下着泥棒
男はディバックを背負い、あたかもジョギングをするような姿で深夜の街を小走りに走っていた。しかし目は左右の家の軒下をくまなく探っていた。丁度土手沿いに続く道路に出ると街灯は薄暗く、月明かりだけが道を照らしているような有様だった。土手の上には、膨らんだレジ袋を片手に下げた男が、のんびりと歩いていた。その男の後ろからは一台の自転車がダイナモで発電されたライトで道を照らしながら迫ってきていた。そして自転車のブレーキの音が聞こえてから「ちょっとあんた」とやや太く威厳のある声が男を止めた。
どうやら、今宵は運が良さそうだ。土手の上で警察官が不審者を尋問している内に仕事を済ましてしまおう。彼はにんまり笑みを漏らすとアパートの陰の闇に入ってザックを背中から下ろし、中から棒状のものを何本も取り出してはそれをどんどんと繋げて一本の長い棒に組み立てあげた。最期の仕上げに棒の先端にマジックハンドのようなものを取り付けた。彼はその自作の装置をとても気に入っていた。これがあるおかげで、彼のコレクション収集が格段に増えたからだ。
彼は全ての部屋の電気がすっかり消えたアパートのベランダのある面に回りこむと、身を低く構えて辺りをうかがった。皆が寝静っている様子だが、そこには申し訳程度の街灯が少しだけ闇を押しのけていた。彼は慎重に何度も頭を左右に回し、耳を澄ました。どうやら誰も居ないようだと判断すると高鳴る鼓動を押さえて彼はマジックハンドを2階のベランダに伸ばした。そこには、女性ものの下着がぶら下がっていた。2階であることに安心して干しているのが彼の付け目だ。彼は、その中で一番良さそうなものを一枚だけ選ぶと、マジックハンドではさみ棒を引いた。下着は彼の思惑通りに洗濯挟みから抜け落ち彼の手中に落ち、彼は棒を再び分解してザックの中にしまいこんだが盗んだ下着はシャツの中に押し込んだ。
彼の部屋は古びたアパートの角にあった。周囲には家が立ち並び部屋から見える景色も他人の家ばかりだった。陽はたいして当たる事がなく、部屋の中は物が少なくすっきりとしていた。大きめの家具はテレビと洋服タンスと冷蔵庫ぐらいしかなかった。彼は畳の上に座りこみ今夜の戦利品を手の中で持て阿あそんでいた。あの部屋にどのような女性が住んでいるのかは分からなかった。彼はただ妄想のなかで独りの女性を思い浮かべ下着を広げてはじっと眺めていた。そっとその匂いをかぐと清潔そうな洗剤の香りと、柔軟材の花の香りが鼻腔をくすぐった。彼は思わずため息をついてそれを抱きしめるように胸に当てた。柔らかい生地はそれが直に触れ合う柔肌のように思えた。彼はその柔肌を纏った肉塊を彼は抱きしめているという妄想にっ耽りつつ、自慰行為を始めた。そして行為が終わるとともに、彼は自戒の念に包まれた。またやってしまった。盗んでしまった。犯罪と分かっていても、どうしても欲しくうて欲しくて制御が利かなくなってしまう。もうやらない、絶対にやらない。そう思いながら彼は下着がいっぱい詰まった衣装ケースに新しい下着を綺麗にたたんで詰め込んだ。
そしてある夜。彼はそっと家をでた。今日はしない、絶対に盗まない。あってもそっと眺めるだけだ。何時も背負うザックは下駄箱の上に置いた。あのマジックハンドがなければ、もう盗むこともできないから、そもそも犯罪を犯しようがないはずだ。ジョギングをするふりをして徘徊を続けると、月明かりに照らされてアパートの一階の軒下に鮮烈な赤い下着が目に入った。駄目だ手を出しては駄目だ、彼は目をそむけその場を走り去った。気持ちを振り切るように走る速度を上げ、川沿いのサイクリングロードにでると。何時か見た男がまた手に袋を持って歩いていた、ひょっとしたらこいつも同類なのだろうか?おれのような奴はあるいは多いのかも知れない…そう思うと、彼の中で染み出るように欲望が心を染めていった。あと一枚くらい構うものか、見つからなければ大丈夫だ。彼の足は自然とユーターンをした。赤いショーツとブラのセットはまだそこにあった。夏の夜の暑く苦しい気温の中で風にもなびかず、それはじっと彼を待っているように思えた。一階のベランダの手すりに手をかけてじっと見ると心臓が高鳴った。なんて情熱的な色なんだろう、これを履いた女性はどうやって男を惑わすのだろう、彼はそっと手すりを乗り越えてベランダの中に入り片手で洗濯はさみを片手で下着を持って音を立てないようにそれを外して自分の服の中に押し込んだ。その途端、部屋の明かりが点き彼はあわてて手すりを乗り越えようとしたが、それよりも早く窓が開いた。女性の顔を見る余裕などなかった。暑い夜の中を黄色い悲鳴がかけぬけ、彼は転がるようにしながら逃げ去った。
「いやぁ、昨日は凄い悲鳴が聞こえておどいたよ」とあるアパートの一室で男はビールを飲みながら話していた。「なんでも下着泥棒が出たらしいよ」
「こんな暑いと、出来心で何かしちゃうのかね?」お月さんが言った。「であんたの泥棒の成果はどう?」
「僕のは泥棒じゃないってば、この前も警察官に職務尋問されてしまって参ったよ。こっちは、街路樹の花桃の実をとっていただけなのにさ」 「なに、花桃のような下着?」お月さんは、口の周りを泡だらけにしてにやりと笑った
「俺じゃないってば」男は、ぶすっと言ってから缶をあけた
彼は、部屋の中で下着を抱きしめながら、顔を見られたと思った。きっと外には彼を探そうと警察が右往左往しているかもしれない、アパートの住人はそうそう顔を合わさないからきっと、モンタージュを見せられても分からないだろう。しかし、妙に記憶のいいやつとかいたら…こんな恥ずかしい犯罪で捕まりたくない、彼は下着の山に顔をうずめながらぶるぶると震えた。あー下着になれたら…もう捕まることなどないのに、そしてもしそのまま女性に返却されて自分を着けてくれたらどんなにすばらしいことだろう。数日彼は、何も食わずじっと下着に埋もれて寝起きを続けていた。ある日、電話が鳴った。彼は弱りきった体を動かせないまま、留守録される声を聞いていた。それは、会社の上司からのものであり心配している様子で連絡をくれとの伝言が入っていた。しかし、彼には身動きできる体力が無かった。骨と皮だけになったかの様に痩せていた。それでも彼は下着に埋もれたまま朦朧とした意識の中で卑猥な思いと追われる恐怖の間を行き来していた。痩せ細った彼はいつのまにかぺたんこに干からびてしまい、やがて彼そのものが下着とみわけがつかなくなってしまった。
ある日、彼の家を大家と会社の上司が訪れた。鍵をあけて中に入ると女性の下着が散乱しているのが見つかったが、住人の姿はどこにも無かった。大家は直ぐに警察に電話を入れた。
暫く後、警察は盗難届けのあった女性に連絡を入れたが、受け取りに来るものは居なかった。窃盗犯として彼は手配されたが、まるでどこかに消えてしまったかの様に足取りがつかめなかった。
何年か後、彼の盗んだ下着が焼却処分されたが、その時髪の毛を焼くような匂いがしたという。