冷たい雨
冷たい雨が降っている。いや降り続いている。昨晩からずっとだ。霙にになるほどではない、しかし厚く空を覆っている雲と言い、この雨といい、体に染み入る寒さを感じる。
そういう季節なのだ。家に閉じこもり、硝子窓に当たって流れ落ちて行く雨を見つめる。しかし、今は気持ちも天気も陰鬱としているから、むしろこうして過ぎて行く時間に違和感がない、静かに心も体も休む日だと自分に言い聞かせられる
若い頃、天気が良いのに、こもっていた時があった。仲間と思っていた奴らは、皆遊びの予定が入っていて、私は誘われもしなかった。当時私が属していたプロジェクトが火の車状態で、休日が満足に取れず、永らく遊びの誘いをことごとく断った報いが、よりによって行楽日よりの日にやってきた。
何か自分だけ世間からつまはじきにされた気分だった。いっそ雨が降っていれば良かったのに・・・でも、世間の人々は、休日を楽しみ、僕は部屋に独り、出かける当てもない。
孤独というものが、冷たい刃物のように僕の心に侵食してきた。そして実際に自死という言葉が浮かんできた。孤独は命を切り刻むのだという事を初めて知った日だった。
それでも、腹が減りインスタントラーメンの具として、キャベツを刻んでいると、ふと手にした包丁で自分の手首を切ったらどうなるだろうかと想像した。
孤独から解放される気がした、そして自分がいなくなった世界を想像した。孤独と思っていたが、それでも泣く人が居ることを思い出したものだった。
そのとき包丁は、キャベツだけを切り続け、鍋でそれを茹で、そこにラーメンを入れた。他愛もないつまらない記憶。
こんな記憶、むしろ思い出さない方がよかった。違う世界に行ってしまった、分身の誰かに持って行って欲しかった。
ぼうっと一日を雨の音を聞きながら過ごしていた。TVも本も疲れを運んで来たからだ。ただ、混沌とした自己の内面ばかりを探り続ける。過去を掘り続ける。不思議なほどに楽しい日々が掘り当てられない。苦労、悔恨、遺恨、悲哀・・・二字熟語で言えばそんなものばかりが、記憶からでてくる。
腹が減ったなと思えば、いつの間にか陽が落ちていた。
寒い日には、暖かいラーメンが夕食には良さそうだ。そこで戸棚から期限切れのインスタントラーメンを取り出すと。玄関のチャイムが鳴った。
「はい」とドアを開けると。どやどやと、異形の者達が勝手になだれ込んできた。
「おいこら!」と入るのをせき止めようとしたものの、多勢に無勢。あっという間に僕の部屋は、異形のもの達に占領されてしまった。
どれも見覚えが無い容姿をしていると思ったが、一人だけ何かの本か映画でみた事のある姿のやつがいた。羊ような角を生やした細長い顔、足も羊蹄類のものだ。パンなのだろう。
「こりゃ、ハロウィーンでもやっているのかい?」猫が、タキシードを着て蝶ネクタイを首に締めて直立しながら最期に入ってきた。
「お前か」僕は、時空案内猫に口をとがらせて言った。「この化け物どもをどこぞからつれてきたか、俺を夢の中にでも放り混んだのか?」
「化け物どもとは可哀想に」猫は手を舐めるとその手で顔を洗った。
後ろでは、異形の者達が騒いでいる。「五月蠅い!」と後ろを振り向いて叫ぶと、壁からはカラフルな花を付けた茎がにょきにょきと現れ、それを異形のものがばっさり切ると、茎からたらたらを黄金色の何かが滴り落ちてきた。異形のものたちはその液をこぞって手にした角型の容器に注ぎ込もうと必死だ。切られた茎は、液を出し終わると、頭を垂れるが壁からはまた別の蕾をつけた茎が伸びてくる。
畳からは、茸が生え、それを彼らは椅子やテーブルにしている。天上からも、ころころと焼けた骨付き肉の塊と思しくものが降ってきた。それを下にいるものどもがこれまた我先にと奪い合う。
というか、こんなに部屋が広かったか?と口を半開きにして見ていると、「きゃっ」と猫の声がした。振り返れば、巨大なピンク色のネズミの頭が目の前にあった、ネズミの閉じた口からは、猫の尻尾が垂れ下がり、それが左右に揺れていた。
ピンクのネズミは、くるりと踵を返した。するとあの頭だけにどれほど大きなものかと思えば、大きいのは頭だけで、胴体はまるっきり普通のネズミの大きさで色がピンクなだけだった。そんなものだから、逃げようと手足をバタバタさせているが全然進まない、というかそれでも前に少しづつ進むのが不思議なぐらいだった。
「おい、こら」と僕は、ネズミのピンク色の尻尾を踏んだ。「猫を返せ」
ネズミは必死になって手足をばたつかせるが、当然進む訳がない。
とうとう、手足を動かすのを止めて、馬鹿でかい頭で振り向いた。大きな黒い目が、どこか愛らしい・・・訳がないが、悔しさに哀愁を漂わせている感じだった。
「ほら、食ったものを出せ、あんなものを食うとお腹を壊すぞ」僕は諭す様に言った。しかし後ろではどんちゃん騒ぎをしているので、しっくりこない状況である。
「ほら・・・出せよ」と僕はピンクのネズミを急かした。
すると、ネズミはウゲッと嫌な音をたてて、ばらばらになって半消化されている猫を吐き出した。よくまあこんな短時間で消化できるなぁと思っていたが、汚物と化したものの掃除を考えると気が滅入った。生ものだから、きっと生ゴミと一緒に燃えるゴミに出すべきだろうか?
いずれにしろ、これを始末しないと・・・と思ってちりとりを手にすると、汚物の中にあるいくつもの固形物からしゅるしゅるとミミズのようなものが、沢山伸びてきて互いに結びつき引っ張り始めた。そのうち一本は、のそのそと逃げようとしているピンクネズミを追っていた。
やがて固形物がまとまりだすと、毛の無い猫のような形に整いだした。その周りを赤い色をしたゼリー状のもので覆われぬめぬめとしているし、その皮膚の真下を青黒い血管が縦横に走り脈動している有様はとても見た目が気持ちわるい。
ピンクネズミを追っていた組織の一部はネズミに絡みつくと、ホホにその先端を突き刺した。ネズミは悲鳴をあげてじたばたしたが、やがて口から服と毛の塊を吐き出した。
組織は、ネズミの頬から抜け出すと。吐き出したものをぐるぐると絡め取って、毛皮だけを本体に引き寄せて、それを身につけた。
そして再び、猫の姿に戻った。しかし、胃液のせいか、毛並みの色が抜けて。やや白っぽい猫に変わっていた。
「破壊と再構成」猫は、ふうとため息をつき、胃液に濡れた服を恨めしそうに踏みつけて一歩前に進み僕を見上げた。「ご協力感謝する」
「な、なんだお前」僕が猫を見る目は、蛇蝎を見るようなものだった事だろう
「見たままの猫さ」そういうと、猫は毛繕いを始めた。その行為は、我が道をひたすら行く感じで、僕が口を出しても何も聞いてくれなさそうだった。
後ろでは、どんちゃん騒ぎが真っ盛りで、異形の者達に文句を言うのも怖くて、そちらに近づくのも嫌だった。僕は、猫が毛繕いを終えるのをじっと待ってみた。
「彼らは、以前神と呼ばれ、畏れ、敬われる存在だった。」猫は、顎先を部屋の奥に向けた。
「あれが?神?」中には、七福神のようなものも確かに混ざっていた。
「人々が自然の恵みと伴に生きて居た頃、人々は農作業の恵みをもたらしたり、災厄をもたらす起きる原因を多くの神々のよるものとし、海、山、河、平野至る所に神を作ったからね。その上、喧嘩や色恋沙汰の旨くゆくときいかないときも、神のせいだとだされたものだよ。」
「そういうのは聞いた事があるよ。まぁこの国には、まだ祠とかいっぱいあるけどね」実際河川敷の近くにも、おいなりさんや、道祖神があちこちにまだ残っている。
「この国だけじゃあないさ、世界中のあちこちの祭りに神が付きものだね」猫は、坐って片手をあげてみせた。「こんな格好をすれば、俺だって商売繁盛の神様だしな。」
まねき猫って神様か?と僕は首をひねった。そしてそのまま後ろを向いた。「で、神さまがなんでどんちゃんさわぎをしているのさ、神様のお祭りなのかい?」
「おお、鋭いねぇ。」猫は、招き猫のポーズを止めて、あげていた手で僕を指した。「10月は、どこでもだいたい収穫の月だからね。人々は神に豊作を神様に感謝をして、また来年も宜しくと願う月だし、場所によっては、収穫が終われば、農業的にはそこから新たな一年の始まりだと考える人々も出てくる」
「いや、10月といや出雲以外は神様はいないぞ、感謝のしようがないじゃないか」僕は反論したが、しかしそうなると秋祭りはどこの神様をまつりあげているのかなと思ってしまった。
「神無月は元々、神の月の意だったが「の」が変化して無の字が当てられてしまったせいだというのが、通説らしいぞ」猫は、横を向いて片目で僕をじろりと見る仕草をした。そんなこと知らないのかとでも言いたげだ。
「秋の収穫時期は、あちこちで神様連中は持ち上げられていたのかぁ」僕はふたたび後ろを振り向いた。「収穫時期を終え、冬を前にして、あれは慰労会か何かかい?」
「まぁ、そんな処だ、今年はここに会場が設定されたということだ」
「そういや、みだりにその名を呼んではいけない神様とかはおらんのかね?」
「あの人達は、呼びませんよ」琵琶を持った女性が、とっくりを持っていつの間にか僕の後ろで言った。
「偉ぶってさぁ、何が唯一神だい。」ととっくりごと一気に酒を飲み干した。「只の不寛容の固まりさぁ。わちきたちは、色恋沙汰で喧嘩はしても、正義の名目で喧嘩はいたしましぇん。ねぇお兄さん・・・どう・・・一献」と僕に顔をじっと見つめた。「つまらない顔。色男はおらんのか、色男は!」
わめき散らすと、琵琶をベンベンと弾き始め「祇園精舎の鐘の声~」と詠い始めた。
「面白い神ですね。」若い男が、いきなり僕の前に現れた「ちなみに、ぼくはこれをバイブルにしてます」と一冊の本を差し出した。
ハインラインの「異星の客」だった。これが出た頃は、ヒッピー達の聖典とあがめられたらしいという事は聞いたことがあったが。
「汝は神なり」と彼は、本を僕に押しつけられたので、僕は仕方なく「はぁ」と言って受け取ると。
若い男はいきなり消えて、テレポートしたかのように、ずっと向こうに出現して、他の神に本を配り歩いていた。
「あれも神なのかい?」僕は、猫に訊いた。
「わからん、新興宗教の神かもな」猫が首を斜め横にした。「作中で、不可能が無いと設定された主人公が、本から抜け出してドタバタ騒ぎを起こすというのもあったかな、あれも一種の神みたいなものかな、やっていることが人間離れしているしな」
「それ、読んだ事がある・・・」僕も首を傾げた、ブンとフンだったか、フンとブンだったか
知っている神、知らない神は、和気藹々と酒盛りをしている。猫は、それを楽しそうに見ているけど、どことなく陰のある笑みだった。
「不安でもあるのかい?」僕は猫をそっと持ち上げて抱いてみた。お日様のような、香りがした。胃液の臭い匂いはすっかり舐め取ったみたいだ。
「別に」猫は、にゃおと言った。「どんなに社会が進歩しても、ごくごく普通の生活が、できない場所がどこにでもあるってことかな。俺が行く宇宙のどこでも、統治者も宗教家も、だれもが人々に考えるな、信じろとだけ叫び続ける。そして統治者も宗教家も、自己のエゴのために人々を利用し続けるからね、何処の宇宙に行っても戦いのない場所はないのがしんどくてね」
「なんで旅を続けるんだい?」僕は訊いた。「ここにずっといればいいじゃないか」
「お前のアホが感染るからだよ・・・」猫は、僕の腕の中で身をよじった。きっと窮屈なのだろう。僕は、猫を床に下ろした。
「いや、俺は、いわばスパイみたいなものだよ」猫は、手を舐めながら言った、「俺以外にも多くの猫が、多元宇宙を行き来している。そして情報を収集しているんだ」
「なんでまた?」
「戦争が始まる最初の原則さ」猫は、舐めた手で頭をこすった。「豊かな場所があれば欲しい、有能な生物がいれば支配下に置きたいってね。俺たちのボスは権力をさらに広げたいそうだよ。身の程知らずってやつだと思うがね」
「おい、猫、撫でさせろ」と、どこかの神が猫をさらってしまった。神が猫を撫でると、猫は、生意気さが消え失せて、大人しくなり、やがて猫なで声で歌を歌い始めた。
宴会は、まるで終わりを知らないようだった。馬鹿みたいな宴会で、素面でいるほど辛い事はない、僕も宴会の中に飛び込んだ。神ではないのだが、宴会場の持ち主の権限である。
しかし、底なしの様に飲む神達には、到底及ばず。意識がどろどろになったまま、目を覚ますと。薄汚れた窓から射す昼の日射しを、二日酔いの目を細めてしばらく眺めていた。そうか、雨は止んだのか。
畳に頬を付けたまま、世界を見れば、乱痴気騒ぎがなかったかのように、静かだ。畳の下から、遠くを走る電車の音を微かに感じた。