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楽器

 散り際の椿が生垣の上から顔を出している家の前に置かれた古い弦楽器は、ご自由にお持ちくださいとの張り紙の下に幾つかの古い家具と一緒に置かれていました。

 彼は、細く長い棹を持ったその弦楽器を手にとり暫くそれを見つめてから、家の敷地に入りました。空は蒼く澄みわたり初春の風が吹いていました。庭は、猫の額程度のものでしたが、季節の花を順繰りに愛でるようにしたのか、今が花盛りの梅の他にも、これから咲く桜、夏を待っている百日紅等が植えられていました。

 昨今では珍しい縁側があり、そこには一人の老婆がまるで決まり切った絵の様にお茶を飲みながら座っていました。彼女の目は最初は真下で花を付けて居る水仙に落ちて居ましたが彼の気配を感じ顔を上げました。

「こんにちわ」と彼は声をかけました。

「どちらさまで?」と老婆は頭を少しかしげました。

そこで彼は、楽器の棹を持って上に掲げながら

「これ、貰っていいですか?」と訊きました。

「ああ、どうぞ、どうぞ、もう要らない物ですから」

老婆は、会釈を繰り返しながら、どうぞどうぞと繰り返しました。

「本当にいいんですか?」

老婆はどうぞどうぞと繰りかえすばかりでしたので、彼は、遠慮なく頂きますとお辞儀をしてその場を去りましたが、老婆の目がしばらくその背を追っているのには気が付きませんでした。


 バイオリン弾きは、それを持ち帰り部屋の中で一棹の三線をじっと見ていました。太鼓の部分に張られた皮は、蛇の本皮ではなく合成の皮でしたが、やや赤みをさした黒い棹は、漆塗りのようで少なくても安いものではないと思われました。

 棹に傷が付いたりはしているものの長年大事に使われていた証拠でしょうか、それは少しも曲がっても捩れてもいませんでした。もし棹が黒檀だったりしたらその価値は楽器としてもかなりのものでした。


 本調子に調弦をして、音を出すと柔らかい響きがしました。冬の都会の中に南国の風が漂ってきそうな音です。

 本棚から古い楽譜、「工工四集」と書かれたものを引っ張りだして彼は、ゆっくりと指に音の位置を記憶させながら一つの曲を弾きました。

 そして、しばらく飽きることなく毎日その楽器に触れていました。まるで新しい機械を買ってその機能を全て確かめたくなるエンジニアのように彼は色々な音をその楽器から引き出すのに夢中になりました。

 そして、桜の花が満開に咲く頃、再びその家にお礼に伺おうと思ったのは、まったくの気まぐれでした。空も春の陽気に覆われていて、以前と同じような穏やかな青空が広がっていました。


 しかし、家はまるで人気のないように静まりかえり、庭には春の草が所せましと一斉に萌えていました。インターフォンを押して無も応答はなく留守かなと踵を返したときに、玄関が開いて一人の女性が出てきました。

「あら?」と女性は、黒い喪服を纏い大きな目を彼に向けました。「何か?ご用ですか」どことなく険しい緊張感を彼は感じました。

見知らぬ人間が玄関の前をうろうろしていたのでは、不審者と思われるのは当然だろうなと、彼は、三線をそっと持ち上げて「あの、これを頂いたお礼を」と笑みを作りました。

「ああ」と女性は、その楽器を見ただけで察したようでした。そして、歯を軽く覗かせて「そうでしたか、実は、叔母は先日亡くなりまして、よろしけば中にどうぞ」

「そうですか、お悔やみを申し上げます」彼は、どうしようかと迷いましたが、彼女は開けたままの玄関に戻ってどうぞ、どうぞと中に誘いました。

彼は、線香の香りが漂う家の中に入りました。

ところどころに年代を感じさせる家は陽光があまり入らないため薄暗く、廊下はよほど丁寧に磨いているのか黒光りをしていました。

「古い家なんですね」彼は、前を歩く女性に声をかけました。

「これね」彼女はそっと柱をなでると「全部贋物よ」と言い、そしてポンポンと手を叩きました。

柱はその位置はそのまま、コンクリートの柱になりました。

「全ての柱や壁に、液晶のフィルムが貼ってあるの、叔母の大好きな仕掛けよ。でも一番好きだったのは、やっぱり古くみえる家かしらね」そしてまた手を鳴らすとまた元の状態に戻りました。

 再び前の薄暗い屋内に戻ると、彼女は襖をひとつ開けて、その中に入りました。

「こちらに」彼がその部屋に入ると、外からの明かりが障子からかすかに入ってくる程度でしたが、正面には、仏壇が一つ据えられその中央に彼が以前出あった老婆の遺影が置かれていました。

 彼は、仏壇の前に正座して手を合わせました。

「できれば、その三線で一つ曲をお願いできませんか?」彼女は、彼の後ろでやはり正座したままでお願いしました。

「未だ、下手ですけど」彼は、楽器を手にとって音を合わせると、まずは指ならしをかねてゆっくりとしたテンポの民謡を奏でました。不思議なことに、同じまったく同じ音が、部屋のどこからか流れてきました。

 アンプがあるのだろうか、彼は不思議に思いながら最後まで弾いてから三線を畳の上

に置きました。

「あの、アンプでもあるのですか?」

「驚いた?叔母はその三線にちょっとだけ仕掛けをしてね、それを弾くとこの部屋

に曲が流れるように細工したのよ」

彼は、一弦をぽんと指で弾きました。すると同じ音が部屋のどこかで鳴り響きました。

「ね・・」彼女は、笑みを漏らしました。

「もし下手だったら、爆発させたかもね」彼はごくりと唾を飲み込みました。冗談のようだけど、この家の機能を考えるとあながちありそうにも思えました

「冗談よ」彼女は、けらけらと笑いました。

「でも、どうしてそんな仕掛けを?」

「さぁ、私には分からないわ。ただ、叔母が床で臥せっていたときに、あなたの曲が流れて、とても喜んでいたわ。それは本当、上手な人に貰われて良かったって」彼女もまた、仏壇を前にして手を合わせて目を閉じました。「叔母さんは何時も独りだったわ」彼女は、ふと言いました。

「長い時間の中では、全ては虚構と同じって言ってた。時代が変わればなにもかも

変わって残るものはないって」

「その中でも、何か残り続けるものはあるかも知れないです」バイオリン弾きは反論しました。

「叔母は、もしこの地球が無くなる日が来てもあるいは人類の全てが居なくなっても残るものはあるのかなって言ってたのよ」

「・・・」

本当に全てが消え去る日は来るのだろうかそんな事をどうして考えられるのだろう、いや、考える前に自分はきっと音を奏でるだろうし今日という日を今という時間を自我で満たそうとするだろう、それしか出来ないから。


「来てくれて、ありがとうね」門の前で彼女は、微笑んで親指と中指でパチンと音をたてました。

すると、家のあった空間がいつの間にか空き地になっていました。

「全ては、虚構。」彼女は言いました。

「ここにあった家も、私もそう、流離ながら、どこかに恒久的なものはないかなと探しているの。そして落ち着けるところをね。でもあなたとはまた遭い合いそうな気がするわ。」

小さく手を振りながら彼女の姿がゆっくりと、消えてゆきました。

そして、バイオン弾きは手に三線を持ったまま売り地と書かれた看板が立っている空き地の真ん中でぼんやりとしていました。

「いや、残るものはきっとあるよ。」と彼は不確かな声を心の奥底で聞いた。

「想いは、きっと誰かに伝わると思うから時空を越えて人から人へ、あるいは他の生命や機械にさえ、遠い過去の音もまたきっと」

風が優しく彼の髪を撫でて去って行きました。



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