皿屋敷
東山三十六方草木も眠る丑三つ時、いずれの寺で打ち出すのか鐘の音が。院にこもってごぉぉん~
そして、悲しげな女性の声が、いちまぁい、にまぁい、さんまぁい、よんまぁい、ごまぁい、ろくまぁい、ななまぁい、はちまぃい、きゅうまぃい・・・一枚たりなぁぁい
と、台所や風呂場から聞こえるのだという
だれ?と思っておそるおそると、そこに行っても、誰もいないのであるが、何故か床がじっとり塗れているのだという。
という、噂があるとお月さんが、残暑の厳しい折に、お高い缶ビールを飲みながら、話してくれた。せんだっての入院でかなり病院にふんだくられた僕であったのだが、なんで思い出したか、入院保険に加入していたことに気がついて、その保険金がおりたので、ちょっとした小銭が飛び込んできたのだ。
それで買ったのが、久々にお目に掛かる飲み物。税法上ビールと表記されるアルコール系飲料だ。しかも、IPA。ホップのフルーティな香りに苦みが口に広がり鼻に抜ける爽快感。贅沢である。
「やっぱり、保険を使うならもっと重症の方がいいなあ」お月さんが、飲み足りなさそうに言った。「太陽に頼んで、お前さんに強力な紫外線を特別に浴びさせようか?」
「やめてくれ」僕は、プシュと缶をもう一つあけた。白いお皿には、柿の種がたっぷり乗っている。
「今の人類の医療技術なら、直ぐに治るだろ?」お月さんが、柿の種の山からピーナッツを選んで食べた。
「てか、痛いのは嫌だよ」僕は柿の種をひとつ摘まんだ。「ただでさえ、海水浴で日焼けした日なんか風呂に入るのも命がけの気分なのに」
「じゃあ、かるく皮膚癌程度になるパワーで」と、またピーナッツ
「いくら科学技術が進歩しても、癌の治療には副作用があるし、水道管も下水管も電線もガス管も無くならないんだからね」僕は、柿の種を4粒ほど一度に摘まんだ。「嫌だよ、薬の副作用でしんどいのは」
「軟弱だねぇ、俺なんか石つぶてがガンガンあたっても平気だぜ」お月さんは、自分の後頭部をぽんぽんと叩いてみせた。「最近は、一部の人間が穴まであけているしな」
「一緒にしないでくれないか」僕は、呆れて言葉がでなくなりそうだった。「人なら死んじまうよ」
「データ化して、仮想宇宙に行けばどうだい、ほぼ不死身じゃないかな?」今度は飛躍してきた。
「データは壊れるものだよ。ともすればメモリごとぶっとばされる」僕は、自分の経験から答えた。全ては無常、それは仮想でも実像でも同じだ。
「面倒くせえなぁ」お月さんは、ふっと立ち上がった。その途端、その場から消え失せてしまった。残ったのは、空き缶と食べ散らかしたピーナッツのカス。
僕は、ため息をついてテーブル兼用の炬燵板の上を片付けた。たまには片付けてから帰れよ、と恨めしく網戸の向こう側で雲間から現れた、お月さんを見た。その模様は、ウサギが餅をついているとも見えるが、なんとなく井戸端でお皿を見ているお菊さんのようにも見えた。
深夜。どことなく目が冴えて寝付きがわるいまま目を閉じていると、ぴしょん、ぴしょんと台所から水が垂れ落ちる音が聞こえた。
うっとうしいなぁと思いながら寝返りを何度もうった。起きるのは面倒だし、妙に音が耳につくのだ。眠れない、眠れない。
やがて、その音に紛れて女性の声が聞こえた。
「いちまぁい」
「にまぁい」
「さんまぁい」
(まじかよ!!)僕は、おもわず耳を塞いだ。
「よんまぁい」
「ごまぁい」
(いや、まてよ。確か番町皿屋敷では、了誉上人がお菊さんが9枚と言ったあとで、10枚と続けて言うことで、お菊さんは、成仏したはずでは?)
「ろくまぁい」
「ななまぁい」
「はちまぁい」
「きゅうまぁい」
「じゅうまい」とすかさず言うと、
「じゅうまい」と声がハモった。
「あれ?」
「じゅういちまぁい」
「じゅうにまぁい」
「じゅうさんまぁい」
となんか変だ。終わりそうにない。
僕は、諦めて布団から飛び起きると、女性の幽霊がじろっと僕を睨みつけ、空中から皿をとりだし
「じゅうよんまぁい」と言い、空中のどこかに皿を押し込んだ。
「おい、何枚数えるつもりだ」思わずそいつに言った。
「あんたが寝付くまで」幽霊は答えた。「じゅうごまぁい」
「ぎゃくに眠れないのだけど」
「あっ、そう」と幽霊は、そっけなく答えた。「じゅうろくまぁい」
「じゅうななまぁい」
「じゃあ、朝までかしらね」幽霊は、皿を取り出した。「じゅうはちまぁい」
「井戸はどうした?井戸は?」
「今は水道管という便利なものがあるでしょ」顎でしゃくって蛇口を示した。「じゅうきゅうまぁい」
「じゃあせめて、蛇口をしめるよ」僕は、手を伸ばして蛇口を閉めた。
「あ、だめ。戻れなくなっちゃう」幽霊は慌てて、次の数字を言うのを忘れた。
「え?」僕は、水がしたたり落ちなくなった蛇口と幽霊を交互に見た。「今、なんて?」
「えええーーん、戻れなくなるぅ」幽霊は、両手で顔を覆った。
「分った、分った。今、蛇口を開くから」と水を出すと。
「そんな強い水流じゃもどれない」幽霊は、頬を膨らませた。
「じゃあ、こんなんで」とすこし栓を戻した。
「まだ、だめ」
「これでは?」
「まだ」
「これは?」
「もうちょっとかな」
「これでどうだ!」
「よけい悪くなったぁ」
ぜんぜん、幽霊が納得する水量にならないまま、徐々に鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
「朝がきたら死んじゃう」幽霊が、嘆いた。
「いやまて、お前はもう死んでいるだろ?」
「死んでお前を孫子の代まで呪ってやる」どういう理屈でそうなるのだ?
「ああーー井戸が恋しいよう、水道はどこでも往けて便利だけど、カルキ臭くってぇ、私はどうすればいいの?みんなお前が悪いんだ」幽霊が泣きだした。
そのとき、僕の頭に閃くものがあった。
「じゃあ、ちょっと来い」僕は、幽霊に言うと部屋の外に出た。幽霊もそれに続く。
そして隣にある大家さんの裏木戸をそっと開けて、庭に侵入した。そこに、災害のときに使う井戸があるのだ。ゴミが入らないようにコンクリート製の重い蓋が乗っているが、さてどうだか?
「どうだ。井戸だぞ!」
すると、幽霊はいきなり井戸に抱きついた。「ああ、うれしい、井戸だわ。井戸だわ。懐かしい」と言って消えた。
しばらくして朝日が昇り、僕は結局一睡もできない夜になった。羊の代わりに皿の数でも数えてもらった方が良かったかもしれないが、今更の事だ。
その後のある秋のこと、大家さんが、僕をお茶に誘った。縁側で渋茶を飲みながら、頂き物の白松が最中を食べようというのである。
「最近よく眠れるのよ」と大家さんが笑みを浮かべて言った。
「涼しくなってきて、夜も心地よいですからね」と僕は、うなずきながら答えた。
「それもあるかもしれないけど、お庭の方から、お皿が一枚、お皿が二枚・・・と女性の声が聞こえてきてね。妙にそれが眠りを誘うのよ。なんなのかしらねえ」