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夜が好きだ。できれば誰にも会わずに済む雨の夜が好きだ。彼は恨めしそうに窓の外に浮かぶ月を見上げて窓を閉めカーテンを引いた。それから部屋のドアに近寄り、そっと聞き耳を立て、物音が聞こえない事を確認してから鍵を開け僅かにドアを開いた。廊下の明かりがさっと薄暗い部屋に入り込み彼の顔半分を照らした。不精髭だらけのやせこけた青白い顔だ。彼はドアの隙間から手を伸ばし廊下に置かれた盆を手探りで掴むとそそくさとそれを部屋に引き入れた。

 盆の上には、冷たくなったご飯と味噌汁と塩鮭の乗った皿があるだけだった。彼はそれをかきこむように口にして、腹に収めていったが、何かが物足りない、普通の食事では満たされない何かを欲した。やっぱり、あれが食べたい…あれじゃないと満足できない…彼は、空になった食器を廊下に戻しついでに体を部屋に外に出した。廊下を音を立てないようにおそるおそる歩いた。家人でさえ、顔を合わすのが億劫だった。顔を合わせたらなんといえばいい?何かを聞かれたらなにを答えればいい?それを考えることさえ恐ろしい事に思えた。

 彼は、階下に下りそっと玄関をあけた。家の鍵は首から紐でつるしているので、いつも自由に家から出ることも還ることもできる。ただ、彼が家から出ることそれ事態が非常に数少なく、それが使われるのはここ最近の事だった。家を出てゆっくりと道路を歩く、月明かりがまぶしく感じる。うなだれて、顔をけっしてあげてはいけない、間違っても挨拶なんかされたくない、そんなことになれば、声は上ずり、心臓が壊れるまで激しく鼓動するだろう。深夜といえど、人の姿が全くないわけではない、彼は暗がりの中に落ちる陰を伝うようにして、地面だけを見ながら歩いた。

 目的の公園には、ところどころに薄暗い街灯が設置されていた、その明かりの届かないところに、逢瀬を楽しむ恋人やら、高いびきをかいている酔っ払い、ホームレスがいた。彼は、公園の隅にある木に近寄った。大きな桑の木だった。昔から彼はよくこの桑の実を楽しみにしており、子供の時分には手を赤紫に染めて実をむさぼったものだった。当然今の季節には実は終わってしまってもう無い、葉が生い茂って昼の間ともなれば、涼しげな木陰を提供するだけの存在だ。彼は、手を上に伸ばし、葉を一枚むしるとそれを口に入れた。これだ、これが欲しい…もっと、もっと、美味いとか、腹が空いているとかの理由ではなかった、ただ本能のように桑の葉を欲していた。公園の中の誰も、彼の奇行に気づくものはいない、恋人達は互いを愛撫することに夢中で、酔っ払いは夢の中にもぐりこんだまま、ホームレスは、見て見ぬ振りをしていた。彼は、誰にも干渉されない気分に浸っていた。葉を食べているうちに何かが喉にひっかかり彼は咳をした、なんどか咳を繰り返すと歯に引っかかるものがあり、手でひっぱりだすと葉の繊維のように細長いものだった。

 

 それでも葉を食べ続け、なんとなく満足を得ると彼は誰にも気付かれないようにひっそりと公園を後にして、そっと自宅の部屋に戻って内側から鍵をかけた。まだ眠りたい気分ではなかったので彼はテレビゲームを眠くなるまで続けた。重いカーテンのため、何時朝になったのかさえ彼には分からなかった。ただ、ドアの前でコトンと食事が置かれる音だけが、朝昼夕を示していた。数年前までは、彼も定職ではなくても仕事をそれなりにこなし、それなりに人々と付き合っていた。それが、会社から解雇されたことを発端に、家から出なくなった。それでも暫くは家事を手伝ったり、家族と食事をしたりして家族と顔を合わせていたものだった。時が経つにしたがって、腫れ物を触るように家人は彼を扱った、時には病院に行った方がいいとか、職安に行ってきなさいと諭したりもした。それが辛かった、ありとあらゆる人との会話が怖くなってきた。-俺は、人生から脱落しました-彼は自分に言った。もう立ち上がる気力もありません-どうか放っておいて、独りにして-

 朝に置かれた食事には結局手を付けなかった。テレビゲーム以外にやることがない体はもうたいしたエネルギーを求めていないのだろう。階段を昇る音がしたかと思うとため息とともに食器を持ち去って行く音が聞こえた。そのため息を聞くと申し訳ないという思いで一杯になってしまう。しかし今は気力のひとつも涌いて来ない。そんな状態でも、彼は深夜になると、公園に出かけては桑の葉をむさぼった。

 ある夜、下の葉をだいたい食べつくしてしまい、細い枝に手をかけて昇るには心もとないような木に昇って葉をむしっていると下から声がかかった。

 「美味しいですか?」細身の男は、小さい籠に何かの実を入れていた。彼はぎょっとした眼を男に向け身を硬くした。何か応えるべきだろうか?何か言葉を言うべきだろうか、しかし彼の頭の中は、恐怖で真っ白にそまってしまい、口をつぐんだままだった。周りを包むものが欲しい、人と自分を永遠に隔絶できるなにかを…声をかけた男は、彼が何も返事をしない事を不思議そうに首をかしげると、そっと立ち去っていった。その男の姿が視界から見えなくなると同時に彼は、闇の中をかけていった。

 部屋に戻ると、彼は布団を被って丸くなった。意味不明な振るえが最初のうち襲ってきたが、闇の中でそれは静かに収まってきた。と同時に思わぬ吐き気を感じた。トイレへ…と思って布団から出たとたん、それは激しくこみ上げた。うっと口を押さえたが指の間からそれはもれ出てたちまち固まった。手をズボンで拭いて天井灯をつけると、白い糸のようなものが指に絡まって垂れ下がっていた。なんだこれは?更に吐き気が続いたが、それはかろうじて留めた。しかし、異変は続いた、息を吐くと口から糸が吐き出されたのだ。なにか病気だろうか…不安が混み上がってきた。落ち着け、自分に言い聞かせる。掌の細い糸をそっと外してみる、白く丈夫な糸だった。まるで蚕のようだ。彼はそこで面白いアイディアを思いついた。

 彼は、天上の隅に向かって息を吐いた。するとその息に乗って白い糸が伸びてその先端が天上板に張り付いた。ああ、やっぱり…彼は興奮にみちた気分に浸りながら、続けて糸を部屋じゅうに吐き出し続けた。


 長らく、食事に手がつけられていないことを気にした彼の家人がドアを破ったとき、そこでみたのは、巨大なカプセル型の白い繭だった。

「あらら、とうとうここまで引きこもってしまって」と母は言った。

「まぁ、これなら食事の心配もいらないだろう。放っておけばいいさ」と父親がドアを破ったハンマーを持ったまま言った。

「ねぇ、おにぃちゃん何になって羽化するのかなあ?」歳の離れた妹が興味深そうに部屋に入って繭をそっとなでた。

「そのうち分かる」父親は妹に向かって「さぁ、みんな部屋から出よう」と声をかけた

「ねえ、虫かご買ってこようよ。お兄ちゃんが出てきたらそれに入れるの」妹ははしゃいで言った。

「そうね、これでならしばらく世話もいらないし、皆で久々に旅行にでましょうか」母親は、嬉しそうな声をあげた。




「そういや、先日面白い人がいたよ」彼に公園で声をかけた男が、甚平姿の月に言った。「なんだい?」

「桑の木に登って葉を食べていたのさ」

「なんだいそりゃ、クワコ怪人か?」

「さぁ…繭でも作る気だったかもね」

「それより、漬けたという山桃酒が何時ごろできるのかね?」

「それは出来てからのお楽しみ。こっそり公園で集めるのは人目が厳しくって大変だったのだからね…深夜になって集めたんだ。」



繭は、何時になっても羽化はしなかった。

ある日、妹がこっそりとカッターナイフで切れ目を入れると、中は空っぽの空間があるばかりだった。




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