風邪
季節の変わり目に風邪をひいた、熱がひどく出て喉がひりひりするほどに痛い、その上休日が重なり医者に行こうにも近所の医院はどこもお休みである。きっと、どこかで休日当番の医院が開業しているだろうけど、そこまでして診療を受ける気も起きない。しかもそういう時に限って、風邪薬さえ切らしている。ドラッグストアもはっきり言って結構遠いというか、近所のは最近閉店してしまった。辺鄙な町に住んでいるのではなくて、町に活気がないだけなのだ。一番近くの商店街は俗に言うシャッター通りになっている。
だから、布団に包まって明日までに安静にしていることにした。遠くを走る電車の音、道を歩く人の声、自分の心臓の音。ひとつひとつの音が聞こえてくる。こうも空気の中に音が満ちているとは思いもよらなかった。そして、眠っては目覚め、目覚めてては知らぬ間に眠った。
風邪で立っているのさえ辛いような時、人はこうも布団の中で寝続ける事が出来るのがというのが不思議に思えた。普通なら背中が痛くてたまらないところだ。
窓からの明かりが陰り、夜がやってきた。お腹がぎゅるると音を立てた。遠くでお月さんは、こうこうと輝きながら、闊歩しているし、バイオリン弾きは遠くで怪しい調を奏でている。秋風の中に混じっているこの音は、そうとしか考えられない・
錬金術師は、自分の実験室にこもって怪しげなことをやっているのだろうな・
そして、僕は一人で粥を作りはじめた。煮干しで出汁をとって、お米を弱火で煮続ける。流石に寒気を背負ったまま台所にずっと居るのも辛いので、布団に潜って目だけをお鍋にむける。発明家が造ったガス台は、電子レンジなみにボタンが沢山付いていて、その中にお粥というのもあるのであるが、造った本人自体、失敗作と言っていたから、結局見守るしかない。
お粥の出来具合を心配していたら、ガス台から昔の西部劇の映画のテーマソングが流れてきた。なんという選曲だ。そういや、電子レンジで調理完了のピーピーという音が気に食わないからこのガス台は特別に自分で選曲して入れておいたと言ってたっけ。しかし、本当にセンスが疑われる。
そして蓋をとって、食欲が失せた。すごく上出来な銀シャリだお米が立っているという表現があるけどまさにそんな感じ。消化に自信が無いのにこれは無いと思った。僕は、そのシャリに水を注ぎ込み、箸でかき混ぜると、湯沸かしのボタンを押した。どうやら、ただでさえ風邪の熱でぼうっとしているのに、粥が出来るまで見守る必要がありそうだった。
ようやく、ご飯が柔らかくなってきたところを見計らってお味噌を溶かし入れ、最後に溶きタマゴを入れた。これで、ようやくご飯にありつけると、お鍋をもって布団の横にあるテーブルに向かおうとした時、床に転がっていた酒瓶にけつまづいた。
お粥は、台所の床にまきちらされ、僕のお腹に入るものは何ひとつ無くなってしまった。それどころか、駄目になったお粥を雑巾ですくっては、シンクの三角コーナーに入れ、そして床の雑巾かけも余儀なくされた。僕は、空腹を抱えたまま再び布団に潜りこんだ。こんな日はふてくさるしか無い。でもお腹は減ってきたし食べるものはもう何もない。ぼうっとしてきた頭の中を死という言葉が浮かんだ。独り暮らしの男性、餓死死体で発見という見出しで朝刊に名前付きで載ってしまうのだろうか? せめて、チョコレートがあれば溶かして飲むのだけど。それは、お月さんに食われてしまった
夜は暗く、長い。僕は一人布団の中で寂しいという言葉を飲み込んで朝を待った。突然アパートのドアが開いて、誰かが入ってきた。僕が布団から顔を出してそちらに目を向けようとすると足音がそっと僕の傍にやってきて小声で言った。「お友達が来てね。貴方を見舞いに行って欲しいというから、ちょっと顔を観に来たの。」と女性の声だ。喉が痛くて声も出ない 僕は、肯くしかなかった
彼女は、昔の僕の恋人だった。つまらない喧嘩が原因で別れてしまったまま、連絡も付かなくなった女性だった。
彼女は、台所に立ちてきぱきと料理をはじめた。まな板の音が心地よかった。彼女とこうして過ごした時間はあの頃は沢山あったのに、どこでどうしてこうなってしまったのだろう。
分からなかった。熱のせいで見ている幻覚かもしれない。全ては時の中で焼却した筈なのに燃え尽せなかった記憶が陽炎の様に頭の中に立ち上っては消えていった。
そして、現か幻か判断できないようなまま、彼女の作ったスープを飲んだ。彼女がスプーンの中のそれをふーふーと冷ましてから、一口、一口とゆっくり飲ませてくれた。
貴方の風邪は、淋しさからくるものなの・・と彼女はそう言った。
心の隙間が広がった時に、その間に入ってしまう風邪があってね。普通の薬では駄目・・
こうして、思い出でその隙間を少しだけうめてあげると風邪の黴菌が居られなくなるから、少しだけ快方に向かうの、さぁ、もっとスープを飲んで。僕の中で、彼女との思い出がふわりと広がった。
何時、彼女が出ていったのか、そもそも初めからこなかったのか・・それさえ不明だった。
目が覚めると、テーブルの上には、「すきま風邪の処方箋」と書かれた白い袋が置いてあった。
ただ台所は、後片付けがされないままだった。レンジは汚れ、野菜くずや洗っていない鍋が散らかったままだった。