吊り橋
僕は、見知らぬ山奥にある駐車場の端に立っていた。そこからは眼下に黒々とした湖を見下ろすことができた。この駐車場に置いてある車は、ぼくらが乗ってきたのジープに他に窓ガラスが割れた廃車にしかみえないピックアプトラックが一台きりだ。
辺りは既に日没を迎え、ジープのヘッドライトが消えると、唐突に闇が辺りを覆った。続けて単調に響いていたエンジン音がピタリと止まると、夜の静寂の中に鳥や虫の声が響き渡る。
「さて、行ってみようか」とバイオリン弾きがジープの荷台からふたつの懐中電灯を取り出して灯りと灯すと僕を促した。
「本当に行くの?」僕の声は冷静を保とうとしているものの、恐れに震えているのが自分でも良く分かった。
「大丈夫さ」バイオリン弾きは、僕の声の中にある恐怖を聞き取ったかのようにゆったりと言って僕の脇に来ると、懐中電灯を手渡してそのまま先頭をきって歩きだした
「・・・」と僕はうなずくと、彼の背を見ながら駐車場の湖側の隅から始まる細い山道に足を踏み入れた。小枝を踏む音、虫の声、鳥の声、カエルの声、そして聞いたことも無いほどに不気味な動物の鳴き声が僕らを囃し立てるように、警告を発しているように聞こえた。そして懐中電灯に照らされない無垢な闇は厚い衝立のように立ちはだかり僕らにこっち来るなと沈黙の圧力をかけているように感じた。空もまた暗く、星は無く、月は霞みに覆われていた。
なんでこんな不気味なところに来てしまったのだろうと、後悔の念が脳裏を過ぎった。そもそもそれは先日の事、僕が近所の爺さんの家で起きた不可思議なふうせんかづらの話を彼にしたことから端を発する。
「実はちょっと怖い噂話があってねと」僕が、大家さんから聞いた話を、やや脚色して話してあげると。
「面白そうだな」とバイオリン弾きが身を乗り出してこそこそと僕に「今夜辺り庭をこっそり掘ってみないか?」と誘った
「そんなことをしたら、立派な犯罪じゃない」と僕はつっぱねた「嫌だよ」
「大丈夫、大丈夫、発明家にでも音のでない穴堀機でも作らせればいいさ。やつなら直ぐに作ってくれる」とやる気満々の有様で半腰をあげた。
「あのさぁ、実はこれには、他に話があるのさ」僕は、大家さんから聞いた話をそのまま始めた
「なにさ」
「あの、爺さんはこの辺りでも有名な変人でね、そして堅物なんだ。」
「けっこう嫌われるタイプみたいだな」
「全くその通り、あんなアバラ屋に住んでいて、それでもお高くとまっていてね、性格が性格だから、実は奥さん男を作って駆け落ちしちゃったんだよ。でも、そんな世間体の悪いこと言えるかってことで、どうも失踪届けを警察にしちゃったらしいのさ。」
「ええ~っほうっておけば死亡扱いにされるんじゃない?」
「まぁ、そこはなんとかちゃんと解決されて、離婚は出来たらしいよ。でも爺さん本人はあくまでも奥さんは失踪したままって事にしているし、回りじゃ他の男とどこかで住んでいるらしいよってことくらいは知っているけど、まぁそこは近所の方々は知らぬ振りをして通しているんだって」
「じゃあ、そんな殺したって噂話なんか、なんで今更出てくるんだ?」
「さぁ?新しく転居してきた若造とかが作ったのじゃないかな?」そういわれてみれば変だなと僕も頭をひねりながら答えた。
「まぁ、どうでもいいが、そんなオチじゃ怖くないなぁ」
「まぁまぁ…俺の怪談話なんてそんなものだし」
「いっそ、気分直しに肝だめしに行ってみないか?」バイオリン弾きがにやりと笑った
「え、俺そういうの苦手だけど」と僕は、断った。
「だめ、怖い話をしくじった罰だ。」といきなり立ち上がった。そして小さい声で独り言のように付け加えた「丁度確かめたい事もあるしな」
*
そんなわけで、こんな鬱蒼とした夜の山道を二人きりで歩いている。道の脇には一本の標識があった。”奥澤ヲ経テ六頭山へ”という字が風雨の影響でかすれているためにかろうじて読める程度だ。するとこの道は登山道として使われていたのだろう。暗い夜道をほとんど自分の足元ばかり見ながら、先導するバイオリン弾きの後を付いて歩いた。時折、道が崩落した跡がいくつかあり、そこで下り斜面側に転んでしまうと、そのまま転がって湖の中に落ちてしまいそうな気がする。それ程崩落した場所は湖に向かって木が一本も生えていない。
歩いたのは10分くらいだろうか、ふと前を行く彼の照らすライトが湖面に向かい、そこから上にあがっていった。そして弱くなった灯りの中に一本の吊橋が僕に目に止まった。
「あれだ」と彼は、足を止めて僕にその橋を良く見せようとしたのか、湖の反対側からこちらの見える範囲までゆっくりと灯りを当てた。
「あの橋?」
「そう、あれで向こう側に行って戻ってくる。それが肝だめし」そういうと彼はまた歩き始めた。道はその橋の袂を目指しているらしく、急な登りに変わった。
「そんなものかい」てっきり墓場や廃墟となった家屋でも徘徊してくるものだと思っていただけに安心した。
「そんなものさ」彼はふと立ち止まって、振り向きざまに懐中電灯の明かりを下から上に向けて自分の顔を照らして「でも出るんだよぉ」と付け加えた。しかし、そのアクションはむしろ滑稽に思えた。
「ほら前に白いものが…」と僕がいうと、彼は一瞬氷ついたようになって、僕の顔をじっとみた「本当か?」
「嘘さ」僕はペロンと舌を出して答えた。本当にいたら悲鳴を出して真っ先に逃げるのは僕に決まっている。
「だよな、ここじゃあり得ない」彼は、頭だけ振り向いて、進行方向に灯りを当てて何もないことを確かめた。
「とりあえず、さっさと行って、早く帰ろうよ」
「いや、帰れるかどうか…」と今度は僕の後の方の指をさした
「来た道を、何か沢山付いて来ている」
「またまたぁ」と言う傍から、パキ、パキっと枝を踏む音が聞こえてくる
「沢山?」
「それほどでもない、2,3ってところだな」パキッパキパキ…枝を踏む音、枯葉をかさかさと踏む音は序所に後ろから近づいてきている
「い、行こうか…」僕は、後ろを振り向く事もできそうにない
「そうだな」と彼が僕の肩越しに灯りを後ろに向けると、ガサガサっと言う音がいくつも斜面を登って行った。
「これで、暫くは付いてこないだろう…行くぞ」という彼の口元が笑っているような不思議な形にゆがんだ。
闇の中を二人の足音が響いている。その前と後ろでは、僕らを囃し立てるように夜の虫達がざわめき、左右ではじっと息を潜めて僕らが過ぎたらまたおしゃべりを始めようと手ぐすねひいて待っている。湖のどこかで水のはねる音も聞こえた。汗が額から垂れ、顎からしずくとなって落ちる。背中はシャツと肌がぴったりとくっついてきて気持ち悪い。杭と板で作られた階段を上がるときに一瞬めまいを覚えた。日ごろの体力の無さということだろうが地面が揺らぐような不思議な気分に、思わず一瞬立ち止まり。息を整えてから階段に足をかけた、足が重い、異様とも感じる程に体が重くて体が前に進まない。前を行くバイオリン弾きも息をあらげていた。互いに言葉をかける暇もなくただ無口なまま階段をあがる。その階段を上りきったところに吊橋がかかっていた。ライトに照らされたその橋の桁は50センチほど、上を見れば貧弱そうなメインケーブルが、山の岩盤に打ち込まれそれが弓なりにそって向こう岸へと続いている、そして橋の両脇には落下を防ぐ為なのか、高さが2メートルほどの金網が張ってあった。向こう岸の中にぽつんと小さな灯りが見えたような気がしたがそれは直ぐに見失ってしまった。
「2年前かな」とバイオリン弾きは、橋の袂で足を止めて向こう岸を目を細めながら見た。
「やはり、肝試しに来た学生達が5人居てね。一人づつ向こう岸に渡って戻ることにしたのさ、それで先ず一人目が渡ると、向こう岸から大きな声でこっちに来いよって呼ぶ声がする。こんな月も雲で隠れるような暗い夜だったから、姿が見えないけれど、反対側で懐中電灯をくるくる回すものだから、じゃあ様子を見てくるって2番目の奴が渡ったのさ、すると同じ様にやっぱり来いよと呼ぶ声がする。同じ様にして最後の奴が渡って橋の半分も過ぎた頃、こっちこっちと声がするのさ、しかも前からじゃあなくて、後ろからなんだ。なんだと振り向いてみれば、先に渡った仲間達の頭がころころと転がりながら、さっさと渡れ渡れといいながらケラケラ笑っているのさ、驚いて向こう岸に行こうとすると、そこには大きな刀を持った武者が待ち構えている始末でな、そいつはおろおろしながらも、必死になって金網をよじ登ったんだ。するとその足元には、頭がどんどん増えて集まってきて、さらには積み重なりながら迫ってきてな、彼もとうとう金網の一番上までよじ登ってもう行き場もなくなってしまったのさ、そこへ一つの女の頭がぽんぽんと弾みながら飛んできて、彼の耳に噛み付いたんだ。「ぎゃあと」そいつは悲鳴をあげながら、湖の中にどぼん。運良く、湖は十分深かったかし、そいつは泳ぎは達者だったから、岸まで泳ぎついたのさ、しかし岸にあがってみれば、彼の仲間が橋のたもとで騒いでいるのさ、ちゃんと首も胴とつながっていてね。「無事だったのか」と奴が言うと、彼の仲間達は「なんでお前だけ一人で先に行くんだよ」ってぬれねずみになった奴に言い返したらしい「それになんでそんなに濡れているんだ?」と聞くので彼は、橋の上で起きたことをつぶさに話したそうだが、どうやら彼一人だけ仲間より先に前に進んで行ってしまったってことらしい」
「か、帰ろうか」と僕は身震いをして言った
「怖さついでにいえば、なんで橋の両脇に金網があると思う?」
「落ちないようにする為だろ?」
「それにしては不自然なほどに高いところまで貼ってあると思わないか」
「それってひょっとして、自殺?」
「そう、昔からこの湖は身投げの場所としても有名でね、昔は女衒が言う事の聞かない女の子を此処に捨てたり、飢饉で口減らしのために、老人とか子供とかを沈めたってことだ。橋が出来てからは、飛び込む人が数知れずいたらしいな」
「やっぱり帰ろうよ」僕は、腰がひけてしょうがなかった
「大丈夫さ、噂かどうか行ってみればわかる」とバイオリン弾きは僕の背中をポンとおした
「さぁ、行ってみようか」
「ちょっと、やだよう」
「じゃあ徒歩で帰るんだな、行かないなら帰りの足は無いと思え」
「そんな殺生な」
「じゃあ、行け!」もうこの世には鬼と幽霊しか居ないとしか思えなかった。バイオリン弾きってここまで怖い性格だったかと僕は考えた。
僕は左右にゆらりゆらりとゆれる橋に足を置き、片手で橋のロープを掴みもう一方の手で前を照らしながらゆっくりと進んだ
一歩進んでは、後ろを向いてバイオリン弾きの姿を何度も何度も確認した。橋は一歩ごとに音をたて、生暖かい風が僕の頬をなでた、山奥というのに涼しい気がちっともしない、汗がじわじわと体中から沸いてきて、ここまでの過程の汗で湿っぽい服が更に重くなってきた。
キー…キー…と橋が鳴る。
はるか眼下の水面で何かが跳ねる。湖の中をぼんやりと光りながら蠢くものが見えた。
向こう岸で何かが光ってそしてさーっとどこかに行き、またあらぬところで光りが見えた。
足がすくむ、一歩、一歩が重い。落ち着こうとゆっくり息をするつもりでも、直ぐに荒い息に戻ってしまう。
懐中電灯で向こう岸を照らすと、ぼんやりと一体の地蔵のようなものが浮かび上がって見えた。
そして黄色っぽい灯りがふわりと向こう岸の左手に浮かびあがりそれがゆっくりとその地蔵に向かって移動している。
懐中電灯をむけるとそこに人影らしいものが現れ、それが歩いている。
幽霊にしてはおかしい、なにかのまやかしだろうか?僕は後ろを振り向いた、しかしバイオリン弾きの姿は闇に埋もれて見えない
何かあれば、きっと彼がなんとかしてくれるだろう。僕はそう信じるしかなかった。湖の上を光の帯がふわりと流れていった、あるいは湖の主のような大きな魚が鱗を輝かせて泳いでいたのかもしれない。
ようやく、再び地面に足を乗せると、提灯を持った老人がそっと灯りを僕に向けた。「おや、なにか御用で?」しわがれた声だが妙に優しげなイントネーションだった。大きな口と下膨れの顔のせいかどことなく蛙に似ている老人だなと思った。「あ、いえ。ちょっと肝だめしで…」と僕は怒られやしまいかと、はらはらしながら答えた。
「ああ、そういう話で来る人がたまにいますよ」と老人はふぉふぉと笑いながら言った。「でも、生憎とちょっと回りが不気味なだけで、何も出ませんよ。でも、もう暗いから足元に気をつけてお帰りなさった方がいいでしょう。」
「はい、そうします。でも連れも来ますので」懐中電灯の明かりが、足早にこちらに向かってくる
「おやおや、あれは確か」と老人は何かを思い出すように頭をかしげた
「久しぶりですね」と僕の背後から声がかかった
「全くだ、こんな噂でも流れないと来やしない」老人は、笑いながらいった。
「やっぱり」バイオリン弾きは、僕の横をすり抜け老人の前に立ち右手を差し出した。その手を老人は両手で握った
「本当に良く来たな。まぁ、こんな処で立ち話しをしても仕方ないから、こっちにおいで」
奇妙な展開の流れに僕一人だけ取り残されたまま、自分がここに居ることを二人に思い出させる術も無く、ただ山の中の闇を懐中電灯と提灯の灯りで切り裂きながら歩く二人の後ろを僕は黙って付いていった。
*
九十九折の細い道を僕らは一列になって歩き、やがて鳥居に似たひとつの門をくぐると、道は広くなり。懐中電灯の明かりを左右に回すと古びた家屋が長屋の様に並んでいるのが見えた。
「こんな処に邑があるなんて」僕は道に行く手にあるものは小さい山小屋程度のものが一軒だろうと思っていたので、道を挟んで5棟程度の家屋があるのをみて驚きを隠せなかった。すると住人は皆あの橋を渡り、山道を進んで町と往来をしていたのだろうか、するとえらく難儀なことだ。
「いや、これはハリボテさ」とバイオリン弾きは、僕の方を振り向いて答えた
「はりぼて?」僕は鸚鵡返しに言った「暗いけど、普通の民家みたいだな」
「普通の民家さ、みせかけのね…」
「意味分からないよ」
「直ぐに分かる」前を行く老人は、提灯の灯りを一軒の家屋の引き戸に当ててから、灯りをバイオリン弾きに持たせ、たてつけの悪そうな戸に両手をかけて引いた。戸はぎしぎし、かたかたと音を立てながら開いていった。バイオリン弾きは灯りを老人に返し、僕らはその家屋の中に入った。埃の匂い、じっとりとする湿気の強い停滞した空気、灯りの中で時代激のセットのような古臭い土間がそこに浮かんだ。乾いた土の地面をカマドウマやザトウムシが灯りを嫌って逃げて行く。薪を焚く竈の上には黒い羽釜がどっしりと置かれていた。石板を組み合わせて作ったようなシンクには蛇口はなく、その下に大きな甕が置いてあった。その甕の上には、長い柄の杓が乗っていた。こんな辺鄙なところだけにガスも水道も電気も無いのだろう。それにしても古すぎる、こんな設備は、古い民家を集めた屋外の博物館か、映画のセット以外にはなさそうだ。そしてこう風雪にあいながらも、これらの設備が壊れていないのが不思議だった。最近までこんな不便な生活をしていた人々が此処に住んでいたのだろうか
僕らは、土間からそのまま膝くらいの高さのある、あがり框からあがった。畳は柔らかく今にも床が抜けそうに思えた。茶箪笥やら、仏壇やら、ちゃぶ台やら、どれをとっても古臭い。
老人は、すすけた押入れの戸をがたがたと鳴らしながら開けると中からどてらを3枚取り出して2枚を僕とバイオリン弾きに渡した。この夏の最中に着れということなのかとぼくが躊躇っている間に二人はその厚く綿の入ったどてらうをさっさと羽織った。
「着ないと死ぬぞ」と老人が僕を促した。なんでだろうと、思いながらもそれを羽織ると蒸し風呂に入ったような気がした。それほどに暑い、直ぐに体中の汗腺から汗が噴出してした。老人は、僕の姿を提灯で照らしてから「よしよし」と言って隣の部屋との境の襖を開けてその中に入って行った。しかし、それが入ったと言ってよいのか分からない位、老人の姿と提灯の灯りは闇にでも飲み込まれたように突然消えてしまったからだ。
「お前が先に入れ」とバイオリン弾きが脇にどいて僕の背中を押した。
懐中電灯でそこに灯りを入れても、何も見えない。明かりがどこにも届かないかのようだ。一歩だけ踏み入れると足元がしっかりしているのが唯一の安心だった。
「大丈夫かい?」と振り向いて言うと。「気にするな」とバイオリン弾きが答えた。僕はおそるおそる闇の中に次の一歩を踏み入れそっと歩きだした。頬に冷気が当たった、それは酷く暑い思いをしていただけにしばらくは気持ちよく思えたものの、一分も経たない内に辺り一面が異常な寒さに覆われていることが分かった。前にひとつの小さい灯りが揺れて見えた。それを目指して行く僕の息が白く凝り固まって遠くに流れてゆく、それにしても隣の部屋は大きな冷凍庫だったのだろうか、辺りを灯りで照らすと壁の代わりにいくつもの家屋が目に入った。そのどの家屋も軒に氷柱を下げている。驚きに足を止めたが、同時にこれに似たような感覚が壊れかけの記憶の中から呼び戻された、ジャックインして仮想空間に入った時のような、唐突に世界が変わるあの感覚だ。
「ここは?」僕は前を行く提灯を持った老人の背後から訊いた。
「かつてのバザールさ」老人は振り向いた。
「バザール?」
「いわば、交易所みたいなものさ」後ろからバイオリン弾きの声がした
「興味を持つのはいいが、ここで長話をすると凍え死ぬぞ。行こう」
「全くだ、こんな寒いのは初めてだよ」僕は、頷いたうなずいた。全てが凍てつき、音さえも僕らの足音以外に聞こえない空間を僕らは黙って先を急いだ。
そして、ようやくひとつの家屋の前にくるとそのドアを老人は開けて中に入った。続けて入った僕の耳は、思わぬざわめきと、むっとするような人いきれを感じた。そして、天井からは灯りが照らされていた。ドアの先はくだりの階段になっていた。その下った先のドアをあけると、一気に人々のざわめきがなだれ込んできた。
「おー、来た来た。」誰かが言った。
「久しぶり!」とバイオリン弾きが前に出て挨拶をした。ホールのような場所に多くの人々がひしめきあっているように見えた。しかし、それはまるで幽霊のパーティの様に、各自の姿は互いに透過しあっていた、そして僕の体もまた誰が通過していった。
それでも、声は反響しあい、木霊のように方々から聞こえた。
前を行く老人は、自分の体を透過いてゆく幽霊達に目もくれずに先へと進み、そして既に幽霊が座っている椅子にどっしりと腰を下ろした。きっとホログラムのようなものなのだろうと僕は思って老人と同じテーブルについた。周りを見回しながらゆっくり歩いていたバイオリン弾きが最後にテーブルについた。 「沢山来たみたいだな」とバイオリン弾きが言った。
「ああ、多分あんたで最後だ。」老人の声は静かだった。「そしてここのドアも閉めておしまいだ」
「直接連絡してくれればよかったのに」とバイオリン弾きは不服そうにいった。「こんな閉じた宇宙で回り続ける光りの残像ではなくて、本物にも逢えただろうに」
「あんたの様に流離う奴にどうやって連絡をつけろというんだい」と老人はやりかえした
「仕方無いからあちこちの通路について怪談話をでっちあげてみたのさ、あんたなら分かるかと思ってね」
「確かに連絡つけられないな…今は、こいつの居る宇宙に居るのさ」と彼は僕の肩をポンと叩いた
「商人かね?」と老人は訝しそうに僕をみた。
「いや、ちょっと連れてみたくなったのさ、この宇宙の有様を見せにね」
「宇宙か…」老人はふと上を向いた「もう此処は、熱的に死んでしまった、見せるものは無い」
「そのようだね」とバイオリン弾きは言った。「この場所だけはなんとかエネルギーを供給できているみたいだけど」
そう言っている間にも僕らの周りを幽霊のような影が通り過ぎてゆく
「そうさ、機械達が情報をここに集積しているからね。人為的に熱を奪いながら恒星の圧縮をしている」
「機械が?」僕が訊くと老人は首を横にふった「知ってどうする?ここを元に戻せるのかね?」
「彼はここの管理者だ、最後の別れのために俺を呼んだに過ぎない」バイオリン弾きは僕に言った
「それもあるが、君がきたら渡そうと思う物があってね」老人は、立ち上がると多くの影を気にする事なく、ホールの隅にあるバーカウンターの棚にある幾つももの瓶を脇に寄せて奥にあった包みをひとつ取り出した。それを片手に持って戻ってくるとテーブルの上にそっと置いた。
「なんだい?」とバイオリン弾きが訊くと「開けてごらん」と老人は笑みを浮べて答えた。
包みを開けると中から出てきたのは、白い音叉のような形をしていた。「こ、これは」バイオリン弾きの声が上ずっていた。
「そう、クリスタル鯨の声帯の周りの骨だよ。昔、君の仲間が酒代代わりに置いていってね。こんなのがあっても、私に弾ける訳がない」
「私にも弾けるかどうか・・・」と、バイオリン弾きはそっとそれを手にとって指先でなでてみせた。すると、僕の耳に何かやわらかな音が入り込んでくるのがわかった。
「いや、十分に弾けているよ」老人は嬉しそうに言った
「何、それでも楽器なのかい?」と僕が訊くと、バイオリン弾きは頷いた。「楽器ともいえるが、むしろ精神共鳴機と言った方がいいかもしれないね。この多元宇宙を旅する動物でね、クリスタルのように透明な生き物なのさ、そして仲間と連絡をとるのがこの声帯の一部でね、はるか遠く宇宙に居ても一種のテレパシーのような、あるいは、量子の共鳴のような現象がこの器官を通して起こるのさ、もし僕がこの楽器を操作できれば、音だけでなく、心まで伝えることもできるのさ」
「じゃあ、それがあれば、遠くにいる仲間達にも連絡ができるんだね」
「まぁ、そうだな、しかしそれだけじゃ、逢えないのさ、皆が聞きたがるような美しい歌でないと誰も興味を示してくれない」
「でもなんでも十分上手にこなすから大丈夫じゃない?」と僕が言うと
「この楽器は技巧で弾くんじゃないんだ」と彼は再びすっと楽器を撫でた「より純粋な心に反応するんだ、旨く聞かせたいとか思うと、そういう思いしか伝わらないのさ、俺にはまだまだだ」
「いずれその時がきたら聞かせてもらうよ」と老人はにこにこしながら言った
「ええ、風の便りにでものせましょう、貴方ももうここを発つのでしょうからね」
「そうだな、こんな死んだ宇宙には居られないからな、どこかに行ってまた商売でもするさ、でも何処にいても、その楽器を使いこなす奴が居れば口伝えにどこまでも伝わるから分かるさ。」
「貴方の流した怪談話よりはきっと早く伝わりますよ」
「いやいや、言わないでくれ、これは失敗だったよ。普通にネットに流せばよかった」
「本当に、でも間に合ってよかった」
「そうだな、あと数時間もすれば居られない程になるだろう。まぁ最後といってはなんだが」と老人は再び席をはずし、カウンターの裏に行ってから一本の瓶と小さいグラスを3個を持ってもどってきた
「少なくはなったけれど、一杯づつ位はあるだろう」と瓶の中身を小さいグラスに入れた。血のように濃い赤、そして甘い香りが漂った
「夢魔の血」バイオリン弾きはつぶやくようにいった
「貴重だろ」老人はにやりとわらって口をつけた
「甘い夢の香りと燃える心さ」
僕もそっと少しだけ口をつけた。甘い花の香り、蜜のような甘さ、それが口いっぱいにあふれて鼻腔からふわりと出てくる。それもつかの間、その液体は喉を焦がし、胃を焼いた。
「70度以上はあるからなぁ、普通ストレートで飲まないぞ」バイオリン弾きはそういいながらも、ちびちび飲んでいる
「もっともこの寒さじゃ、これぐらいのでも飲まないと血が凍るな」
「夢魔の血って」僕は、以前部屋の中を漂っていた赤いセロハンみたいのを思いだした
「そうそう、夢魔さ」老人は、そっとグラスを持ち上げそれを灯りにすかしてみた。「数十年に1度夢魔は、増殖して大きな粘菌のような形になるのさ、それを収穫して作った酒だ。」
「数十年に1度だって?」僕は驚いた、それだと、非常に貴重な品物じゃないか
「貴重品さ、でも口にすべきものは、味わってこそ価値があるんだ、飾っていても意味はない。そして今宵こそこれを飲むにふさわしい夜もないさ」
老人は、笑顔をみせて残りを一気に飲み込んだ。「さぁ、あんたらも残さずに飲むことだ。残念ながら味わっている余裕は無いけどな」
遠くで、何か大きな音が聞こえた。僅かにテーブルが揺れた。僕は不安そうに老人を見た
「建物の中に含まれる水分が凍ってな、それが原因であちこちに亀裂を生むのさ、さらに時間が経てば全てが壊れる」
老人は、天井を見上げた。灯りの中を埃がきらきらと輝きながら舞い降りてきた。「思ったより早いな」と小さい声でつぶやいた
「さぁ、お開きにしよう」と老人は椅子から立ち上がった。
僕とバイオリン弾きは残りの赤い酒を飲み干した。
「いずれ」とバイオリン弾きは手を差し出した
「そうだな」と老人の手がそれを握りかえした
僕らは、店を出た。もう寒いってレベルではなかった。痛いって感じがした。
「私は、別の出口からでるからね」老人はそういって、ライトをもって僕らに背を向けた
*
無事に廃屋にもどってくると、思わぬほどの暑さで汗がどっと噴出してきた。
「あちぃ」と思わず悲鳴をあげて、どてらを脱ぎ捨てて外にでると、廃村は霞のようなもので覆われて、懐中電灯の灯りで靄は更に白く輝き各々の家屋はおぼろげな輪郭しか分からない。
「行くぞ」とバイオリン弾きが僕の肩を叩いて先を歩いた。
「まって」と直ぐにその背中にくっつくように僕は彼の後に続いた。次第に靄は薄れ橋のたもとでは靄は一切なかった。水面を魚が跳ねる音が聞こえた。 「お前が先に渡れ」と彼は僕を促した。幽霊話が流布されたただの話と分かれば特に怖いものはないから気にせずに僕は頷いた
狭い釣橋はゆっくりと揺れながら僕を対岸へと誘ってくれた。後ろからバイオリン弾きがあの楽器に触れているのか、ほっとするようね音色が流れてきた。それを聞いているだけでも安心していられそうだ。前の方から誰かが近づいてきた。白いブラウスを着たミニスカートの女性だった。一瞬幽霊と見間違えたが、きちんと足もあったし、気にせずに互いに左右によってすり抜けた。ほのかな、香水の香りが鼻腔をくすぐった。きっと幽霊話に乗せられて来た女性
なのだろう、対岸から沢山の人の話し声も聞こえた。そしてぼわっと幾つかの灯りが固まっている。どうやらランタンのようだった。やがて僕の灯りに気が付いたのか、声がふっと止んだ。
対岸に着くと誰もいない、どこに行ったのだろうと辺りを見回しても、夜の虫達の喧騒しか聞こえない。ただ闇がどこまでも広がっているだけだ。やがてバイオリン弾きがなにやら悪態を付きながらやってきた。
「女性に会わなかった」と僕が訊くと
「ああ、来たよ」と彼はぶすっと答えた
「残留思念が凝り固まった女性がな」
「え?それって…」僕は、ぎょっとしてあたりを見回した。
「お前さんには、この楽器で見ることがきでないようにしてやったけどな」と彼は楽器を触りながら言った
「幽霊だよ、まったくあの狸爺めが何が噂を流しただけだ、単に時々残留思念中和機を停止しただけじゃねぇか。急ぐぞ、機械が停止している以上は、今まで出られなかった幽霊が大挙して現れるぞ」彼は、山道の向こうを懐中電灯で指した。そして湖の湖面を照らすと、人の形をしたものがぞろぞろと岸に這い上がって来るのが見えた
「なんだあれ」
「言っただろ、本当に昔からここの淵はそういう場所なんだ。あれだけの数が居ると思考を乱されて湖に引き込まれるぞ」
僕らは山道を必死になって駆け下りた。途中で這い上がってきた幽霊が、とうせんぼでもするつもりで、道の真ん中でかがんでいたりしたが、
「よけるな突っ切れ、避けると崖から落ちるぞ」バイオリン弾きの声でそこを突っ切ると生くさい匂いが鼻をついた
来た時には気づかなかったが、道がいきなり二股になった。僕らは立ち止まり左右を見た。一本は上へ、一本は下へ、そっと足を左右に道に踏み出すと、下に行く道は地面がしっかり感じられるが、上に行く道はふわっとしていた。「上が怪しいね」と言うと。「違う、感覚が狂わされているんだ、下は当然のことだが湖に下ってしまう」
「確かに…」というと、なにか頼りげない道を僕らは走った、しばらくすると足の裏が地面の感触を掴んだ。必死になって走っていると、やっと街灯の灯りが見えてきた。ほっとして二人とも足を緩めると僕は、「怖かったぁ」と前を行く彼に言った。「そうかいそうかい、じゃあこんなのはどうかな」と振り向いた彼は、額から顎にかけてざっくり切られ、血が噴出している男の顔になっていた。「ひっ」僕は思わず来た方向に逃げ出した。何処かで彼に入れ替わったんだ、知らぬ間に幽霊の後を付いて逃げてきたんだ。すると沢山の亡霊たちが僕の周りを囲むようにして追い越すわけでもなく、付いてきた、その数はどんどん増えてゆく、ぱしゃん…と足が水を打った。いつの間にか湖畔に来ていた。周りには沢山の幽霊達が居る。進むとしたら湖の中しかない、ままよっとばかりに僕は、そのまま湖の中に入った。泳いで逃げ切ってやる。そして膝まで浸かって更に進もうとしたところで、次の一歩は深みの中に落ちていった。瞬間思わぬ事態にあわてたが、ゆっくりと手でかくと、なにかに足首を掴まれた。さらに水を必死でかくと今度は何かに頭を押さえつけられた。うそだ!うそだ!と水の中で喚きながらも反面だめだという諦めの気持ちが息苦しさの中で鎌首を持ち上げてきた。あきらめれば楽になれる。苦しいのは今だけだ、あとは永遠の静寂に身をゆだねればいいと思って腕の力が抜けかけた時に。何かの音が聞こえた、バイオリンの音…ふっと頭を抑える力が弱まった、そして足首を掴む気配が消えた。
ようやく水面に顔を出すと、幽霊は何処にもいない。雲間から月が顔をだして、山道をかろうじて照らした。なにか「ばーか」とお月さんに言われたような気がした。バイオリンの音を追って道を進むと、駐車場においてあるジープの上でバイオリン弾きが哀しそうな曲を弾いていた。そして僕の顔を見てからほっとした表情をみせてからバイオリンを弾く手を止めた
「ぬれねずみだな」と彼は、笑いながら言った
「本当だ、酷い目にあった。ねぇどうやって幽霊を追い払ったんだい?」
「鎮魂の曲を弾いただけだ」
「なるほどね、成仏したわけだ。助かったよ」僕が助手席のドアをあけると、彼はだめだと言った。「乾くまで後ろの荷台にいろ」
「えー」と僕は不服を言ったが、確か上から下まででびしょびしょなのをそのまま乗せてくれる筈もない、僕は鉄板がむき出しの荷台に後ろから入り込んだ。いろいろな荷物の間に挟まって僕は後ろの荷台で小さくなりながら空を見上げた。山の風が濡れた体に冷たい。ジープは闇を切り裂きながら走り始めた。
*
僕の塗れた体を気遣ってか、車は夜の国道をのんびりと進んだ。通りすぎる街は、コンビニ以外はどれも寝静まっている。しかし、道は何処も明るい。あの闇に守られた山が嘘のようだった。家にたどりつけば、陽は既に登り初め僕はカーテンを閉ざしてさっさと寝床に入り、バイオリン弾きもさっさと車で帰途についた。目覚めてみれば部屋はサウナ状態で、僕はエアコンのスイッチを入れてもう一寝入りをしようとしたが、時間がもう昼過ぎってこともあってか、寝付けないままなので、夕飯の買いものに早々と出る事にした。
アパートを出たところでふと、あのふうせんかずらの爺さんのことを思い出して、ちょっと遠回りをして爺さんの家の前を通ると、なにやら女性の笑い声が僕の耳に入ってきた。ちらりとそっちを向けば、風船かずらの鉢を前にして爺さんと見知らぬ婆さんが縁側に腰を下ろして歓談をしていた。あんなへんくつな爺さんと良く会話ができるものだなと思って通り過ぎたときに、爺さんが僕を呼んだ。やばっと内心思いながら、庭先に顔を出すと。
「昔出ていった妻で、さちっていうんだ。戻ってきたけどここの周りも変わってしまったし何かあったら宜しく頼むよ」
と爺さんが言うと、婆さんがそっとあまたを下げた。
「いままで主人がお世話になりまして」
「こちらこそ宜しくお願いします」と僕も頭を下げて、そそくさとその場を後にした
きっと今日一日この辺りの井戸端会議のネタはこの話でもちきりだったのだろうな、と突然妙にまるくなった爺さんを事を思い出しつつにやにやしながら僕はスーパーで冷たい飲み物を買ったが、思い出すにつけて笑いがこみ上げてくるものだからレジの店員が怪訝な顔を僕を見ていた。
*
そして再びの夜、静寂に包まれることは無いが、安心していられる何時ものなじみ深い夜だ。僕は、一人でのんびりと缶ビールを飲んで考えていた。あの風船かずらの怪談は、ひょっとしたら別れた妻に逢いたいがために、爺さんが自ら流した噂じゃなかろうかと。あるいは心細くなるような理由があったのかもしれない。あの廃屋の奥の世界にいたあの老商人のように。