リバーサイド
一人の男が、カメラを片手に河川敷を歩いていた。春の陽気を浴びて多くの人々が 同じ河川敷を闊歩していたが、その男に気を止める様子は全く無かった。そして、その陽気に溶けてしまったかのように男の姿はその日を境に消えた。
その蝶の名前は、ヤマキチョウと言う名前である。とがり気味の前翅端を持ち、羽は本来厚みはあるがどことなくはかない気品を感じるところがある。しかし、そんな姿に似合わずその蝶は良く飛びあちらこちらに出没するのである。だから、別にこの潅木の多い河川敷にその蝶が居ても決しておかしくは無いし、減ってきてはいるが絶滅寸前という種類ということもない。彼は、その日その蝶の後を追いながら写真に撮り続けていた。
春も宴たけなわという時期ではあるが、妙に日差しが暑い日であり汗がじわじわと沸いてくる。ヤマキチョウは菜の花やレンゲを訪れては蜜を吸いそしてまた飛んで行ってしまう。まるで道案内をされているようだ。そんなことを思いながら、さらに追尾を続けて
いくと何時の間にか、彼は自分より背の高い枯れた薄原に入っていくところだった。
ままよ、彼はがさがさとその中に分け入ったが蝶をあっさりと見失った。視界の効かないこんな場所では当たり前だ。仕方なく踵を返して歩きだした。
しかし、わずか数歩分の歩みの筈が全く薮から出れそうにない、何羽もの名も知らぬ
小鳥が大袈裟に驚きの声をあげて空に舞い上がった。
雲一つない青空には、やや夕暮れの気配が漂い初めているようだった。
きっと、川沿いに歩いているんだ。それだって知って居る限り、この薄原はそんなに
広い範囲に広がっているわけではないからまっすぐ歩いていれば何れ何処かに出れるのだ。
そう考えれば気楽なものだ、ふと一匹の蝶が彼の目前を悠々とよぎった。前翅端がそこだけ染めた様にオレンジがかっている。
「うそだろ」彼は思わず一人声をあげた。ここに居てはいけない種だ、もしここが
南の国だというなら許してもいいしかし、いま彼が居るのはともすればまだうすら
寒い場所なのである。
彼は、カメラを構えてそれを追った。薮の中を我を忘れて走っていた。枯れた薄が手や足を打ち何かの棘が剥き出しになった掌や顔を引っ掻いた。そのためあちらこちらに蚯蚓腫れが走ったがお構いなしに彼は藪を漕ぎ続けた。しかも陽は徐々に沈もうとしている。
その夕日より鮮やかな前翅を追って果たして河に向かっているのか土手に向かっているのかあるいは河沿いに走っているのか全てのコンパスは意味を失い常に蝶だけが彼の道標になっていた。
しかし、もとより薮の中である。彼は完全に行く手を失ってしまった。どっちに行けば道に出られるだろうか彼は、そう考えたが、あるいは未だ近くにあの蝶が居るように思えた。
そして、大事な事に気が付いた。自分の帰る家の記憶が無いのである。どんな家に住み、家族は居たのだろうか?それとももとから家などないのだろうか?そもそも自分がデラシネの様に放浪しているカメラマンの様な気もした。薮からでればきっと分かる、
全てが分かるはずだ、夜になれば灯かりの方に向かえばいいきっと蝶を見失ったことでまだ動揺しているだけだ。
夜は暗さを運んできた、しかしそれは、人の営みをあからさまにする時間でもある。
彼は、小さな灯かりを見つけた。それはまるで、赤い人魂の様に薮の向こうにみえ隠れしている。助かった、と思う反面なぜか反作用のように足どりが妙に重い。
恐いのである。もし、家が無い事に気が付いたらあるいは、何かで家に帰れない事情が
あるかも知れない。人々の前に姿をだした途端に誰かが大声で後ろ指をさしたらどうする
電柱に自分の似顔絵が貼ってあるかも知れない。
パトカーが自分を探していたら・・・
「おい!」
突然しわがれた声が彼を再び薮の中に引き戻した。
恐る恐る顔をあげると、ぼろをまとい、髪も髭もばさばさの老人が一斗缶で薪を燃やしながら暖をとっていた。
「道に、迷ったか」
彼は、首を縦にふり続けて横に振った。
「ふん・・・お帰りはあっちだよ」
老人は、手に持った薪で彼の来た方向を指した。良く見れば、こんな薮の中なのに奇麗に薄が刈り取られて小さくも広場が出来上がっていた。そして、その境界には5軒程の青いビニールシートで作られた家がたき火の灯かりにうっすらと映っていた。彼はぼんやりと、たき火に近寄った寒いのである。老人は酷い匂いを漂わせていたがそれは余り気にならなかった。それより、この場所にそぐわない自分の存在の方が気になった。手を火にかざすと温かさがじんわりと伝わって来た。
「あんた帰る処がないのかい」
老人は、小さなしわがれてくぐもった声で言った。
彼は小さく肯いた。
本当は帰る場所はある。きっとある見失っただけなんだと、言ってしまいたかった。
しかし寒さは彼の口を封じていた。歯の根が合わずに知らぬ間に震えていた。今日は天気が良かったからその分夜が冷える・・・老人は歯の無い口を大きく開けて笑ってみせた。
「なあに、最初はこの生活に入るときは皆尻込みをするものだよ。まぁ、此れでも飲んで暖まったらほら、あの家で寝るといいよ。」
老人は、懐からウィスキーのボトルを出して彼に差出した。彼は、それを受け取り一口
だけ飲んだ。味が分からない、確かにアルコールは入っているが、日本酒の様な味がするウィスキーとも焼酎とも思えた。
そんな彼の不思議そうな顔を見て老人は慣れだよ慣れと言ってほとんど強引に瓶を彼から取り上げ自分も一口飲んだ
「景気の良いときは、いいウィスキーばかり残っていてさ、混ぜる必要もなかったよ」
そしてまた、彼に瓶を差出した。安いウイスキー、日本酒、焼酎、ビール全てが混ざっているのだろうしかも特にどれが多く入っているわけでもでもない、彼は、それを一口、もう一口飲み込んだ
「ここからはどうやって出ればいいの?」彼はやっと口を開いた。体が温まってきたようだった。
老人は彼の顔をじっと見詰めた
「でたければ、出ればいいのさ」
「出れないんだよ・・・」彼は頭を抱えた
「出れないんだよ」
「それは出たくないからさ」
老人はそう言うと、つばを地面に吐いた。
「外に出れば、また自分がぼろぼろになるのが分かっているし、別に此所にいたとしても死んでしまう訳じゃあないもっとも生きるためにはそれなりの努力はいるけどね。 ちょっと、人並に生きたいという贅沢の為にどうして身を削る必要があるんだい。 知っているかい?俺なんかちょっと前まで社長やっていたのさそれが倒産してここまで落ちぶれ
ちまった」
「それは、大変でしたね」
彼がそう答えると老人はけらけらと笑った。
「皆そう言うが、生憎と俺はあんまり大変と思って居なかったけどね。大変だったのは、あれやこれやのお役所の手続きばっかり。何もかも済んで、皆売り払って、周りに居た奴が全部居なくなってしまうと寂しいけど、せいせいしたよ」
「私は、未だ全てを無くした訳ではないですよ」
「だろうね、だから出なきゃという義務を感じているのさ本当はずっとここに居たいのにね」
老人は、手を薮の方向に向けた
「目をつぶって、間っすぐあっちに歩きな、土手沿いの道路にでるからさ」
「目をつぶってですか?」
「そうさ、目をあけて自分の行きたい方向に向かえば、あんたは絶対に此所へ戻る事になるからね」
彼は、その通りにしてみた。
よたよたと歩きだした彼の背に老人が声を駆けた。
「絶対目をあけるなよ、肌でここから出たのが分かるまでな」
薮が体を鞭打った、草が足をすくった茨が手を刺した。足元がおぼつかない、時折大きな石に躓いた。それでも彼は歩いた。やがて藪が体を打たなくなり、靴底の感覚は砂利を踏んでいるようだった。まだだ、彼は自分に言い聞かせた。まだだ。
そして、足が硬い地面に、無機質な大地を感じとった。アスファルトのような感覚。
目を開けるとそこは、知らない町角だった。