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ねこまねき

 寒いが、冬の空が好きだ。空気は透明に磨かれ、闇夜の空に金砂、銀砂を散りばめたように星々が煌めき、時々思い出したように、流れ星が短い尾を引いて消えてゆく。

 新月の暗い中、堤防の横に敷かれた道路沿いにぽつんぽつん並ぶ街頭の明かりを頼りに堤防の上の遊歩道を、行き交う人が深夜にも関わらず数人歩いている。


 厚いダウンジャケットを着て、川面に近い所で空を見上げていると、猫がやってきて僕の脚に絡みついたり、頭をぶつけてきたりしてきた。


 僕は、しゃがんで猫尻尾の付け根を軽くぽんぽんと叩いてあげた、すると猫はそこに腹ばいになって、気持ちよさそうに欠伸をした。

「猫は寒がりなのに、お前はこんな時間にどうしたんだい、もし暖かい部屋が欲しいなら、俺はダメだよ。アパートだから猫は入れられないんだよ」僕が、小さい声で言っても、猫はじっと僕にぽんぽんと叩かれていた。しかし猫は叩かれる事に倦んだようで、僕の手から逃れるように、座り込んでから股ぐらを舐めまわし、脚をなめ回し、首をぐるっと背中に回して、背中をなめ回してから、姿勢を正して座った。

「お前こそ寒がりな癖にこんな夜更けに何をしているんだい」猫は唐突に言った。

「星を見ていたのさ、冬は空気が綺麗だからね」僕は、そう答えた。

「確かに」猫は顔を上に向けた。

「それより、お前はな何者なんだい?」僕は、猫に訊いた。

「できれば、一番最初に驚くリアクションが欲しかったのだけどな、私は、時空案内猫さ、ジャックとでも呼んでくれ」猫は、僕の足元に移動してふくらはぎ辺りに耳をこすりつけてきた。「物見遊山で、お前さんを見物に来た。」

「物見遊山って?見ても何も面白くないよ、芸はしないし、顔はおっさんだし、身につけているものは、大量生産品の安いものばかり」僕は、猫を捕まえて抱きかかようと手を伸ばしたが、いきなり爪を立てて引っ掻いてきた。

「いきなり触るな、触って欲しい時以外は、俺に触れるな」

「我が儘だな、そっちからすり寄ってきたのに」

「俺の気分は、良い気分の時と不機嫌な時が、常に同時に存在しているんだ、どっちに振れるるかは、その時次第さ」

「じゃあ、触らない方が無難だね。で、なんで俺が観光名所なんだ?」

「一種の特異点じゃないか、量子コンピュータにダイブして半身は、多世界のどこかに行ってしまい、お前さんはここにいる。でもって、この二つは、自覚がないままエンタングルメント状態なんだから」

「過去の話は、したくない」僕は、不機嫌側に傾いた。「帰る」

「俺もお前さんの過去には興味はないさ、しかしそういう経験をした事自体が、お前さんを観光名所にしてしまったし、俺はこうやって見物にきている」猫は、僕にすり寄り、頭を脚に2回ほどぶつけてきた。「ほら、撫でてくれよ」

「なんて自分勝手な」と言いながら僕は猫の背中を撫でてあげた。

「自分勝手なのではなくて、極めて自己主張の強い自我とでも言って欲しいものだ」猫は、うっとりと目を閉じた。

「その違いが分からないな」僕は、手を動かし続けて言った。

「自分で考えて、自分と多くが尤も利益を受けるために、自分で行動することさ、自分だけの利益を考えれば、やがて巡り巡って、不利益になりかねないからね」

「情けは人の為ならずってやつだね」

「まぁ、そういうことなんだが、折角ここまで来たんだ。しばらく俺の目を見ながら、撫でてくれないか、そう、他の景色は見ないで、俺の目だけをね」

「なにか出してくれるのかな」僕は言われるがまま、闇夜で猫の目を瞬きも我慢して、見つめながら、なで続けた。やがて、目の端に映っていた、闇夜の風景が暗転した。


「さあ、着いたよ」猫が言うと、僕は瞬きをしてから周りを見回した。

僕が居るのは人工の明かりのない、星空の下だった。

「ここは?」

「生き物の製造現場だよ」猫が、僕の手のしたからするりと逃れて、僕の周りを歩いた。

「神様でもいるのかい?」僕の手は、猫を追った、なんとなく毛並みの感触が良かったので僕の掌はまだ撫でたがっているようだ。

「さぁ、お前の考えている生き物かどうかは分からないけどね、ついておいで」猫は、僕の彷徨う掌を逃れて離れて行った。僕は、両掌を地面に当てて立ち上がると、掌には小石が沢山あるような感触が残った。猫を追うと、脚からは、ざっくざっくと河原のように、沢山の小石の上を歩いている感じが伝わってきた。


 景色は見えない。空気は冬の空気のまま、寒く、乾燥し、研ぎ澄まされている。目や鼻の穴が乾いてゆく感じもする。耳の中では、静寂の音のみが木霊している。

 目が次第に慣れてくると、ここは河川敷ではなく、一本の道であることが分かった。周囲は、多くの木が並び…いや、街路樹ではなかった…周りを森で囲まれた砂利道なのだった。前を歩く猫は、音を立てて歩く僕とは正反対に、静かにまるで宙に浮いているかのようになめらかに進んでゆく


 感覚が慣れて来て、気持ちも落ち着いてくると、森のあちこちで生き物の鳴き声が聞こえてきた。僕は、野鳥の会には入っていないし、森に住む野生動物にもあまり興味が湧かないから、声の主がどんなものなのかは、見当が付かなかった。


 やがて、道が大きく右に曲がると正面に明かりが見えてきた。窓の明かりが漏れているように思えた、ただ、本当に家があるのか、どんな家があるのかは分からなかった。周りが暗過ぎ、明かりが明るすぎるので、そこにある物の輪郭がはっきりしないのだ。


 猫は、振り向いて「正面の家だよ」と一度歩みを止め、そしてまた歩を進めた。

歩みを進める度に、闇の中で家はその輪郭を露わにしていった。短い円錐形の塔のようなものを中心に左右には対照的に四角い構造物並んでいた。明かりは中央の塔のようなものの中段から漏れていた。


 入り口は、中心の建物にあった。中心を堺に左右に取っ手があるのを見れば、それを掴んで引くか、押すかすればよさそうだった。ただ目の前の猫の手だけでは、開きそうもないのは明らかだ。僕は、手を伸ばしてその取っ手を掴もうとしたその時、猫が大きくジャンプをして手の甲を引っ掻いた。「急くな、馬鹿野郎」

「いてっ」と引っかかれた所を見れば血が滲んでいた。「何するんだ、猫」

「それは、フェイクだ」猫は、そう言うと、扉の下で立ち上がり、扉をひっかき始めた。「なにしている?」僕は訊いた。いくら扉を引っ掻いても、開くわけないだろう?

「ノックだよ」

「向こうに聞こえるのかい?」

「ああ、ここの主人は耳も目も良いからね」

暫くすると、ドアの向こうでパタパタと歩く音がした。

「ドアが開くぞ、下がれ」猫が、くるりと回れ右をしてドアから離れたので、僕もそれを真似た。

 そしてドアがバタンとこちら側に倒れ、その風圧が顔に当たった。まるで跳ね橋を突然落としたときみたいだ。

「おや、旅猫じゃない」明かりの中で声がした。人のような体型が輪郭として見えた。

「やあ、星織屋」猫が、倒れた扉の上を歩いて言った。「久しぶり」

「後ろの不細工な生き物は何?」声は、軽やかでコロコロって感じで、悪意が無いようだが、やはり僕の心には棘が刺さる。

「不細工は余計だ」思わず声が出た。

「失礼」と言いながらも、笑い声が混じっていた。

「こいつは、動く観光名所だよ」猫が上を向き僕の方を見ながら答えた。

「なんだいそれ」僕はふてくされた

「まぁまぁ、この旅猫さんは歯に絹は着せないから、諦めて。まずは中に入ってお茶でもしましょ」最初に不細工を言って置きながら、声の主は僕達を中に誘った。

「こんなところで立ち話も、疲れるだけだしね。入ろうぜ名所…」

僕の名前は、名所になってしまったようだ。


 僕と猫が、家に入ると、すっかり慣れた目に映った主人の姿は、羽の部分が腕に置き換わった梟のように見えた。口は、嘴ではなく人間と同じだが、大きな目と、顔に二つの小さな穴が開いただけの鼻、そして全身に纏っているのは、剥き出しの羽毛だ。頭も羽毛。それが服や帽子なのか、それとも体から生えているのか、区別が付きそうになかった。

 僕が、失礼を承知で、上から下まで見回している間に、背中の方で扉が音を立てて閉まった。


「今、作業中だから、勝手にお茶でも飲んでいてくれない?」星織屋は、口をアルカイックスマイルに曲げてみせた。

「ああ、それは勝手にしてもらうよ、ついでに作業の様子を見学させてもらっていかい」

「邪魔しなけければ、良いわよ」そう言って星織屋は、部屋の中央にある螺旋階段を上っていった。

「まずは、ゆっくりしようか」そう言って猫は、部屋の奥に進み、カウンターの上に上がった。「主人の趣味で、ここには刺激のある飲み物はないけどね、体に良いハーブティーは、いやというほどあるからね」


 側に行けば、カウンターの背後には、沢山のガラス瓶が並んでいる。そのどれにも草を砕いたものが入っていて、読めない字でラベルが貼ってあった。

「どれを飲む?」猫が訊いたが、分る訳がない。

「毒で無いならなんでもいいかな」僕は、カウンターの横を通って棚と向き合った。「それにしても凄い種類だ」

「毒は無いと思うけどね、俺もどんな味かは分らないよ、なんといっても猫舌なんで飲んだ事がないのさ」猫はペロリと舌をだした。

「変なのだと嫌だな。白湯でいいかな、で、お湯は何処にあるの?」辺りを見回せば、薬缶もポットらしいものもない

「ああ、お湯か。お湯が欲しいと思いながら、シンクの蛇口を回せば出るよ」猫が、退屈そうに大きな欠伸をした。

「凄い科学だね」僕は、棚からマグカップを取ると、お湯お湯…と唱えながら蛇口を捻った。そして、あっさりと湯気が立つお湯が出てきた。「おお、こんなの家にも欲しいな」

口にすると熱湯とかいう類いではなく、やや低い温度だ。飲みやすい適温というべきか、僕の深層心理まで読み取っている感じがした。

「良い感じの温度だね」

「大気を綺麗にするために、大気圧が弱めになっているんだ。それで沸点が低いせいかなと思うよ」猫は、カウンターに耳をこすりつけていた。まるで耳が痒いみたいな仕草だ。「それを飲んだら、上に行こうか」猫は、一旦その仕草を止めて言った。

「いいよ」と僕は、ゆったりと白湯を飲んだ。今まで息切れもしていなければ、鼓膜に変な感じもしないので、猫の言っていることは当て外れのように思えた。


 螺旋階段を登ると、そこは一面真っ白は部屋だった。中央には、梟姿の星織屋が椅子に座り、鼻歌を歌いながら、その前にあるテーブルの上で、編み棒を動かしていた。

 編み棒の先では、布地のような平面ではなく立体的な造形が生み出されようとしていた。そして毛糸の送り出しているのは、毛糸玉ではなく、ひとつの機械だった。機械は、肉をミンチする機械を4つ並べたような形をしていて、その上には三角形のプリズムが置かれていた。そして星織屋が機械についているハンドルを回すと、毛糸が機械の4つの口から吐き出されてきた。

「あの機械に毛糸が詰まっているのかい?」小さい声で僕は猫に訊いた。

「いや、天井から採取された星の明かりが、あの機械で加工されて、色々な色の毛糸になるんだ」猫から小声で応えがあった。

「光が毛糸に?」

「正確には、毛糸ではないよ。そう見える様に視覚化されているだけさ、星に含まれる、意思のようなものかな、そして星織屋の声で毛糸が振動しているんだ。その振動具合で毛糸の性質が決まるのだよ、さあよく見てごらん、誕生だ。」

猫の声に導かれるように、目を星織屋の手元に集中させると、やがて編まれた毛糸が動き出し、そして羽ばたいて宙に舞った。鳥だった。鳥は星織屋の周りを何度も周回していた。そして軽やかな声で鳴いた。

「さあ、お行き」という星織屋の声に鳥は、ガラスのはまっていない、窓から外に飛び出して行った。



「さぁ、一仕事が終わった。」星織屋は、大きく伸びをしてから、機械のスイッチを切り、僕らの方を向いた。「で、用向きは何?」

「俺は旅猫だ。用なんか関係ない、来たいから来たまでさ」猫は、僕の足元をうろうろしながら答えた。

「で、貴方は?」星織屋が僕の方を見て訊いたので、口を開こうとすると先に猫がしゃしゃりでた。

「面白いから連れてきたのさ、こいつ特異点なんだぜ、動く観光名所さ」

「見た目、平凡ね」星織屋が、しげしげと僕を見下ろすようにして、観察してきた。「どこが面白いの?何ができるの?」

「面白くはないし、貧乏生活以外は何もできない」僕は答えた。

「星織屋、機械をもう一回動かしてくれないかい」猫は、梟姿の星織屋の足元にやってきた。なにか下手をすれば、その足についているかぎ爪で猫の毛皮に穴が空きそうだ。

「いいけど、何をするの」星織屋が首を傾げて訊いた。

「動かせば分るさ、で、特異点は機械の近くに立ってね」

「いいけど、何をするんだ?」僕は、大人しく機械の横に立ってみせた。そして星織屋は、作業机に着いてから、首をくるりと回して僕の方を見てから、「あら」と言った。

そして、星織屋は、羽毛がたっぷり生えている細い腕を僕の方に伸ばして、お腹の辺りにを触った。そして、腕を引っ込めると鋭い爪が生えたその指先に一本の黒い糸が絡まっていた。その糸をしげしげと見て、「真っ黒だわぁ」と星織屋が呟くように言ってから僕の顔をみた。

「何、その糸?」とまずは疑問を口に出すべき所でもあるのだが、「腹黒いってか?」と思わず感情の方が先に出た。

「いえ、黒いのが珍しいだけ、この糸は沢山の帯域の波長の光を吸収するようね、ここまで漆黒というのも凄いわ」そう言いながらも、糸の先端をいつの間にか、糸車にひっかけてどんどんと糸車を回して絡め取って言った。

 そうこうしている内に、僕のお腹にぽっかりと穴が空いた。その空隙を中心にして糸がどんどん繰り出てゆく。

「おい、なんだなんだ?ちょっと待て」と席を立とうとしたが、脚にまるっきり力が入らない、多分神経が抜かれてしまったのだろう。

「おい、やめてくれ、元に戻してくれ」と懇願したが、猫も星織屋もにっこり笑みをみせて「大丈夫、大丈夫」と応えを返しただけだった。

やがて、僕はすっかり糸巻きに絡め取られてしまった。


「どうすんだよ、こんな格好で生きてゆけないよ」僕は、カラカラ周りながら、文句を言った。糸となってしまった今、口が何処にあるのか分らないけど、僕は糸を振動させて音を出していたんだ。


「大丈夫、大丈夫」と猫は言うが何か大丈夫なのか分らない。耳はもうほぐれてしまったから、猫の声を振動として糸全体で捕らえていた。そして、完全な黒体の糸となった僕はありとあらゆる光を吸収し感じとっていた。ただ、この身では何処にも行けない…風に飛ばされるか、糸巻き車ごと転がって行かない限りは…


 巻き取られた僕の先端を、星織屋がたぐった。多分僕を何かに再構成してくれるのだろうかと思われた。しかし、僕は何かにがっしり掴まれたまま、唐突に部屋の天井に向かって飛び出した、糸の中に取り込まれた光は、赤外域と紫外域の間の波長をしっかり捉え、再構成されたが、色は常に変化し、形を変え、渦を巻き、全く安定しなかった。胃と腸が現存していれば気持ち悪くて、さっき呑んだ白湯を吐いていたに違いない。

「ピィーツ」と口笛の様な音がすると、僕の体は振動し、その振動の影響で世界が安定してきた。色や形が互いに歩み寄り、一つの形にまとまって来た。

「おいおい、何処に行ってしまうんだい」猫の声が聞こえた。

「何処って、誰が何処に行くんだい」僕は身を震わせて訊いた

「お前だよお前・・・」と言う猫が言った。そしてその言葉の意味が少しずつ理解できてきた。僕は、端っこを鳥の嘴に掴まれて、部屋の中を巡り、そして開いたままの窓から出ようとしていた。糸車がカラカラと音を立てて僕を空中に繰り出してゆくが、猫の手も星織屋の手も糸車を止めようとしていなかった。

「いってらっしゃい」と星織屋が手を振って見送った。僕は、カラカラと真っ暗な夜空の中をひらひらと飛んで行った。


 やがて、鳥は僕で遊ぶのに倦んだようで、空高く飛んだ所で、嘴から僕を離した。僕は、ゆらゆらと風にゆれて降下したり、上昇したりして、空気の流れに弄ばれていた。


 やがて僕の隣を大きな蝙蝠が三匹、気流に乗るように優雅に飛んでいるのに出くわした。余りにも大きいため、翼を羽ばたかせて飛ぶのが無理そうだ。蝙蝠は各々その短い足の指で、トマト、スイカ、ドラゴンフルーツを掴んでいた。やがて風のいたずらか僕の細く長い体が、彼らの脚に絡まりだしてしまった。

「おや、へんなものが絡まってきたぞ」と一匹の蝙蝠が言った。

「とりあえず、さっさと家に帰って変な物を切ってしまおう」別の一匹が言った。

流石に体をバラバラにされるのは、困る。

「お願いだから、切るのは辞めてくれ」僕は懇願した。

「糸がしゃべったぞ」さらに一匹が言った

「変な生き物らしい、しかしこっちも糸でぐるぐる巻きにされるのは敵わんし、たぶん酷くこんがらがって、解くのが難しそうだよ」

「そんな、バラバラにされたら死んじゃうよ」

「私達に任せて貰えれば大丈夫さ、糸の生き物さん」

「本当に?」

「まずは、私達の根城に帰って、お食事を済ませてからね」


 やがて、僕らは森の中にある一つのお城のような建物の上空にやってきた。大きな煙突のような塔の上に3匹は脚が僕に絡め取られたまま、どさっとまるでゴミの袋の様にまとまったまま、落っこちた。


 蝙蝠のうち一匹は、その姿とほっそりとした人間の姿に変えていた、背の高さの割に病的といえる程に痩せていた。頭にはシルクハットをかぶり、ブラックの燕尾服を着ていた。目は大きく、鼻は細く高く、口は小さく、頬がこけていて、手にはトマトを大事そうに持っていた。二匹の蝙蝠は僕に絡め捕らわれたまま、じたばたとしていた。

「今、鋏を取ってくるから、しばらくじっとしていなさい」とそいつは静かに言うと、トマトを手にしたまま塔の隅にある扉から退場した。

「バラバラにされたくないよう」と僕が嘆くと

「お前が絡んでくるのが悪い。こっちも身動きがとれなくて困っているんだからな」とスイカを持った蝙蝠が言った。「そもそも糸のくせになんで口を利くんだ、口もないくせに」

「そりゃあ、空気を振動させるのだけは得意だからね」僕は、ついでに音楽を奏でてみた。古い曲、夜想曲の一部の短いフレーズだ。それに釣られて、一人が短い足で床を叩いてリズムを、もう一人が口笛でハーモニィを空気に描いた。

「楽しんでいる所を申し訳ないが」と演奏に釘を刺してきたのは、鋏を手にしたシルクハットだった。

「待っていたぞ」と蝙蝠が2羽同時に言った。

「やめて、お願いやめて」と懇願してもシルクハットは何も言わずに僕の体をちょきんちょきんと切った。

 そこで、2匹は僕から解放され、いつの間にか、白いシルクハットと赤いシルクハットの男性に変身した。僕は、分断され、塔の頂上でばらばらになって風に飛んで行こうとしていた・・・が、何故か短くなった糸の両端が天井の床に両端をくっつけたまま、震えているだけだった。どうやら、バラバラにはされたが、散り散りになるのは避けられたようだ。


 そこへ、猫が床を透過するように現れてきた。

「よう、元気か?」猫が言ったが、僕は体を分断されやや高い声になった状態で返事をした。

「バラバラにされて元気とは言えないけど、まぁまだ意識はしっかりしている」

「おや、時空猫じゃないか」黒いシルクハットが言った。「この紐と旅をしているのかな?」

「なんだ、吸血鬼の3兄弟だったか」猫は、左右を見回した。「なんか痩せたな」

「今は、健康の為にベジタリアンなんだ。血の代わりに赤い果汁を飲んでいるんだ」答えたのは黒いシルクハットだ。

「栄養は足りるのかい?」猫が、そう言って後ろ足の肉球を舐めた。

「そもそも血だって、栄養はあるけど、直ぐに消化されてしまうから、腹持ちが悪かったしね。今は不足分の栄養はサプリでとっているから、栄養的には、以前と変りが無いよ」「吸血鬼も健康を考える時代ってわけだ」

「そりゃ、健康第一さ、それに無闇に殺生することもなくなるしさ、それに今後人間が滅んでも、植物はそうそう無くならないしね」

「なぁ、僕はどうしてくれるんだい?紐を繋いで元に戻してくれないか?」僕は、会話の間に入った。

「多分、無理だな。元にも戻せない・・・しかし」猫は、床の上でぷるぷる震える僕を爪の先で弾いた。それに応じて音が発生した。それが球を描いて空中を伝わってゆく。その音の外環に猫は、前脚で思い切り猫パンチを喰らわせて、音の広がりを止めてしまった。

振動は、そこに佇んだまま戻る事も進む事もできなくなった。

「しかし?」

「今できた、閉じた空間にお前さんを全部放り込むんだよ!」と猫は、駆けずり周りバラバラになった僕を前脚の爪で、引っかけては、音の閉じた空間に放り込んだ。

「どうだい?」全部の紐を放り込んだ挙げ句、猫は訊いた。僕は、球体の閉じた空間に閉じ込められたのだが、特に違和感はない。各糸は、てんでバラバラに音を奏でているが、僕自身は、この閉じた空間の中では全部揃っているのが分った。

「なんとも、不思議な気分だよ」僕は、言った。僕を囲んでいる空間の外面が振動しながら色を変化させた。

「これは、縮んだり、膨らんだり、はじけたりしないの?」僕の中の糸は、空間の側面にくっついたり、離れたり、あっちの振動数が変化すると、こっちでも変化したりして、落ち着きがない感じだ。それでも、意思はぶれないでいた。

「球体状態を保つ振動数が決まっていてね、その振動数で空間の境界が震えている限り、変化はしないさ」猫は、耳を床にこすりつけた。まるで痒いようだ。

「それより、我々は食事に取りかかりたいのだが」黒シルクハットが言った。

「そっか、そっか、じゃあ我々も休みがてらご相伴に預かろうか」猫は、今度は手で顔をこすった。

「どうぞ、ただあなた方の食べ物があるかは分りませんけど、椅子だけはありますから」黒シルクハットがそう言うと、他の吸血鬼達も屋上のドアをくぐって言った。僕も行こうとしたが、どうにもこうにも今まで風任せだっただけに、自分の意思で動くことが出来そうにない

「あれ、動けないぞ」と言うと。猫が僕の上にのっかり、ぴょんぴょんと跳ねてみせた。「遊んでいないで、行こうよ」

「だから、行こうってんだよ」猫がさらに大きくジャンプをして僕の上に降りた瞬間、僕は、塔の屋上の床をすり抜けて、下降を始めた。途中で、階段をゆっくり降りてくる、吸血鬼達を追い越して、どすんと一つの部屋に降り立った。


 そこは、石造りの円形の部屋で、中央には円形のテーブルと座面が丸く背もたれも丸い椅子が3脚テーブルに添えられていた。僕らの椅子は無さそうに見えたが、猫や僕には必要が無さそうに思えた。部屋の隅には、木製の四角い戸棚が置かれていた。そのガラスの扉の向こうには、沢山の瓶が置いてあるのが見えた。そしてその戸棚の隣には、戸棚の半分ほどの高さのある、四角い箱が置いてあった。

 周りの石の壁面からは、幽鬼が壁をすり抜けて現れては、また壁の中に吸い込まれて行った。

「あの幽鬼はなんだい」こっそりと猫に訊くと

「吸血鬼に殺された命達だよ」猫も幽鬼達が現れては消えて行く様を、頭を左右に動かしながら見て居た。


 やがて吸血鬼達が、ドアを開けてぞろぞろ入ってくると、各自椅子に座り、手にした果物をテーブルに置いた。そして、両肘をテーブルに付けて、掌を組み、小さい声で何かお祈りのような行為をした。それが終わると赤いシルクハットが、立ち上がって棚の前に立つと、扉をあけて、中からいくつもの瓶を取り出しては、テーブルに座ったまま手を伸ばした白いシルクハットの手に渡した。最後に何かの木でできたようなストローが沢山入ったカップを渡した。

 赤いシルクハットが席に戻ると、各々ストローをカップから抜いて口にくわえると、各自目の前にある果物にそれを突き刺し、ちゅうちゅうと汁を吸い始めた。


 まるで、痩せ細った蚊が、果汁を吸っているようだ。彼らは、ストローを時々無造作に回して果肉を崩したりしながら、無言のまま果汁を吸い続け、最後まで吸い取ってしまうと、テーブルに置かれた瓶に手を伸ばしては、中に入っている錠剤を一錠づつ口に放り込んだ。最後に、白いシルクハットが白い箱についている取っ手を引いて、僅かに白濁した液体が入った袋を取り出し、テーブルの上に置き、棚からは、ガラスのコップを取り出してめいめいの前に置いた。3人は丁寧に、液体を同じ分量だけ分け、それにストローを差し込んで呑んだ。


 それで全ての食事を終えたようだった。彼らは再び、肘をテーブルにつけ手を組み何かをぶつぶつと唱えた。それが彼らの神なのか、ただの儀式なのかは分らなかった。


「よくまぁ、それで足りるもんだ」猫が、呆れたように言った。「動物性のタンパク質が無いと、俺は死んでしまいそうだよ」それに、黒いシルクハットが答えた。

「我々の活動時間は短いし、必要最小限の栄養さえあれば、永続的に生きてゆけますからね。人を狩り、我々の仲間にしてしまうのは簡単ですけど、それではいつか、貴重な資源が枯渇してしまいます。そもそも人も自身の過ちなのか、そういう運命なのか、衰退の道を辿っていますから、我々もうかうかしては居られない」

「人間牧場でも作るかね?」

「あいつらは、食い意地が張っているしね」と赤いシルクハットが言った。「彼らを食わすために、牛や豚を飼い、穀物を育てるとなれば、エネルギーの浪費だよ。それだったら、最終捕食者の私達がベジタリアンになれば済むことだ。いつか人が居なくなっても、我々は存続可能だしね」

「さて、歯でも磨いて、寝ますか」白いシルクハットが、立ち上がった。「あなた方はお好きにどうぞ」

「ちょっとその前に、さっきの液体は何だい?サプリでもなさそうだけど」猫が訊いた、多分興味が湧いたのだろう。

「初春にだけ採取できる、白樺の樹液です。微かに甘い水ですけど、芯から活力が湧く気分がするのですよ」黒いシルクハットが立ち上がりながら答えた。

「呑んでいい?」

「申し訳ないですが、数がそうそう採れないものですから、初春に3人で丁度一年分を採って冷凍保存してるのです」と慇懃に断りを入れた。


「分ったよ、おやすみ。俺は、森でネズミでも探すさ」猫は黒、赤、白の順で出て行こうとする、彼らの背中に言うと、何かむしゃくしゃしているのか、壁で爪を研ぎ始めた。

「どうぞ、出口までは案内しましょう」最後尾のシルクハットが振り返った。「古い建物なので、増築したり壊したりで廊下が迷路の様なのです」

「最初の設計が甘かったんだろうね、増築可能なように作っておけばよかったんだ」

猫の言葉に、白いシルクハットは答えなかった。

「出来の悪いソフトウェアってところか、機能の追加でも修正が多岐に渡り、障害を修正すると、他で別の障害が発生してね」僕は、けらけら笑った。猫も、白いシルクハットも黙ったまま先を進んだ。壁龕にある蝋燭が、暗い石造りの廊下の先を照らしていた。


 外に通じる扉のある部屋は、埃や蜘蛛の巣で覆われていた。

「汚い部屋だなあ」猫は、体に付いたゴミを舌で舐め取っていた。

「私達は、塔の屋上が通用門になりますし、お客もおりませんから」そう言って、扉の横にあるハンドルを回し始めた。すると、扉にしっかりはめ込まれた閂が、キリキリという音と共に、壁の中に吸い込まれていった。

すっかり、閂が抜かれると、彼はドアを両手で押し開いた。夜の風が入ってきた。

「さぁ、狩りの時間だ」猫が脱兎のように飛び出した。僕は、ふわふわとしたまま、風に押し戻されて、扉をなかなか出る事ができないままだったが、白いシルクハットが、そっと僕を押してくれたので、晴れて暗闇の中に放りだされ、後ろで扉が静かに閉まった。


 風に煽られ、枝に弾かれ、森の中をまるでピンボールマシンのボールの様に僕は、駆け巡った。そして、森の中の小さな、広場みたいな場所にでた。巨木が折り重なる様に倒れて朽ちていた。その巨木には苔が生し、周りには草が絨毯の様に生え、高さがまだ低い木の若木が数本、星空を仰いでいた。


 素敵な夜空だ、と思った時、つむじ風が沸き起こり、僕は森の上に向かって放り出された。そのまま風にのり、ふわふわとしていると、突然強い風に巻き込まれ、風のながれに流されるままに、空に放たれたたんぽぽの種子の様に飛ばされて行った。

「おい、猫!何処にいったんだよ」と叫んでも声は、風にかき消されるばかりだ。


 ふわふわしている間に、陽が昇ってきた。すると、大きな森が、如何にでたらめな模様をしているのかが見えてきた。森はパッチワークの様にあちこちで新緑や、うっそうとした緑や、枯れ色や、そして錦秋の色になっているのだ。呆れていると、周囲の空気がやんわりと暖まってくるのが感じられた、やがて上昇気流が発生すれば、もっと空高く上がりそうな気がした。

 そこへ、蜘蛛の糸がくっついた。蜘蛛の巣がこんな空の真ん中にある筈はない、蜘蛛の糸は、振動していた。風を受け、電線が鳴るように、しかしあの気の滅入るような、音ではなかった。


旅にでようよ

遠く空に舞い上がって

新しい世界を見よう

此所には、沢山の仲間も居るけど

その分、巣を張る場所がない



旅に出ようよ

風に糸を乗せて

きままな飛行をしよう

此所には、沢山の思いでもあるけど

出会いは、じっとしても始まらない



旅にでようよ

恋人を探しに

告白なんて野暮はしない

互いに何度も遊び歩けば

いつかは、二人は一緒になる



そして、糸を辿って一匹の蜘蛛がやってきた。

「ありゃりゃ、なんてこった」蜘蛛が、すっとんきょうな声を出した。「まさか、空中に糸が絡むなんてなぁ」

「こっちこそ、空中で蜘蛛の糸に絡まるとは思ってもみなかったよ」

「なんだい、あんたは?」蜘蛛は、長い足でしかり僕にしがみついた

「まぁ、こんな姿の者だよ。」

「なんで、こんな所に居るんだ?」

「風に飛ばされてこの始末」

「どこかに行く途中ってわけでもなさそうだな」

「はい、現状は、何処へ行くんだい?と訊かれたら、風に訊いてくれと答えるしかないよ」

「俺も似たようなものだけど、流石に降りないと巣が張れないんでな」蜘蛛は、お尻をひょいと持ち上げると、糸を風に乗せた。「俺は、さっさと行くよ」

「頼むから、僕も降ろして欲しいものなんだけど」

「はぁ?」

「お願い・・・」

「糸の強度しだいだが・・・」と蜘蛛は、僕の周りをぐるぐる周りながら、糸を絡め、それから空中に向かって、5本の糸を流し、最初の糸は切り離してしまった。5本の糸は、整然と同じ距離を保って風に流された。

 やがて、糸の先端が何かにくっついて固定されたらしく、糸がピンと張り、僕らは、凧のように、風を孕んだ。蜘蛛はじわりじわりと糸をたぐりよせ始めた。

風に飛ばされてきた、落ち葉に青葉、花びら、何かが書かれた紙、丸まった動物の体毛、鳥の羽根、蝶や蜻蛉が糸に捕まったり離れたりして行った。それらは、あるときは糸を爪弾き、あるときは風に吹かれ、震える糸の波長を変えて、音楽へと変化を始めた。

 蜘蛛が必死に糸を引いている間、僕はその音を楽しんで聞いていたが、糸から生じた音は、空気の中でもつれ合い、ひとつの塊となると、やがて翼を持って羽ばたいて旋回をし、綺麗な声で何度も鳴き続けては、遠くの空に消えて行った。


 僕らは、やがて一本の大きな木に到着した。蜘蛛は、そこで巣を張り始め、僕は凪を待って地表に降りた。僅かな風に押されて山の中を漂ってゆくと。一本のレンガ道に出会い、僕はその道を辿ってゆくことにした。道の両脇には、秋の化粧をした木々が街路樹として綺麗に並んでいて、落ち葉がレンガ道を彷徨っていた。


 レンガ道は、レンガの階段となりその先には3階建てのレンガの家が建っていた。その家には、大きな窓が2階と3階に3つづつあったが、こういう建物に付きもののベランダは無かった、1階には通用口の開き扉があるだけで、窓は無かった。

 

その扉が開いて、一人の年老いた女性が出てきた。浅くフードを被り、風にロングコートをはためかし、片手には小さいトランクを持ち、もう一方の手で襟を押さえているのか、首元でじっと握り拳を握りしめているようにも見えた。足は、黒のロングブーツで包まれ、彼女が歩を進める度にカツンカツンという音が響いた。


 そして、出て来た建物の6つの窓からは、出てきた女性とそっくりな顔が、女性を見下ろしていた。6つの口は罵詈雑言を放ち、それは風を呼び家から出て来た女性を打ち、女性が出て来た扉が再度開くと、風に乗ってゴミや破れた紙や虫が飛び出してきた。それらの飛び出してきたものは、渦を巻きながら女性を取り巻いた。

 しかし、その女性は、どんぐりのような顔立ちに埋め込まれた大きな瞳に何の感情も浮かべずに、歩を進めるだけだった。


 僕は、その風に微かに揺らめいたが、指向性があるのか、何か魔術的なものなのか、風は女性にまとわり付くだけだった。


 やがて、女性はまっすぐにしか向いていない目を、僕に向けた。興味があるとは言えない、無関心なまま、そこに何かがあるという目だ。

「やあ」と僕は声を掛けた。「良い天気ですね」

「いや、空は、砂嵐のような色だ」女性は、歩みを止めて空を見上げた。

「え?」と思い、空を見れば、女性の言う通り、赤茶けた空だった。ずっと前からこういう空だったのか、今こういう空になってしまったのかは分らなかった。


「あの、アパートは何だい」と訊いた。

「そういうお前は何者だ?」女性は、聞き返した。

「梟にバラバラにされた後、閉じた空間に詰め込まれたんだ。まぁ、光も音も物質も波だから、それを感じ取れれば、こういう風に意思疎通も出来るみたいだね」

「面白いな、触ってもいいかな」女性は、胸元で握りしめていた手を解き、僕の方に伸ばした。訊く前から触れる気だ。

「多分、害はないと思うけど」はっきり言って自信はない、蜘蛛が大丈夫だったから問題はないだろう

「ふうん」と女性の手が触れた、その途端女性の思考や僕の思考が、ぐちゃぐちゃになってきた。そしてぱっと女性は手を離した。いや、離したのではなかった、猫が空から降ってきて、女性の腕に当たったのだ。猫は猫らしく身を捻らせて、四本の脚をぱっと地面につけて着地した。

「大丈夫かい」猫は、女性に訊いた。

「ええ、まぁなんか危ない存在みたいね」女性は、鞄を地面に落としていて、僕を触った腕を片方の手でさすっていた。

「こっちは心配してくれないのかい」僕は猫に訊いた。

「大丈夫そうじゃん」猫は、あっさりと言った。「そういう体なんだし」

「差別だ、ジェンダーだ。」僕は非難したが、猫はそっぽを向くついでに、女性の顔を見上げた。

「それより、なんだいありゃ。」猫は目を集合住宅に向けた。非難の雄叫びは未だ続いていた。

「まぁ、ああいう所かな」女性は、あっさり言った。

「みんな同じ顔だけど」猫は、集合住宅から出ている顔と女性の顔を見比べた。

「みんなペルソナよ。他者への非難を続けている内に自分の顔を失ってしまった人達」

「あんたも、そうだったの」僕が訊くと女性は頷いた。女性の顔の輪郭が丸みを帯びて来たように感じた。

「でも、もう飽きた。他人の行動に意見してるだけで、あとは空っぽ。非難以外生み出せない非生産的な人種。自分だけが正しいと思い込んでいる愚かな人々」

「まぁ、正論と思って語っている奴は、皆自己陶酔しているだけさ」猫は、自分の手を舐めた。「そして、確かな証拠もない正論とやらが、なにか自分が信じたい考えに似ているというだけで、それの正当性も確かめないまま尻馬に乗っているだけの白痴どもも居る」

「だから、決別してきたのよ、あいつらと」女性は、フードを取って後ろを振り向いた。風がフードをはためかす。ゴミがまだロンドを踊っている。罵声が、聞こえる。

「何処へ行く気だ」罵声の中にそんな声が混じっていた。

「世界へ、自分の目と耳を信じて、そして寛容さを探すの」女性は、罵声に対して、消えそうな言葉で返した。

「いいな、世界」僕は、まだこの世界を知らない。


「行くわ」女性は、去って行った。つむじ風は彼女を追う事はなく、その場でゴミを舞上げていた。僕達は、ゆっくり去って行く彼女を目で追いかけたが、やがてその姿は、景色の中に埋もれて行った。


「おい」と声がした。声のした方には、燕尾服を着て、シルクハットを被り、手にはステッキと皮製でぱんぱんに膨れ上がった鞄を持った、青白い顔の4人組が立っていた。

「何かご用で?」と訊くと猫は、僕の方を振り向いて言った。「銀行の取り立て屋さんだよ」

「すると、僕は多分用なしだ。銀行には預けてはいるが、借りては居ない」

「嘘を付け!」と銀行屋Aが言った。僕には、4人組の違いがどうもはっきりしないのだ。そもそも名乗らない奴等はアルファベットか数字で考えるしかない

「この世界で生きている者は皆、借りがあるんだ。」

「なら借用書を出してみろよ」僕は、反論した。

「良いだろう、しかし借用書代も発生する事を忘れるなよ」銀行屋Bが、ステッキで僕の球体面をポンと叩くと、そこから一枚の紙がふわりと現れて、銀行屋Bがそれを素早く手に取った。

「この得体の知れない半径1メートルの物質は、この世界で3/4π立法メートルの体積を、借りている。また、移動においても、この世界の重力および風力を使用している。」銀行屋Bは、懐から電卓を取り出してテンキーを打った。「こいつには、100万クレジットの借金がある」

「待て、こいつの足元の猫はお前のだな」銀行屋Cが突然割り込んできた。猫は可愛くにゃあと鳴いて、僕に頬ずりをした。このおかしな情況では、猫にはそっぽを向いて欲しいところだというのに

「猫が呼吸に使う空気、そして猫が占有している空間体積、そして飲料や食料、しめて50万クレジットだ。」銀行屋Cは、電卓を持っているBに言うと。Bは即座にキーを連打した。

「一体なんだ、こりゃ」

「なんだこりゃではない、この世界は、全て我が銀行のもの、この世界に存在するものはすべて利息を払う事に決まっている」銀行屋Dは、Bの手元にある電卓をのぞき込んだ、「お前が払うべき利息は、15万クレジットだ」

「なんだ、その暴利は?あるわけないだろ、そもそもこの姿で金なんか持っていられないよ。払えないよ」

「払えない?」4人が声を揃えた。ソプラノ、アルト、バス、テノールで見事にハモっていた。「ありえない」


ありえない、ありえない

借りたお金には、利息がつくのに

払わないなんて、ありえない


ありえない、ありえない

全ての空間は、借地なのに

払わないなら、追い出すぞ


ありえない、ありえない

窒素酸素水素、空気は有料

踏み倒しなんて、ありえない



ありえない、ありえない

世界は銀行のものだから

皆全てを借りて生きている


ありえない、ありえない

借りたお金には、利息がつくのに

払わないなんて、ありえない



さあ払え、さあ払え

今払え、直ぐ払え


「無理だってば」僕は、悲痛の叫びで彼らの歌を遮った。

「無理?」再び4人のコーラス、4人は顔を見合わせた。「返済計画を立てましょうか?」



払えない時には、返済計画

無理なく、身の丈にあった形で

返済計画


払えない時には、返済計画

時間がかかっても大丈夫、安心な

返済計画


払えない時には、返済計画

収入がないなら、その糧をご案内

返済計画


払えない時には、返済計画

気がつけば、きっと返済済みの

返済計画


ご相談承ります。ご相談承ります。

どうぞ、窓口へ


「待って、待って」僕は、歌を再度止めた。「意味分かんないよ」


「分らない?」4人は、一斉に片手で顎を掴む仕草をした。

「分らない?それは、この世の摂理を理解できていないということか?」

「どう教えて差し上げればよろしいことやら」

「強制取り立てをしましょうか?」

「それには、まずは上司の承認が必要ですね」

「さてさて」

「仕方ない、どうせ徴収したとしても、少額でしょうから、まずはあの建物に行きましょう、それからでも遅くはない」


ああ、建物、建物

空間を占有する贅沢品

他者を阻む贅沢品

太陽の光を無駄にする贅沢品

雨を地面に与えない贅沢品

風を種から奪う贅沢品

ああ、道路、道路

行き来の自由を奪う贅沢品

山から石を奪った贅沢品

・・・


FAID OUT


「やつらを放っておいて、どこかに行こうか」猫に言うと、猫はにゃあと頷いた。


 来た道を引き返すと、レンガ道沿いに広がる森には蜘蛛の巣がはびこっていた。あの蜘蛛の巣なのだろうか、ならいっそあの糸にさっきの蚊みたいにうるさい銀行家が絡まれてしまえば良いのにと思った。


「しかし、蜘蛛の巣だらけの森だなぁ」

「やぁ、生きていたかい」と聞いた事のある声がした。しかし声はすれども姿は見えずだ。

「何処にいるんだい、蜘蛛だろ?」

「今は、何処に居るのかなぁ、一寸分らないや」声を掛けておいて、それは無いと思う。

「でも、近くにいるんだろ、声がする」

「糸を、震わせて音を出しているだけさ、お前さんと大差ない、糸からあんたの声が聞こえたのでね、一寸今いるところから、ちょっかいを出してみた」

「凄いねえ、僕は近くにある音しか分らないのに」

「まずは、この森を俺の糸の支配下に置いたからね。森の近くの音や獲物の場所は、よく分るのさ。あとは少しずつ世界に糸を拡散しようと思っていてね」


「世界?そういえばここは、どれほど広いんだ?」僕は、足元の猫に訊いた。

「君が、行ける範囲は全てこの世界だよ」猫が、瞳を大きく膨らませて言った。

「はぁ?だから、行ける範囲はどれくらいなんだ?」

「君が、移動するとそこに世界ができる。だから、行けるところは全て世界さ」

「はぁ?無限ってこと?」

「いや、君が永遠に歩みを止めれば、世界はそこで終わる」

「蜘蛛さんは、どうやって世界に糸を張り巡らすつもりんなんだ」

「蜘蛛の子を散らすのさ」蜘蛛が応えた。どうやら、雌蜘蛛だったようだ。「此所で、糸を広げる、私の子らが巣の先端に行き、更に糸を張り巡らす、そしてその子らの子が更に糸を張り巡らし、その子の子がまた・・・」解ったと言って僕は、彼女の言葉を遮った。

「で、糸を巡らしてどうすんだい」

「情報を得るんだよ。世界と世界に住まう者達のね。そして私は、この世界の支配者になる」蜘蛛は、壮大な夢を語るつもりのようだ。「情報こそ、全てのリソースだ。この世を構成する素粒子から、宇宙サイズのものまで全ては情報の塊だ。」

「宇宙ときたか!」と言ったところでふと思った。「そういや、ここでは宇宙ってどうなっているんだろ、こんな姿になった時には星が見えたと思ったけど」

「行ってみるかい?」猫が、にやりと笑った。「星のあるところへ」

「いや、辞める。よく分らないこの地ベタの上でさえ、理解できないのに。」

「じゃあ私と一緒にいたら、居ながらにして、全てが見聞きできるわよ」蜘蛛が、誘った。

「いや、こんな姿でも動く方が好きなんだ。」僕は転がった。「そもそも森羅万象の全ての情報なんかどうやって処理していいか解らないよ。」

「情報の取捨選択ができないやつには、この巣で暮らすのは難しいな」蜘蛛は、残念そうであり、僕を見下しているようでもあった。

「でもさ、この巣の糸がピンと弾かれてさ、餌が引っかかったと思って行ってみれば、無慈悲な狩人ハチに捕まることもあるかもしれないだろ?」

「ああ、そうかもねぇ。私の子達なら、経験が少ないからね。でも私は、ちゃんと糸の振動の正しさを調べるよ」

「あんた、でかいからね。よほど長い間生きてきたんだ」

「そうだね、もう解らなくなるくらいだ」

「行くよ、糸を見つけたら弾いてあげるよ」

「ああ、できるだけ良い音色で弾いておくれ」



 僕と一匹は、ふわふわと旅を続けた。「面白い所はないのかね」猫に訊くと。

「ちょっとしたテーマパークがあるよ」と返事をした。

「何か、面白いんだい?」

「ジェットコースターかな、かなりスリリングだ」

「へぇ、何処にあるんだい」僕は、周りを見回したが、道と森以外は無い。

「何処って訳じゃあない、注文すれば持ってきてくれる」

「はぁ?」頭の中を空を飛ぶ遊園地がやってきて、どすんと着地する姿が思い浮かんだ。

「なんて言うテーマパークなんだ?」

「Low Hight Coaster略してLHC」

「どっかのサイクロトロンみたいだ、あがったり、下がったりが激しいのかな」

「やってっみる?」

「まぁ、ちょっとだけ話のネタにいいかな」

「あいよ」と猫は、顔を空に向けてぬぁぁぁごと唸った。

「そんなんで来るのかい?」

「ああ、出前は迅速。空間の土手っ腹に穴あけりゃ、そこはLHCへの入り口さ」と僕の目の前の景色がゆがみ始めた。

「そりゃ、行って楽しんでこいや」猫は背を向けると、尻尾でペシッと僕を叩いた。僕はふわふわっと、ゆがみ始めた景色の中に放り込まれて行った。

「おい、猫お前は行かないのか?」

「俺は、行かない、死にたくないもの」

「死ぬって・・・おい」

「お前は大丈夫さ」


 いきなり真っ暗な所に放り出されるなり、僕は徐々に加速されて行った。まずは上昇かと思ったが、下りが最初に来た。しかし、一向に加速が収まらない、空気の抵抗は感じないが、僕自身、強い加速のために変形しそうだ。その加速は、前進するだけでは無かった、進行方向左手にも常時加速感が追従してくる。どうやら、ぐるぐると周りながら加速しているようだ。ジェットコースターとすれば、下り続けるスクリューコースターって所なのだろうか?しかし、僕にはシートベルトはない、椅子も無い。

 周り続けている間に、自分の重さを感じた。凄く重い、そして、だんだんぺったんこになってきている。しかし、僕自身の体積は変わっていないようで、扁平になって広がっている感じがした。いや、これは重くなってきているのでない、加速方向に表面積が増えてきたので、何かの抵抗が増えたのだ。その存在は見えないが、それが発生している場のようなものを感じた。しかし、加速はその抵抗に抗うように強くなってくる。

 まるで、波間を行く高速艇だ、速度を上げれば上げるほど液体の抵抗が増し、それに負けないようにさらにスクリューの回転を上げ、さらに抵抗を受ける船だ。


 速度の限界が来たように思えた頃、僕はバラバラにされてゆくような感じを受けた。僕の中の何本かの糸が、扁平になった僕の体から抜けだし先行始めたのだ。しかも、光の波動の様に、色々な角度で正弦波を打っている。その糸は、どんどん先行するが、糸のさきっぽは僕にくっついたままだ。


 突然何かに衝突した途端、僕の外殻は壊れ、中身を一瞬放り出したが、僕を閉じ込めていた空間が、瞬く間に再構成され、ふらふらしている紐をまた取り込んでしまった。

 ただ、そのうち何本かは、逃げてしまったようだ。また、僕の記憶がどこかに行ってしまったのだろうか。



 ポンという音と共に、僕は元に居た場所に戻っていた。猫は、腹ばいになって欠伸をかいていた。

「面白かったかい?」猫は僕に訊いた。

「全然面白くなかった」僕は、疲れただけだった。「しんどいだけ」

「次は何処に行く?」

「もういい、戻りたい」

「戻りたい?何処にだい?何時にだい?」意地悪そうに猫は言った。


「河の畔に…」

「それは、まだ無理だな」

「なんでだよ、勝手にこんな所に連れてきてさ」

「いやいや、お前が勝手にこっちに、入って来てしまったんだよ」

「いやいや、お前が俺をこっちに連れてきたんだよ」

「いやいや、お前が俺の目を見るからだ」

「いやいや、お前が見ろと言ったからだ」

「いやいや、見ない選択肢もあったぞ」

「いやいや、見るように誘導するからだ」


空しい、やり取りが続いた。

夜は更け、世界は闇に飲み込まれる。

それでも、ピンと張った闇のカーテンは

幾億、幾百億、幾千億、幾兆回も使っているから

あちこちに穴が空いて光りが漏れている

繕ったりしていても、ぱらぱらと夜の綻びが

落ちてきて、辺りを飛び交う


「生地が足りないのさ」夜が言う

「仕方ないよ、どんどん空間は成長するのだから」

蚕達は、時間と空間を吐き出すが、

それから布を織っても織っても

追いつかない、夜はボロボロになりながら

朝までじっと、漆黒の布を張り続ける


「あそこで、泊まろうか」猫が、蝙蝠が飛びかう森の出口で

一軒の旅籠を見つけた

「こんな体でも、泊めてくれるかなぁ」

「ここは、多様性、多妖精、多要請、多夭逝、多妖星、むにゃむにゃな世界だからさ、大丈夫さ」


「今晩は」とドアを開けると、中は蜘蛛の巣だらけだった。あの蜘蛛の糸がこんなところにもと思ったが、単に廃墟としているようだった


「どうやら、廃屋らしい」と僕が言うと、奥から椅子が歩いてきた。

「ようこそ、やる気なし亭へ」と背もたれを前に曲げてお辞儀をした。

「一泊、泊めていただけないかな」猫が、椅子を見上げて言った。

「よろしいですけど、部屋は一つしか空いてませんよ」椅子は、前脚を器用に曲げて、蜘蛛の巣だらけの階段の上を指した。

「満室?なの?」僕は、おそるおそる訊いた

「はい、一室以外全て埋まっております」

「失礼だけど、えらく手入れがされていないようだけど」猫が、ぴょんと埃だらけの、カウンターの上に登った。

「はい、主人も、客も、活力を失ってしまって、この旅籠に同化しつつあるんです。椅子の身では掃除はできませんし」椅子は、そう言いながら、埃の積もった床に跡を残しながらカウンターに向かった。

「同化?」僕は、はてと思った。「どういう状態?」

「店主の部屋も、他のお客の部屋も鍵は掛かっていませんから、勝手に見てもいいですよ。」

「そりゃプライバシーってどうなのよ?」僕は、不安になった。普通勝手に人の部屋を覗いたら怒られるだろう。

「さぁ、ああなってしまっては、無いのではないでしょうか?もう部屋の一部ですから」

「へぇ、同化ってなんだろ。面白そうだから見てみよ、ちなみに食事は?」猫は、埃が積もった宿帳に、猫と球体と書いた。

「こんな情況ですから、有りません。ただ、地下に倉庫がありますから、缶とか瓶は残っているかも知れません。そこから勝手に調達して構いません」

「僕は、食事は要らないよ。食べ物をどうやって食べたらいいか分らない。」

「俺も、古い缶とかは嫌だな。ワインも古すぎて駄目になっている気がする」猫は、カウンターから飛び降りると、階段に向かった。

「部屋は?」猫は思い出したように振り向いた。

「205号室です」椅子は、カウンターの奥にある部屋に行く途中で答えた。


2階に上がって、最初に扉を開けたのは、205ではなくて最初の部屋…つまり201だった。椅子が言った通り、鍵は掛かっておらず、あっさりと開いた。

 僕はふわふわと転がる様に移動するだけなので、猫の後ろに付き、猫はドアの隙間からにゃあにゃあ言いながら入室した。僕は、反動を付けてドアを全開にしてから入った。

 ベッド脇の椅子に、一人の女性は座って居たが、視線はいかにも不審者な僕達ではなく、じっと壁を見ていた。それ以外は特に変わった感じはしない、椅子の肘かけに腕を乗せぼうっとしている…ただそれだけのように見えた。

 しかし、よくよく見れば、その肘掛けに乗っている腕と見えたのは、肘掛けそのもので、軽く握られている指も、そのまま肘掛けのデザインになってしまっていた。そして両足も、椅子の脚と同化していている。さらに、椅子の座る部分の当て布が、そのデザインのまま女性の服となっていた。女性の頭が、ゆっくりゆっくりと僕らの方を向いて、目が合ったと思うと、口がぽかんと開き又ゆっくりと閉じて、頭がまたゆっくりと元の位置に戻った。


 202号室は、男だった。こちらはもっと悲惨で、布団を掛けずにベッドの上、仰向けになっているようだったが、服はシーツと同化してしまい、枕に目鼻と口がついていた。 両手、両足、指は何処にあるのかと思えば、シーツの皺となっているようだった。

「こんにちは」と言ってみたが、全く反応が無かった。猫が、ベッドの上に乗って体をすり寄せたり、後ろ脚で頭を掻いてからベッドから降りると、形状記憶の生地のように皺が元に戻ってしまった。


「どうなっているんだろうね」と廊下で猫に訊くと

「なんだろうねぇ」と頭を傾げるばかりだった


 203号室は、再び女性だった。部屋の壁と天井には大きな穴が空いているから、風が通り、月と星が見えた。部屋の真ん中には大きな水盤が天井の穴の真下に置かれていて、女性が、立ったままじっと水盤を見つめていた。部屋としては機能していないが、女性はどうやら人の姿は保っていた。

「何を見ているんだい」と猫が訊くと。女性は、目を大きく見開き、にやりと笑ったが何も答えなかった。僕に見えるのは、ガラスのように静かな水面に映る月と星だけだった。

猫が、飛び上がって水盤の縁に立つと、同心円状に波紋が広がり、月や星が揺れた。その途端、部屋の壁を破って、黄色く丸いボール状のものと、赤、白、青に輝く星型の物がばらばらと落ちてきた。

女性は、それらを拾い始めたが、球は滑り易いのかするりと手からこぼれ落ち、星型は鋭い刃物の様にそれに振れる女性の指を切り刻んだ。そうこうしている内に、球も星型も色が薄れて壊れてしまった。


女性は、ああ、ああと嘆くばかりで、僕らの方を見ずに壊れたものを、両手ですくって嘆いていた。猫が水盤の縁を蹴って降りると、また壁や天井を破って、星が落ちてきた。


 204号室には、壁に女性の肖像が書かれていた。白い透明感のある長いドレスを着ている。両肩が出ている。腕も裸足の足も透明感のある皮膚として描かれている若い女性だ。誰も居ない部屋。と思ったら、壁画の中の女性が横を向いて、壁の上を歩き始めた。まるで壁に投射した絵画あるいは、映画のようだ。女性は、ドアの近くの壁で正面を向いて、口を動かしたが、声は聞こえない。何度も口を動かしたが、何も聞こえない僕らは、ただ美しいその動く壁画を眺めているだけだった。壁画の女性は、やがて俯いて横を向くと、元の場所に戻ってしまった。


 205号室は、僕らの部屋だったので、そのまま猫はベッドの上に寝そべり、僕はふわふわとしていた。

「暇だ、暇だ」と猫が呟いた。「夜はこれからだというのに」

「未だ、見て居ない部屋があるだろ」

「あんな精気の無いものしか居ないなら、暇と同じだ」

「まぁ、世界がっかり名所でも見に行くと思えば、時間つぶしにはなるだろ」

「どれくらい、潰せるものやらだけどな」と猫は、四つ足でベッドの上に立つと、どさっと床に降りた。猫なら、もっと静かに降りられないものやら。



 206号室は、いわばゴミ部屋だった。ドアを開けた瞬間にえもいわれぬ匂いに、猫が扉を直ぐに閉めてしまったが、小さい空き缶がひとつ、廊下に出てきてしまっていた。

「こんな所に良く住めるな」猫がそう言って缶を前脚で蹴飛ばそうとした時、ドアの隙間から、触手のようなものが滑り出て、空き缶と猫と僕を絡めとり、部屋に引き込んでしまった。

「臭い臭い」猫が、爪で触手を引っ掻いたので、ややざらざらした触手からは、その体液なのか、緑色のどろどろしたものが滲み出てきた。

「俺の、俺の…」くぐもった声が部屋一杯に溜まったゴミの底の方から聞こえてきた。

「捨てないぞ、勿体ないから捨てないぞ」

「俺はゴミじゃあないぞ」僕は、思わず言った。

「ああ、ゴミじゃあない、何かに使える筈だ。ゴミなんかにしちゃあだめだ」声がすると更に沢山の触手が出てきて、山のようなゴミを大事そうに覆った。

「何に使うんだよ、空き缶をさ!」

「入れ物に出来る。棹を付けて糸を張れば楽器にもなる」声がそう言うと、触手の一本が何かの棒をゴミの中から拾いあげ、別の触手が鋭い先端で缶の横に穴をあけた。その穴に棒が強引に突っ込まれたが、それはそのままゴミの山にぽとんと落とされた。

「分っているよ」声が言った。「なんにも成らないって、俺には何も出来ないって、でも勿体ないって感じるんだ。沢山あれば、何かになるんじゃないかって思うんだよ。出て行け、出て行ってくれ」

いきなり触手は、僕らをドアの向こうに放り出した。一緒に、リンゴの芯が廊下に転がってきたけど、それを触手は掠って部屋の中に持ち去り、ドアは音を立てて閉まった。


「やはり部屋に戻ろう」猫は、汚れた毛並みを舌で繕いながら言った。

「あまり扉を開けたくないものだね」僕は同意した。

「しかし主人はどうなっているのだろうね」猫は、こんな目に遭ってもまだ興味を抱くところがあるようだった。



「一階は、カウンターとテーブルと椅子しか無かったと思ったけどな、そういや主人とやらは何処に引きこもっているんだろう」

「誰が引きこもっているって?」唐突に声がした。前から後ろから天井から聞こえてくる。

「まるで皿うどんだ」僕が、思わず言うと。猫が、毛繕いを止めて僕を見た。

「ああ、硬い麺に、とろりとしたスープが絡んだ肉に野菜に魚介、あの立体的な味わいはまさにサラウンド」

「下らん掛け合いはいいから、お前らもさっさと部屋に入ってくれないかね?」声が、響いた。

「何処にいるんだ」猫が言った。

「何処って、お前さんたちが私の中に居るんだよ」声が周り中から聞こえてくる。

「食われたってことかな?」僕は、周りを見回したが、壁から超酸っぱい粘液が染みだしてくる様子はない。

「誰がお前らを食うかよ」

「しかし、中に居るってことは、消化器官に入ってしまったということだよね」

「想像力の欠如…いいからさっさと部屋に戻れ」声は苛立っているようだった。「あいつが来る」


「あいつって?」

「ナイトメアだよ、知らないのか。このコロニーに住む者を食う気だ」

「このホテル、サンゴみたいなものなのかねぇ」猫が、のんびりと言った。

「よく分らないけど、危なそうだから部屋に行こうか」僕は猫に言った。

「そうだな、そろそろ眠いし」猫は欠伸をして部屋に向かった。

唐突に館内放送が流れた。

「このコロニーは、現在ナイトメアの襲撃を受けています。各自窓を閉め、安全な場所に避難してください。」


 僕らは、部屋に入ったが、天井が破けた部屋にいた住人はどうなるのかなと思った。

「食われるってなんだ?」僕は部屋の中でふらふらしながら呟くように言った。「死ぬのか?」

「死…生命の終わりか?」ホテルが訊いた。

「そう、そういう意味で言った」僕は、

「そういう意味で言うなら、誰も死なない、死にはしないが、辛い事になるかもしれない」

「辛い事?」

「ああ、心を休める場所を失うんだからね」

ミシミシと言う音と共に、壁にヒビが入ってきた。

「守るすべはないのか?」

「無いよ」

「ナイトメアの力は凄い…ただ、じっとして、私は普通の生活をしていますっていう態度さえ見せていれば、通り過ぎる事もある。でも、見つかってしまったようだ」

壁にできたヒビは裂け目となりその隙間からは、ヌルヌルとした触手が入り込んできた。「どうやら、旅の終わりってところかな」猫が笑った。「帰る潮時だ」

触手は、部屋一杯に入り込み。僕も猫も捕まえた、他の触手が猫を囓り採るようにその肉を蝕んでいったが、猫は欠伸をしていた。

僕も何も傷みとかは感じなかったが、どうやら同じ目に遭っているのだろう。

そして、光も音も重力の向きも感じなくなった。



 猫は、にやりと笑って、僕の方を一度振り向き。草むらの中に消えていった。

僕は、河原にいた。辺りを見回しても、何も変わっていない。あるいは、何かが変わったとしても、それに気がついていないだけだ。

 冬の星座は、しっかり見えている。悪い夢でも見たのだろう。僕は、家路へと向かった。


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