しかし私は錬金術師であって医者ではない。どうする?」
「石の作り方を教えてください」弟子は、震える声で答えました。
「さぁ、時間は貴重だ。さっそく取り掛かろう」彼が、実験室と言われる部屋に向かおうとすると、後ろで弟子の声がしました
「あれ、日時計どこにやったんですか?」
「移動した」彼は、ぶっきらぼうに答えました。
「あれ、たまに街の子供達がやってきて上に登って遊んでいたんですよ。なんでも
指針を回すと景色が変わって面白いとか言って・・」
「何・・」錬金術師は、ほっと胸をなでおろしました。
あのまんま置いていたら、とんでもないことになりかねなかったのか・・