湯船の中のおたまじゃくし
湯船の中を黒いものが泳いでいた。温めとはいえ温泉の湯の中だ。まあるい胴体から伸びた扁平の尻尾をくねらせながら、それはあちこちで泳いでいた。
僕は、思わず両手でその一匹をすくおうとしたが、手の中からこぼれる湯と一緒にそれは湯の中に落ちてしまった。
「見えますかな?」と湯船に唯一一緒に入っていた、はげ頭の老人が僕に声を掛けた。
「え?」僕は意味が分からずに、首を傾げた。
「おたまじゃくしが見えますかな?」老人は、もう一度繰り返した。
「ああ、沢山泳いでいますね、でもお湯の中でよくまあ生きてますね」湯船の中を泳ぐおたまじゃくしは更に増えたように思えた。
「まぁ、そういうものですから」老人は、笑みを見せた。そして静かに手を合わせると小声でお経らしいものを短く唱えた。
「どちらから来たのですか」老人は、合わせた手を解くと、笑みに戻して僕に訊いた。
僕は、正直に都会から来たのだと答えた。
「よくまぁ、そんなところから・・・」老人は、驚きの表情を隠しもせずに言った。
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ちょっと気になる山があって登りに行くけど一緒にいかないか?とバイオリン弾きに誘われたのは、昨夜遅く。眠いし、疲れるからヤダと断ったのだけど、近くに良い温泉があってね、お前だけ温泉に浸かって休んでいてもいいぞ。と言うので、うっかり行くと返事をしてしまい。
深夜の一般道をJ54で走り、僕は眠い目をこすりながら、運転手が眠らないように、あれこれ話題を振る役割をせっせを務めたのだ。
僕たちが、乗ってきたJ54は登山道の入り口に駐車してあった。ここまでの道中、両わきの道には森林が迫り、その森林の隙間にこじんまりとした家々があるような集落だった。
運転手のバイオリン弾きは、山に登るからと言って、さっさと登山道に入ってしまい、僕はとても眠れそうにない助手席で目を閉じた。
わずかなうたた寝の後、車から降りて周囲を散策すると、僕たちが走って来た道の先は、駐車場の出入り口から10メートルほどで終わり、どんずまりにはお寺の山門が見えた。
寺の近くには、温泉旅館が3軒ほど建っていたが、寂れた様子で、玄関によくある、泊まり客の名を書く大きな板には、何も書かれていないまま、ヒートンからぶら下がっている。
境内には5段ほどの階段を上った。山門の向こう側には、茅葺きの古そうな寺が時代を感じさせる荘厳さを持ってどっしりと構えていた。これを正面に見て右側には阿弥陀窟と札がぶら下がっている鉄筋の小さな建物があった。建物には男、女を書かれた玄関が二つあり、その間に入浴料と書かれた札が二つのヒートンからぶら下がっていた。どうやら村の公衆浴場として機能しているようだった。
ただ見た目はコンクリート建築であるが、屋根にはシダが生え、苔が生しているし、建物自体も、湿気のせいか緑色や黒の染みだらけだ。
バイオリン弾きが言っていた、温泉ってここなのだろうと思い、長風呂を決め込んでさっさと阿弥陀窟の男と書かれたドアを開けたのだった。中に入ると、右に小さい下足箱が並び、左に小さい窓があって、そこにある半畳ほどの部屋で、老婆がTVを見ていた。小さい窓には、入浴料金が書かれた紙が貼り付けてあったので、僕は、小銭を窓から老婆に渡すと、老婆は小さくお辞儀をして「ありがとうございます」とだけ言って、またTVに目を戻した。
そこから、さらに戸を開けると、脱衣所になっていた。脱衣籠が手前に丁寧に積み重ねられていたので、一番上の籠を取って、そこに衣類を放り混んだ。金目のものは、J54の中にあるので、今の僕は無一文に等しい。
他に、使われている籠があったので、湯船には既に先客がいるであろうことは、分かっていたが、湯気で曇ったサッシのガラス窓から浴槽のある方はよく見えなかった。
脱衣所から、サッシの戸を開けて浴場に入ってみれば、大人が10人ほど入れそうな
四角の湯船が真ん中にあり、隅には安っぽい小ぶりな洗面器が積み重なっているだけで、カランなどは一つもなかった。
湯船には、頭のはげた老人が一人、肩まで浸かっていた。入って正面の窓と、左側の窓は開け放たれていた。おおかた覗くようなヤツは居ないのだろう。左側には、レンガが天井近くまで積まれて、女風呂との境にしているようだった。そのレンガも元の色は失われ、緑色のものに覆われていた。
天井も壁も、元は白いペンキが塗られていたようだったが、そのペンキが剥げたり、黒いカビが染みになっていて、歴史を感じる。足下の浴場のタイル貼りの床の目地には、青い藻がこびりついていた。
カランが無い以上は、湯船のお湯で体の汚れを流してから、浸かるしかないようだった。まるで、場末の公衆浴場だ。しかも湯の中に生き物がいるということは、さらに言えば、全く浴槽を洗っていない証だろう。
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「いい湯加減で、長く浸かれますね」湯に浸かっている僕の体中に、小さい気泡が万遍なくついていた。そして、おたまじゃくしが、僕の体をこすって泡を飛ばし、それがさーっと浮き上がって消えてゆく。先ほどオタマジャクシにお経を唱えたとすれば、この爺さんは、この寺の住職なのだろうか。
「みなさんそう言います」爺さんは、頷くように言った。「何時間入っても湯あたりしませんよ。ここのお湯は、混ざり物が無く清純なので、皮膚にも良いと言われています」
「でも、このオタマジャクシは、なんで大丈夫なのでしょうね。熱帯地方の蛙でも飼っているのですかね?」
「オタマジャクシ?」爺さんは、はげ頭を掻いた。「まぁ似ているからね。でもこいつらは、そういうものじゃないよ」
「違うのですか?」
爺さんは、頷いた。「ああ、似て異なるものでね。こいつらが見えない人もいる。いや普通は見えないと言うべきかな」
「!」僕は、言葉を失った。じゃあここで泳いでいるのは、おたまじゃくしの幽霊なのだろか?断片的な記憶の中では、確かに小さい頃に、オタマジャクシを捕まえては、水槽で飼ったものの、どれもカエルになることなく死んでしまった覚えがあるからだ。そいつらの怨念なのか?
「地獄をどうおもう?」老人は唐突に言った。その言葉に僕の中にある良心がぽっと発火して、記憶を焼き尽くそうとした。ごめんなさい、ごめんなさい、可哀想なおたまじゃくし、僕は死んだら地獄行きかも知れません。
「悪いことをすれば行く処ですよね」僕は、しおらしく言った。
「もっともらしい回答だね」爺さんは、笑い飛ばした。「でも、わしみたいな糞坊主に言わしてっみれば、宗教が人の心に施した枷のようなものさ、教えに逆らうとな、そうやって教えに一度入ったものは、恐怖の軛につなげて、一生逃がさないようにするのさ、全く地獄なんて見たやつが何処に居るってんだか」
「住職が、そんなことを言っては元も子もないじゃないですか」
「わしらは、生きている人に寄り添いながら、生きる上での苦しみを少しでも軽くしてあげる事が仕事だよ、人を恐れ戦かせることじゃあない。でも、宗教で人を束縛させてはいかんのだよ、盲信は生き方を縛り付けてしまうからね。だれも自由に生きる権利がある。しかし、生きる事が苦しくなったとき、古の教えが役に立つ事もあるものだ」
そういや、あんた、ハインラインという作家をしっているかね?」
「ええ、まぁ」SFは僕の好きなジャンルだ。推理小説も好きだけど。
「異星の客だったかな、あの中で主人公が言う台詞が好きだよ。『汝は神なり』だったかな?人は、人の言葉に勇気づけられる事もあれば地獄にも落とされる事もある。寒い日にほのかな日射しの暖かさに、前を向く事もあれば、草花や鳥の声に癒やされ、他の生き物たちの生死を賭けた生存競争に、人生の厳しさを悟ることもある。ある意味、森羅万象は神のようなものだよ。ただ、耳を澄ませ、目をこらし、匂いを嗅ぎ分け、肌で感じることができればね。」
「古の人々にとっての神と同じですね」
「いや、それとは違う。古代の人々にとっての神は恵みをもたらし、かつ災いをももたらすものだ。さて、私はお先に失礼しようかね」
「そういや、このオタマジャクシはなんですか?カエルにはならないのですか?」
「それか、地獄の亡者のなれの果てさ、地底深く多くの責めにあって、ようやく浄化された魂が、地獄の炎で熱せられた温泉とともに上がってくるのでね」
「じごく?」
「ああ、もし神が人間をつくりたもうたなら、地球こそ神ではないかね?地球の中にこそ天国があり地獄があるのさ、誰でもなんらかな咎をもつなら、そんな魂を浄化する施設がやはり必要だよ」
「でも、そんなものは無いって・・・」
「宗教が作り出したような地獄はない・・・しかし」と爺は浴槽から去って行った。「まだまだ、人の心については良くわからない。あるいは、私達の心は、大きな地球というクラウドサーバーの中にあるかもしれない、そして私達は、さしずめ性能の良い端末なのかもね。要らなくなった、仮想空間のメモリは、基本機能以外は削除しなくてはならない、それが面倒臭くてね。こんなオタマジャクシの形を取っている。よくみてごらん、お湯の出口からは、どんどん湧いてくるのに、湯船はおたまじゃくしで満たされないだろ・・・ガベージコレクションされて消えてゆくのさ」老人は、浴室から出て行った。
「・・・」僕は、じっとオタマジャクシを見ていた。泳いでいるうちに、透明になってそして、消えてしまった。
いずれ、僕もこの湯船の中を泳ぐのだろうか?ふとそんな事を考えていた。
□
良い湯と言っても、長湯をやりすぎれば、湯あたりもするので、一時間ほど浸かってから、浴場を出た。
やることのない僕は、しばらく花の多い境内を散策してから車に戻って、助手席に座りながら山から吹き降りる風を頬に感じたまま目を閉じた。
「待たせたね」とバイオリン弾きの声で目を覚ますと、どうやら寝ていたようだった。飛び起きて車から降りると、靴を泥だらけにした彼がパックを背から降ろしてそれを荷台に放りこんだところだった。
「いや、ゆっくりと温泉に浸かっていたよ」と僕は寝ぼけまなこのまま答えた
「まぁ、たしかにこの辺りにあるけど、旅館で日帰り温泉やっていたのか?なら俺もそこで入ろうかな」
「いや、寺の境内に公衆浴場があったよ」
「へぇ、じゃあ俺もそこに入るか」彼はパックの口を開けると中からタオルを取りだした。
僕が、彼を従えて境内に上がってみれば、さきほど入っていた浴場は無く、壊れかけた得体の知らぬ建物があるだけだった。境内には、立派な本堂があった。やがて本堂の脇から高級車が静かに出てくると、僕たちの前を通って境内の隅にある車用の出入り口から出て行った。運転していた坊さんは、坊主頭であったが、僕が浴場でみた爺さんではなかった。
「風呂は何処だい?」とバイオリン弾きは、辺りを見回した。
「いや、多分夢でも見ていたのかも」僕は、廃屋をじっと見つめた。「それより、山に登って何をしていたの?」バイオリン弾きは、山に登るために登るということはしない、何か目的があるのだろうと思っていた。
「キランソウの大きな群生があると聞いてね」バイオリン弾きは言った。「別名、地獄の釜の蓋というやつでな。そんな別名があるなら、あるいは、そこに異世界の通路でもないかと考えたのだが、普通の草だったよ」そう言って、寺に背を向けた。「夢の中の温泉にはいくらなんでも入れないな、でも俺が調べたところでは近くに良い温泉があるから。まずは、そこで体を洗おうか、傷に染みるような硫黄温泉だとさ」