雪の夜
雪が降る街角で、バイオリン弾きはなんとなくバイリンを弾いていた。ストリートミュージシャンのつもりでもなく、誰かに聞かせるというつもりでもなく眼を閉じながら、ひたすら自分の世界に篭って弾き続けていた。どこかのいたずら者が彼の前に置いた鯖缶の空き缶に誰となく小銭を放り込む音が、彼には違和感として感じられた。
「おじさん」という少女の声で彼は眼をようやく開いた。それでも指は止まることを知らない。声の主は彼の足元で膝を抱えて下から彼を見上げていた。 「なんだい?」と彼は訊いた。バイオリンの音もそれに引きずられてなーんだいと言う。
「おじさんも行くところが無いの?」大きな赤いコートに白いマフラーにくるまれた白い顔の中で声がくぐもって聞こえた
「いや、ちゃんと帰るところはあるさ」
「じゃあどうして、こんなところでずっと弾いているの、誰も聞いていないよ」少女の言う通り、皆急ぎ足で駅や繁華街に向かっている
「おじさんは弾きたいから、弾いているのさ、どうだいこの雪。ネオンの輝き、人の足音、僕にはみな音楽に聞えるんだ。ならこの街の音そのものとセッションをしてみたくなってね。」
「なんだあ、自己満足なんだね」少女の目がにこっと笑った。
「そうさ、全くその通りだ」彼はやっと指を止めた。
「君は帰るところがないのかい、こんな寒い夜に…」彼の言葉に、彼女の目が沈んだ。
「そうボクは、帰るところが無いの」
「家出をしたのかい?」
「ちがう、今日は戻れないの」
「親と喧嘩したのかい?」
「ううん、もどれないの、それだけ…」
「家はどこだい?」
「中野」
「じゃあおじさんが車でそばまで送ってあげようか」
「いい、帰る事ができないのは知っているし。ボクも雪を見ていたいから」
「聞きたい曲でもあるかい?」彼は、そっとバイオリンを構えた。
「ううん」という少女の姿が雪に隠れたようにみえた。空から落ちて来る雪のひとひら、ひとひらが大きくなってきた。
「それより、おじさんはこんな夜に一人でさびしくはないの?」
「さびしいよ、でも一人でいる事に馴れてしまったのさ、キミはどうなんだい?」
「さびしいよ、こんな夜に一人なんてさ、でも帰るともっと寂しい気がするんだ」
「どうして?」
「ボクの居場所がないから」
「そんな事はないよ」と彼は言った。
「俺も、行くところはないし、キミの家に行ってみようか」
「無理だと思うけど、でも寒くなってきたから、試してみようかな」少女は、掌に息を吹きかけた。
「ああ、俺もそろそろ寒いしね」
二人は、繁華街の中を、まるで親子の様に連れ立ってあるいて、駐車場にある古臭いジープの前にやってくると、彼はキーを挿してロックを解除すると少女を先に乗せて、彼は窓の雪を手で払った。そして運転席に乗り込むなり少女は、「外より寒くないこれ・・・」と両手をこすりあわせた。
「そのうち温まるから、それまでこれを膝にかけていなさい」と彼は後部にあった毛布を手を伸ばしてひっぱりだすと少女の膝の上に乗せた。
「痒くなりそう…」といいながらも諦め気味に少女は毛布をかけた。イグニッションキーが回されて、ドッドッと響くようなエンジン音が響いた。
「こんな煩い車初めて、これ、なんて言う車?」
「J54をレストアしたのさ」彼は、ギアをバックに入れてゆっくりと駐車場から車を出した。白い路面に、タイヤの模様が付いた。
「なんで、こんな古い車に乗っているの?燃料も無いのでしょう?」
「いや、ある処にはあるものでね、それに、俺の行きたい場所に行くのには、電気自動車じゃ用が足りなくてね」
「ふうん、こだわりってやつだね」ジープは、雪を両脇に跳ね飛ばしながらしずしずと走り出した。ワイパーが雪を窓の両脇にどかしてゆくものの、窓に脇に溜まってゆく雪はどんどん増えてくる。ヘッドライトには、目障りなほどに雪がちらついている。彼がラジオをつけると、毎日毎日流れて聞き飽きた季節ものの曲が流れてくる。行き来する車の少ない道の両脇では、きらびやかな電飾が雪に負けないように点いたり消えたりして、派手さをアピールしている。
「前は、他のにも乗っていたことがあったけどね、これに乗ったときにこれだと思ったのさ」彼は、赤信号に車を止めた。
「いいものに出会えたんだね、ボクも色々な出会いが欲しかったな」
「若いのだから、あるさ」彼は、アクセルを踏んだ。ギアをロウから上に次々に上げてゆく
「そうだね…」少女はふと口をつぐんだ。雪は激しさを増して吹雪のようになってきた。車の暖房も効き始めて車の中が温まってきた。時折ガラスが曇って、助手席の少女は気を利かせて、ダッシュボードに置いてあったタオルで曇り始めた窓を拭いた。ラジオの音と車の音しかしない狭い車の中で、彼は何を話せばいいのか考えあぐねていた。やがて少女の方が口を開いた。「次の信号を右」彼はうなずいただけだった。道には、雪の轍が出来ていた。その雪の轍を蹴散らして右折すると細い道の前を一台の赤いランプを回転させた車がサイレンを鳴らしながらもゆっくりと先行していた。サイレンの音からすると救急車だなと彼は思った。こんな雪に日に大変なことだ。やがて、救急車が止まった。
「あの車の止まった場所だよ。ボクの家」彼は、そこにある大きな建物を見た。
「病院じゃないか?」
「そう、ボクは今あそこに住んでいるんだ」
「抜け出してきたのかい?」彼は不安そうにいった
「というか、追い出されたんだ…」少女は、小声で言った。車を病院の敷地内にいれ、有料の駐車場にとめた。
「さて…」彼は、どうしたものかと思った。つまらない荷物を拾ったようだ。雪は横殴りに降りつづき、暖房が窓の雪を溶かしても溶かしてもそれ以上に雪は窓にぶつかってくる。白い影が3体いつの間にかライトの前に浮かび上がった。
「やだ!」少女は突然叫んで、彼にしがみついた。 「行きたくない!」
「なんだあいつら?」彼は、じっと雪の降りしきる外に立つ3人の姿をみつめた。痩せてのっぽ、と太ったのと、小さい影、いずれも黒いコートを着た老人に見えた。3人は車の前と左右に分かれて立った。
「おいで」と優しげな声が外から聞こえた。
「もう終わったから、来てもいいよ」
「なんだお前ら?」彼は、3人を見回しながら言った
「おや、私達が見えるらしい」と右にいた、ちびが言った。
「ま、そういう人間が居るのも珍しくはなかろう」と前に立ったのっぽが応えた
「おいで」と左にいたふとっちょが手招きをした。「ご両親に挨拶をしなさい」
「終わったの、もう苦しい体に戻らなくていいの?」
「悪かったね、辛い思いをさせて」ふとっちょは答えた。「君は、これから私達と一緒に登らなくてはならないよ」
「本当?ね本当に本当なの?」
「ああ、今度こそ大丈夫だよ。」
「やつらは何者なんだ?」彼は少女に聞いた
「お迎えさんって言ってた。死神なんだって」
「死神だって?」
「そう、新米の死神さんたち。だから何時も私、死んだり、生き返ったりさせられて、そして生き返ると凄く痛くて、苦しくて…だから、今晩は体に戻れないように遠くに連れられていたの、命の糸が切れたら私もやっと上に登れるからって、だからずっとあそこで待っていた。でも、両親の姿も見たくて見たくて…」
「おいで、さぁ挨拶に行こう」ふとっちょは、手を伸ばしてきた。その手は、ドアを突き抜けてまだ彼にしがみついている少女に手招きをした
「うん、ありがとう。おじさん」少女は、ふわりと彼から離れふとっちょのあつぼったい手をとった。そのとたん、少女の姿は半透明になり、さらに透明感を増して、ドアを通り抜けて上に上っていった。
(なんてこった…)彼は、ハンドルに体をもたらせて呟いた。雪は風の中で踊り狂いっていた。その雪の踊りをしばらく彼は見つめていた。やがて人型をした4つの白い靄のようなものが、ゆらりゆらりと上に上っていった。(そうか、行ったのか…)彼はハンドルから体を離すと、シフトレバーに手を置いた(まあ、どうせやる事もない夜だったしな)ラジオからは、ひたすら同じ曲ばかりが流れてきた。