春雷
季節は未だ未だ寒い、できるなら家に篭ってやりたい事をやっていたい。そういう思いとは裏腹に春の虫が偶発的な陽射しに騙されて土の中から顔を出してしまったように、体がなんとなくうわついて、発明家はぼんやりと外に出てしまった。
そして、やることがある訳でもないまま公園のベンチに座って日向ぼっこをしていた。香りが好きだった蝋梅の花は落ち、代わりに紅白の梅の花が咲いていた。日差しの暖かさに気が緩んで彼は目を閉じた。
やがて子供達が、彼の座るベンチの後ろにある花壇にやってきて、甲高い声で「あ、つくしんぼだ」と叫ぶ声が、何故か耳に障ってうつらうつらしかけた彼の頭が起きた。落ち着けないもんだな-と彼は思った。やはり出て来るべきじゃなかった。-土筆か、そういえば、故郷にも生えていたな-と彼は思って、後を振り返った。何時も真にか子供の姿はそこになく、小さい土筆が生えているのが見えた。土筆か…少し苦みのある春の味。
遠い昔、長い冬が花の開花と共に終わると思うとどれほど安堵したことだろう。風の入り込む古い家屋に母と共に住み、湿気った煎餅布団で体を丸くして空腹と寒さに耐えて寝る夜から間もなく開放されるのだという期待があった。春になれば、こんな布団でも耐えられるし、食べ物も摘んでこれるようになる。そして母も田畑の手伝いに行ってくれるようになるだろう。仕事の無い冬の間、母は絶えず酒を飲み続け役所から給付された生活費は全て飲んでばかりいた。飲み潰れるまでの間、彼は意味も無く折檻され、体中に痣が絶える事がなかった。服も買えず、風呂にも入れさせてもらえず、服は冷たい水で自分で洗っていた。冬で良いことといえば、汗をかくことが無いから服や体が臭くならないことぐらいだった。酒を飲んで母は何時も最期にこう言い放った「生まなければ良かった」何よりこの言葉が痛かった。
学校には、何時も一人で行ったものだ、当時子供を狙う物騒な事件が都会であり、こんなのどかな田舎でも親が子供を学校の門まで連れて行き、そして下校には向かえに来てくれる。それがとても羨ましかった。村の中にある修理工場のオヤジは、毎朝彼に声をかけてくれた。丁度オヤジがシャッターを開ける時間に彼が前を通るからだ。以前、下校時に同じクラスの者達にいじめられていたのを助けてくれたのが、このオヤジだった。多分それ以来やたらと声を掛けてくれたり、簡単な仕事の手伝いで小遣いもくれたりした。「よう、帰り寄っていきなよ」オヤジは彼の顔を見て言った。「はい…」彼の返事はそれだけだった。信じられる大人はいない。助けてくれる大人はいない、大人の言う言葉はただの文字の羅列だ。そこに心はない。あるのは自己満足と保身だけ。
彼が教室に入るなり、級友は嫌な顔をした。「くせえんだよ。帰れよ」真っ向から、一番大きな図体をしたヒューズが大きな声を発した。それに応ずるように、あちこちから、「来るなよ。バカ」「あっちいけ」とか罵声が飛び交った。彼は、そっと袖も匂いをかいだ。暖房の効いた教室では、彼にはもう慣れてしまった匂いが発散していたが、彼にはそれが分からなかったのだった。無言のまま踵を返そうとすると教師が鉢合わせになった。 若い教師は田舎に赴任されたのがさも不満そうで、やる気の無さが小さい子供達にも感じられた。「チコ、席に着きなさい」教師はそう言ってから、眉間に皺を寄せた。「お前、風呂に入っているか?」彼は、何も言わず首を振った。何かを言えば打たれそうな気がするからだ、母親も黙っていればあまり手を出さない、下手に何かを言った時に限って平手が飛んでくる。「全く…生活保護だからって、風呂ぐらい入れよな」教師の言葉は、自分の不満を彼に押し付けているようなものだった。それだけに、小声ですらなく誰にも聞こえる声だった。
彼は、教室の一番後ろの席に着いた、その途端ガタガタと机を移動する音が教室に響いた。彼もそっと皆から離れるように席を後ろに移動させた。教師は単に、生徒の出欠だけ確かめ、連絡事項だけ伝えると、直ぐに授業を始めた。教師からはいくつもの質問が生徒に投げかけられたものだ。しかし彼に当てることは滅多に無かった。口を利くことが滅多になかったので、何かを言おうとするとどうしても、舌がもつれてしまうのだ。そんな生徒に当てるだけ時間の無駄だ。と教師は思っていた、カリキュラムは忠実に進めなくてはならないからだ。もし遅れたりすれば、報告しなければならないし、下手をすれば補講を夏休みの間にやらされてしまう。生徒のように長い夏休みが取れるわけではないが、休暇をとって骨休みだってしたい。それをフイにされてたまるか。
昼食の時間になると彼は教室を出て行った。教師もそれをとがめたりすることはなかった。むしろ居るほうが迷惑がっていた。彼は、何時も体育館の裏の階段に腰掛けてビニール袋の中身を食べた。パン屋で只でもらえる食パンの切れ端がごっそり入ったものだった。教室で食べていると、周りがそれをバカにして何時も騒ぎになった。決して美味しいものじゃない、それでも耳の隅にジャムがついていたりすると、彼はそれを味会うようにじっくりと噛んで食べた。時折校長がそんな彼の姿を見つけると、そっと自分の弁当を彼に差し出してくれた。「何時も、そんなものを食べているのかい?」と校長は言ったものだ。彼は、小さくうなずいて返事をしただけだた。「また、痣を作って…」と校長は、彼の顔をじっとみた。「お母さんかい?」と訊かれて彼は首を横に振った。「それじゃクラスのだれかかい?」彼はまた首を横に振った。「どうだろう、施設に行って見る気は無いかね?」彼は激しく首を横に振った。「い、い、いや、だ」暴力は怖かった。でももっと怖いのは、一人になってしまうことだった。不思議なものだと、発明家は思った。今は一人でいることが何より好きになってしまった。
子供の頃の彼にとって、一日で一番好きな時間になったのは、下校の帰り道だった。修理屋のオヤジの作業場はいつも油臭くて煩かった。彼が顔を見せると「よう来たな」と言って。金属屑を捨てたり、工具の片付けとかを手伝わしてくれた。一折作業が終わると、何時も大きな機械の操作の仕方を教えてくれた。「あんた、そんな小さい子供に危険な機械を触らすんじゃないよ」とおかみさんが横から大声で口を出すのだが、口先だけで言っているようなもので、二人で彼が切ったり穴を開けた金属片を見ては、「あんたいい腕しているよ」と褒めては、お菓子を包んだ紙包みと小銭を渡して。「おっかさんに見られないようにするんだよ」と言ってくれた。小銭も嬉しかったが、なにより自分を認めてくれるのが嬉しかった。結局そのまま、機械いじりが好きになってしまったんだな。と彼は何時も思わずに居られなかった。そんなあるとき、彼は金属屑の中で酷く鋭利な金属片で手を傷つけた。オヤジはあわてて手を消毒して手当てをしてくれたが、何故か彼はその金属片をそっと持ち帰った。
彼は、夜な夜なその金属片で自分の腕を切った。学校でいじめられたとき、母親に酷くしかられて殴られた時、彼は「お前が悪いんだ」と小さい声で言いながら押入れの中で腕を切った。母親が布団を下ろした跡のスペースが彼の一時的な部屋だった。毎晩毎晩、母親の鼾を聞きながら、腕を切り刻んだ。
梅が咲き始めた頃に、母親が体調を崩した。熱にうなされながらも、病院に行く金もなく、薬も買えず。彼は、かつて自分がされた様に、濡れたタオルで母親の額を冷やすことしかできなかった。「私のことはいいから学校に行きな」とぜいぜいといいながら言われて彼は、袖の破れたセーターを着て学校に行き、帰りに、オヤジの手伝いをして小銭を貰った。彼は、その金で卵を一つだけ買って、家に向かった。途中で、沢山の土筆が生えていたので、彼はそれを摘んだ。昔、その卵閉じを食べた記憶があったからだった。きっとそれで体力もついて母も元気になると思った。
彼が帰ると、部屋には悪臭が立ち込めていた。糞の匂いだった。「ねぇ…」といって布団の横に座って母親の顔を見ると、目を大きく見開き。口はあんぐりと開いていた。何が起きたのかは、直ぐに分かった。でもどうすればいいのか分からなかった。彼は、ひたすら死体に声をかけながらゆすり続けた。そうすれば何時か起きると信じていたのかもしれない。電話も無かった、誰に知らせたらいいのかも分からなかった。彼は、眠くなって押入れに入って寝ると。朝にまた、母親をゆすった。野に出て彼は、土筆をむしり、パン屋に行っては耳を貰いうけて自分で半分食べ。残りを母親の開いた口に入れたが、それは、ずっとそこにあるままだった。
やがて、彼もまた熱を出して何度も何度も吐いた。もうダメかなと、どんなにいじめられても遠くに思えた死が初めて身近に感じた。お腹すいた…そう思って外に出て倒れ、気が付いたら。病院に居た。修理屋の夫婦が涙を流しながら、彼の目覚めを喜んでくれたものだった。そして、いつの間にか彼は修理屋夫婦の養子になっていた。病院を出たとき、遠くで雷鳴が聞こえた。「春が近い証さ」と修理屋は言ったが、本当は長い戦争の前触れだった。軍は、近くに演習場を作ったのだった。そして修理屋はやがて農機具の代わりに軍需品を修理するようになった。
雷鳴が聞こえた。彼は、ベンチに座って地面を見ていた目を上げた。
「春雷ですね」と聞き覚えのある声がした。見れば、河川敷に住まう男だった。彼は、ビニール袋の中に土筆を摘んでは入れていた。
「な…なんで、こ、こんなところに?」
「春の陽気に誘われて散歩をしていたら、ここまで来てしまって…そしたら、こんなところに土筆が沢山あるものだからつい」男はポリポリと頭をかきながら答えた
「そ、そんな、の、どど、そうするんだ?」
「卵とじにして酒の肴にしようかなと思って。今夜辺り暇だぁってお月さんも来そうだしね、発明家さんもどうです?」男は一杯やるしぐさをしてみせた。
「さ、酒は、い、いいけど、土筆だけは、か、勘弁して」
「おや、嫌いです?土筆美味しいですよ」
「い、いや。わ、悪い思い出が、あ、あってね」発明家は渋い顔をしてみせた。
「じゃあ、他のも作りましょうかね…」と男は、にこっと笑った。
「た、たのむよ」
「ええ、じゃあ後で来てくださいね」男はそういうと、膨れた袋をぐるぐる回しながら去って行った。
彼は重そうに腰をあげた。そういえば、長らく母親の墓参もしていないな、いつか戻る時はあるのだろうかと彼は思った。ふと見上げた空にゆっくりと雲が覆いだし、北風が吹き出した。春は近い、しかし冬が終わったわけではないのだ。