彼岸花
澄んだ風が無数もの銀の穂を優しく揺らすと、はためく穂から綿毛に包まれた種子達が風に抱えられながら青い空の中に運ばれてゆく。涼しい大気の中はまるで薄の種で満ちているようだ。きつい傾斜の土手の法面には赤い花があちこちでマッチの炎の様に咲いている。その傾斜の上に腰を下ろして老夫婦が、お弁当を食べながら河の方をむいて歓談をしていた。偏屈ものの爺さんが、嬉しそうに小さい俵型のおにぎりを手にしては口に運んでいる。あの日から、この辺りを散歩する老夫婦の姿をよく見かけるようになった。晴れの日も雨の日もまるで残された時間をできるだけ二人で過ごそうと努力しているようにさえ思えた。
そんな僕の感想を口にすると、「案外そういう覚悟ができた方が長生きしたりするんだよね」と箒乗りが道端に生えている秋の草を摘みながら言った。何か怪しい薬を調合する気らしく、僕もそれに駆り出されて腰をかがめながら名前も知らない草の葉を毟っていた。
「何を摘んでいるのだい?」と老人が、僕らに声をかけてきた。以前の老人なら、妙な目付きをしながら睨みつけて黙って通り過ぎる状況のところを、優しく声を掛けてきたものだから、思わずどきりとして返事に窮してしまった。僕は箒乗りに目配せをして対応を頼んだ。いくら丸くなった性格とはいえ、こっちの苦手意識がそう簡単に消える訳ではない。
「いろいろと」と彼女は、笑みを見せて答えた。「ちょっと秋の花を部屋に飾ってみようかなと思いまして」
その割には、それほど花を摘んでいるわけでもない。彼女には余りにも不似合いな言い訳につい僕は笑いだしそうになるのを抑えていた。
「ふーむ、その紫の小さい花がかわいいね」と老人はさらに言った
「アキノタムラソウ」ですね。と箒乗りが答えると
「この辺りには結構生えていましたわよ」と老女が言った。その老女の顔を見た箒乗りは、なにやら訝しそうな表情をしてから
「ええ、結構生えていますよ」とうなずいた
「じゃあ、うちでもちょっと小さい花瓶に挿してみようかね」と老人が老婆に言うと
「うちじゃあ似合うような小さな花瓶がなくてよ」といらえが返ってきた
「じゃあ仕方ないから、曼珠沙花でも見ていようかね」老人は、傍らに生えているそれを見ていった
「ええ…」と老人の連れ合いはうなずいてから僕らの方を見た。「ごめんなさいねお引止めをしてしまって」
「いえいえ、どうせ暇ですから」と僕と箒乗りは下を見ながらいろいろな草をむしる仕事を再開した。そして暫くしてから箒乗りの動作が止まった。
「あ、白い曼珠沙華だ」と彼女は、腰を伸ばして指でさした
「うん、この辺りでは結構見かけるよ」
「ふうん、珍しくはないのか」箒乗りはどこかがっかりした様子だった。
「よそじゃ珍しいのじゃないかな?」と僕は答えた。以前ではあるが、こんな時期に登山をして降りた処が田畑の広がる村であり、その畦や山の端、水路の脇に沢山の真っ赤な曼珠沙華が生えており、その風景を狙って多くの観光客が右往左往をしていたのに出くわした事があった。その中のひとりが、僕が遠くからやってきたのを何かと勘違いしたのか「白い曼珠沙華を見つけましたか?」と訊いてきたのだった。ちょうど僕の住むあたりでは、それほど珍しいものでもないので、なにを珍しがるのかなと思っていいえと答えただけだった。
「ふうん」と箒乗りは、うなずいてから草で一杯になった籠を見て「十分かな」と言った。これでやっと僕も解放される。「ガマミズの実でもとってこよ」と歩きだすと後ろから「ガマズミの間違いだろ」と指摘された。「あ、そうだっけ?」とポリポリと頭をかいた。
「へぇ、ガマズミあるんだ」と箒乗りも僕の横にならんだ
「手伝ってやるよ」とにやりとわらった。こいつが同伴するとなると僕の取り分はかぎりなくゼロに近くになりそうだった。普通なら里山とかでみかけたりもするが、だれかが植えたらしく、住宅の真ん中を通る小さなせせらぎの遊歩道の脇にその木はあった。赤く小さい実をたわわに実らせて枝が重そうに見える。
「おやおやこんなにあるのだねぇ」と彼女は、次から次へと実をむしりとってしまった。そして手伝ってやるよの言葉を何処に置き忘れたのか、しっかし自分のもってきた袋に詰めてしまった。僕の取り分は、一握りだけの赤い実だ。その帰り道、箒乗りはふと思い出したように唐突に僕の肩をぽんぽんと叩いた。「ちょっと訊いていいか?」
「なんだい」と足を止めると。「いや、川原の土手にいた老夫婦の婆さんだけど、ずっと爺さんと一緒だったのかい?」
なんでそんな事を訊くのだろうと思いながらも「いや、若い頃に逃げ出した奥さんが今になって戻ってきたらしいよ」と答えた
「ふうん」と彼女は、うなずいた。
「なにかあるのかい?」訊いても言わないだろうなと思いならがらも僕は、敢えて訊いてみた
「いや…」と思ったとおり彼女は首をよこに振った。「知っている奴に似ていると思ったが、勘違いみたいだ。」
そうして、僕は家に戻り僅かなカマズミを焼酎に漬け。赤く綺麗にそまった果実酒が出来るのを待った。
その酒がようやく色づきだしたある日、一日中野わけが僕らの町を駆け巡り、枯れ草が空に舞い上がり、電線が鳴き、どこかのトタンがバタバタと音を立てた。朝には晴天になったものの、あたり一面はどこからか飛んできたものが散らばっている。吹き溜まりが出来やすい場所には、うずたかく枯葉が積もっていた。そして何故か一匹の大きな鶏がうろうろしていた。怖そうな面構えといい、大きさといい、きっとこれが軍鶏というやつだろうなと思った。放っておけば、そのうち飼い主が探しにくるだろうと思って部屋に戻ったが、大家さんが部屋にやってきて怖いから、なんとかしろと言う。
「警察に電話したほうがいいとおもいますけど?」と言えば
「こんな有様でさ、手一杯でそれどころじゃないみたいだよ」どうやら大家さんとしては、電話済みらしかった。
「それに子供でも襲われたら大変だよ」と大家さんは心配そうに言った。
「でも僕だって怖いですよ。」
「それでも男かい、真ん中にぶら下がっているちんちんは風鈴か?」所詮、店子なんて立場が弱いもの僕は、さもいやいやそうにうなずいた。
「でも、どうやって捕まえればいいのですかねえ…」
「うちに、古い毛布があるからそれで包んでしまいな」と家に戻ってぼろぼろになった毛布を持ってきた。毛みたいのが一杯付いているのを見れば、犬か猫のお休み用みたいだ。軍鶏は、結構疲れきっているのか、逃げることなくあっさり毛布に包まれた。そしてそのぼろ毛布を両手で抱えながら交番にゆくと、ふうせんかずらの爺さんの連れ合いがうなだれて椅子に座っていた。その言葉がよわよわしくも聞こえてくる。
「ええ、今朝起きたら死んでいまして…」
「救急には電話しました?」
「いえ、かかってくる相手ももう居ないからって、電話を解約してしまって、今は無いのです」
「…」若い巡査は、呆れたような表情をしてみせてから受話器をとった。
「お宅の住所は?」と訊かれて、老婆はゆっくりと住所を口にした
「はい、救急車をお願いしたいのですが、住所は…」巡査はゆっくりとした口調で受話器に向かって話していた
「えーと、村杉 厳蔵さん宅です。奥さんの話だと、今朝方亡くなったそうですが、私も行きますので、はい宜しくお願いします」
「違うんです」と老婆は、小さい声で言った
「え?何か?今パトカーを前に回しますからちょっと待ってくださいね」若い巡査が立ち上がって、壁にかかっているキーを手に取った。
「違うんです」と彼女は少し大きめの声でいった
「なにが?違うんのです?」巡査は驚いたように彼女を見た。
「私は、あの人の奥さんなんかじゃない」
「え・・・?」と思わず巡査と僕の口から声がもれた。それでやっと僕の存在に気が付いてくれたらしい
「なにか?」と僕を見る巡査は、また変なのが来たというような目だった。たしかに僕は、ぼろぼろの毛布を両手に抱えているし、その毛布といえば身動きをしているのだ。
「軍鶏がどっかから逃げ出したみたいんなんで、捕まえてきたのですけど」
「軍鶏?なにそれ?ちょっと待ってててね、村杉さんの方を先に済ませるから…」
「あの人、私の事を奥さんと間違えて…私も行くところがなくってついついあの人の家に身を寄せてずるずると居ついてしまったんです」
「…ああ」と巡査は、続けて天災が訪れたような気になったみたいで、僕と老女を交互に見てから。僕に軍鶏を奥の小部屋に入れてくれと言うと、老女に詳しい話は後で訊きますからと、言ってキーを持って出ていった。軍鶏を奥の小部屋に毛布ごと置くと、暴れる事なく横にばたんと倒れた。凶暴とも思える姿が普通の鳥の姿に見えた。飼い主が現れたときになんて言ったらいいのだろう、と僕は一瞬とまどった。とりあえずあの巡査に言っておかねばと思っていると、ミニパトが音もなく前にとまって、中から若い巡査の声で老女にむかって乗ってくださいと声をかけた。彼女は、静かに車の後部席のドアをあけて中に入った。そしてそれが彼女の姿をみた最期だった。
その晩、通夜があり、近所の人々は行ったらしいが、話しに聞けば親戚は誰一人現れず、葬儀が個終わってから老婆は唐突に姿を消してしまったとのことだ。
*
「あれは、たぶん彷徨人だよ」と箒乗りは言った
「さまよいびと?」
「そう、遠い昔に住んでいた宇宙を追われて、ひたすらさまよい続けている女性だよ、あのとき似ているなぁって思ったのさ、昔はもっと仲間が居たらしいけれど、今残っているのは彼女だけさ、その彼女もいまはほとんどどこかの時間停滞空間でゆっくり眠っては、時折どこかの宇宙を徘徊しているみたいだね。でも歳が歳だけに今はめったに通常の宇宙に現れることも無いと聞いているとよ」
「放浪しているのはあんたも変らないみたいだけど」と僕がいうと
「いや、違うな」と箒乗りは首をふった
「彼女は、人とのつきあいを極度に嫌うんだ。今回みたいに一所にいるのが異常だ。」
「なんでだろうね」
「逢えば、別れも経験しなければならないからね、彼女ほど多くの別れを経験した女性も珍しいだろうな、だから彼女は人と深い付き合いになるのが嫌なのさ、私なんか、あっちこっちの人間関係にどっぷり浸かり過ぎているくらいだ。」
「でも、別れはやっぱり寂しいよね」
「それはそうさ、でもな」と箒乗りはふっと長い指の手を僕のほうに伸ばして僕の頬をそっとなでた。思わず胸がどきりとした。彼女の顔がぐいっと近づいてきて息が顔にかかる。そして頬をすり合わせながら耳元でささやいた
「こうしていじっている間は、もっと楽しいからの」と笑いながら身を離してしまった。
「俺はおもちゃか?」と僕はむくれていった
「まぁまぁ、お前さんもまた、私の大事な友人さ」と言ってから、ふっと目を宙においた
「でも、あいつには永遠に友人なんてできないのさ」
「かわいそうだね」と僕はうなずいた
「いや、それでもそれが彼女の選んだ生き方だ。」
「でも、あの爺さんの持つ孤独に、自分の姿をかいま見たから暫く一緒にいたのかも知れないよ」僕は、ふうせんかずらの怪談話を思い出した
「互いに寂しさを埋める相手が欲しかったんだよ」
「そうかも知れない、でもな第三者の私達が憶測しても、私達の狭い人生経験からしか語れない以上、彼女や爺さんがどう思っていたかなんて分かることは出来ないのさ」
「だけど、良い方に考えてあげたいじゃない」
「そうさな、あんたは本当に人がいいな」そして箒乗りはそっと僕の頬に唇をあてた。「だからいじりたくなってしまうのさ」
ドアがノックされて、バイオリン弾きが入ってきた。片手には一升瓶を握っていた。
「よう、もう飲んでいるのかい?袖触れ合うも多少の縁ってな、爺さんの成仏でも祈って一杯やろうとおもって、酒を持ってきたぜ」
「いいねぇ」と箒乗りが満面の笑顔で応えた。
*
やがて、霜が降りる頃になって。老人の家に多くの重機が集まって家の解体が始まった。老人の非常に遠い縁者が、遺産を継いだものの、直ぐに売り払ってしまったからだ。数日に内に建物は姿を消し。更地にするために植木も掘り起こされた。ちゃいろい実を付けたままぶら下がっていたふうせんかずらの実もどこかに捨てられたのだろう。その数日後の朝。初雪が舞い降りてきてとても寒い朝だった。その白い景色に身を震わせまた布団に戻ってうつらうつらした僕の耳にパトカーのサイレンが聞こえて、近所でそれが止んだ
なんだろう?と思って半纏を羽織って出てみれば、かつての老人宅の周りにパトカーや救急車が止まっていた。周りにはいつの間にかブルーシートで囲われ、さらにその周囲を人垣が十重二重に囲んでいた。僕は、後ろで何度もジャンプをしたり、人に聞いてみたりもしたが、誰も何が起きたのかわからなかった。
やがて新聞の隅に、老人宅の庭から白骨化した若い女性のものとみられる死体が発見されたとの記事が載った。