よるがお
夏の夜空には、無数の火の粉がホタルの様に飛び交い、地には消防士達が集まった野次馬に怒声を浴びせながら必死になって駆け回っていた。炎の赤い輝きを背にした一人の消防士が僕の行く手を塞いだ。紅蓮の炎を上げる古びたアパートは僕の友人を中に残したまま火勢を上げつづけた。分厚いサッシのガラスの向こうに、彼の顔が見えた。煙に充満した部屋の中で苦しそうな顔が必死に空気を求めている。僕がその部屋を指しながら大声で喚くとほぼ同士に、梯子が立てかけられた。しかし彼の姿はもう見えない、そして炎がとぐろを巻きながらその部屋の中を焼き尽くした。
夏のある日になると決まってこの時の自分を夢に見る。何も出来なかった自分、ただ見ている以外に、身一つで逃げること以外できなかった自分。あの時助けることは出来なかったのだろうかという自責の念に焼き尽くされそうになる。
その日から間を置かずして葬儀が執り行われ、荼毘に付された彼の遺骨は遠い田舎に運ばれた。以後、あの時の記憶だけが、瞼の裏に刻まれたかのようにくっきりと再生される。昔のとある事故で僕の記憶がボロボロになっているというのに、こんな悲しみだけが何故僕の中に取り残されてしまったのか分からない。彼の名さえ記憶に残っていないのに。
そんな想いに耽りながら、あれから何年経ったのだろうと、寝苦しい真夜中にすっかり冴えてしまった目でカレンダーの年を眺めていたら、ドアの外で大きな声で僕を呼ぶ声がした。それだけならまだしも、そのだみ声には、耳を塞ぎたくなるような不協和音のBGMまで付いてきた。いつもなら、綺麗な音を奏でているバイオリン弾きも酔いに任せてでたらめに弦を鳴らしているようだった。「あーーーけーーーろーーーー」その声はお月さんのものだ、本人はきっと素敵なバリトンの音を出しているつもりなのだろうが、シラサギの声より酷い。この状態で放置しておくと、間違いなく近所から苦情がきてしまうので、仕方なく僕はドアをあけた。
「おぉぉおぉぉ!!開いたぁぞぉ!!」と歌いながらお月さん、続いてバイオリン弾きがTシャツ、短パン姿でギコギコバイオリンを弾きながら入ってきた。そのギコギコがなんとなくありがとう、ありがとうと聞こえてしまうのが、不思議なところだ。
「お願いだから静かにね…」と僕が言う傍からお月さんが「みずぅ!!みずぅ」と歌う様に叫んだ。やっぱりただの酔っ払いだ。
僕は、きっと大家さんから苦情が来るのだろうなぁと思いながら、シンクに置きっぱなしのコップを簡単にすすいでから水道水を汲んでお月さんに差し出した。生憎麦茶もビールも冷蔵庫の中でこれから冷えようとしているところだ。どうせ単に喉が渇いているだけだろうから、これでも十分だろう。お月さんはそれをグビグビと飲み干し、片手で口を拭ってから空になったコップを差し出した。「もう一杯」
まったく、と思いながらもう一杯水を入れると、グラスのそこに怪しげなものがこびりついていた。そういや、このグラスはここに置きっぱなしで洗っていなかったことを思い出した。まぁ、お腹を壊すことも無いだろうと、僕は水をそれに入れて差し出した。それを飲むかとおもいきや、お月さんは片手に持っていた一輪の白いラッパ型の花が付いた枝をそっと水の中に入れた。
「これでいいかな?」とお月さんは後ろで満足そうな顔をしているバイオリン弾きに向かっていった
「星の見える窓辺に置こうか」とバイオリン弾きが言うと
「なるほど」とお月さんは部屋の奥に入っていってベランダの手すりに置いた。
新月で、しかも雲ひとつ無い夜空は、星であふれ返っていた。何時もなら夏の夜空は、決して星は多くは見えないというのに、まるで特別な夜のようだ。
「さぁ、聞いてみようか」バイオリン弾きが酒臭い息を吐きながらも神妙に僕に向かって言うとゆっくりとした動作でバイオリンを構えた。彼の細い指が弦を押さえ、弓が弦の上を滑った。それにしても一体何を聞くというのだろう。やがて、声にならない声が、言葉で綴られない詩が、まるで夜の中を何処までもかろやかに響き渡る小川のせせらぎのように響いた。それは、耳で聞こえるものではなく、見えない何かの振動が僕の心を揺らすことで、歌っているように思えた。バイオリン弾きが奏でる音は美しいが、それは、あくまでも曲であって歌ではなかった。
「星の歌だよ」そっとお月さんが僕に囁くように説明した。「夜顔の花が、それを増幅して聞かせているのさ」
耳に聞こえる音は、弦のかなでる振動だけにもかかわらず。僕の心の中で勝手に歌が生まれ、僕は自然をその歌を口ずさんでいた
恋しい、恋しい、恋しい…
狂おしいほどに会いたい
それなのに
去ってしまった貴方・・
想いの総てを伝えることもなく
冷たい口づけの記憶だけ残して
逝ってしまった貴方。
僕には詩とともに一つのシーンが昨日のことのように浮かび上がった。葬儀の最中に、友人の亡骸にすがって泣いた彼の恋人。そして、傍観するしかなかった僕たち自身の姿。
バイオリン弾きは、そっと曲を止めた。そして僕の心の声も止んだ。何か、悲しい歌だったね。と僕は小声で言った。
バイオリン弾き、うなずいて答えた。「星は遠い昔の噺を沢山知っているからね。遠い、遠い昔、人が星に語りかけた物語が星に伝わるまで、何年、何十年、何百年、何千年。そして、その想いが星に伝わった時星はその想いを光の歌にするんだ。決していたずらに煌いているわけじゃない。夜顔に耳を澄ませば誰にでも聞こえるのだけどね。」もうちょっと聞いてみるかい?バイオリン弾きはまたバイオリンを構えてみせた。
そうだねと僕は、昔に死んだ友人の事を思い出して答えた。あの日、あまりの唐突さに涙さえ出なかった。あの窓越しの苦痛に満ちた表情も夢ではなかったのだろうか?ひょっとしたら、反対側から飛び降りてちょっと怪我をしただけで、本当はひょっこり元気な顔を見せるのじゃないだろうかとさえ思えていたあの夏の日々、葬儀が終わるまではずっと人がこうもあっさり死んでしまうものとは思えなかった。そして、身近な友人の姿が本当にもう見られないのだなと実感してからどっと悲しみに暮れたものだった。
-なぁ-と懐かしい声が音の中に聞こえた。バイオリンの音の中に歌うように語り掛けてくる。
-お前間違っても俺の分まで生きようなんて思っていないよな?
-あの若い頃はよくそう思っていた事もあったよ。でも今は自分のことでていっぱいでさ、そうもいかないよ、でも未だあんたの事を思い出すとそうできたらと思ったりするよ。 僕のいらえもまた、音の中に入り込んでゆく
-そりゃ、お前の傲慢さ
-そうかな?
-そうさ、俺の人生はたとえ途中で絶えたとしても、それは俺のものだ、誰にも譲ることのできない俺のものだ、簡単に真似なんかさせやしない
-それは、確かにそうだね
-その分、お前の人生をがんばりな。俺のことは時折思い出してくれさえすればいいよ、こうして星を見たついでにでもさ
-わすれないさ、墓参りを出来なくても、ボケるまでは記憶に留めてやる。お互いに人生を交差させた仲だものな、お前の話なしで、俺のあの時代も語れないよ。
-俺もさ、誰かに俺の想いを聞かせ続けるよ。星を見つめるだれかの心にね。
僕のあの日の悲しみもいつか、星に届いて遠くの誰かに届くのだろうか?それを聞き取ってくれるのだろうか?
そして、友人の恋人の悲鳴にも似た悲しみも炎の中で短い一生を終えた彼の無念もまたもし、宇宙の中が追憶で満たされているのなら
僕の追憶もまた、そこに-夜顔が歌う中。空を闇の中を流れ星がよぎって消えた。