雪で暇な日
外は雪、しんしんと降り続いている。昨晩からずっとだ。ニュースでは電車の運行情報や高速道路の状況、そして転倒して大怪我をした人の情報ばかりが朝から流れている。こんな日に誰も来る筈はないし、僕も結露だらけの薄い金属のドアの向こうに出て行って寒い思いなんてしたくはない。
こんな暇な日には丁度良いかなと、昨晩下処理をしておいた砂肝を油で静かに煮ている。油の中には、他にニンニクとローズマリーの葉が入っている。
最初はプツプツと空気が湧いてくる。油に浸けた赤液棒状温度計の赤い液がゆっくりとしかし目には分かる早さで上がってくる。目標は80度を超えた付近、それを保ったまま3時間煮続けるのが目標だ。
「なんて事に、無駄に集中力を使っているんだい」雪のために仕事がないお月さんは、隣の部屋で炬燵に潜ってこっちを見ている。「そっちは暖房も無いのによく平気でいられるな」
「片面を太陽に直接炙られて、反面は極寒のあんたに言われる筋合いはない」と言い返したものの、確かにこのアパートはエアコンがあるのはお月さんが居る部屋だけで、台所は非常に寒い。古いアパートだし、契約時に電気以外の暖房器具は置かないように釘を刺されているのだが、暖かそうな電気温風機を台所で動かし、エアコンを動かしたら見事にブレーカーが落ちたので、エアコンか電気温風機のいずれかしか動かすことはできない。
寒い台所で僕が頼りにしているのは、もこもこの半纏とスエットパンツの下で頑張るあったかい股引である。
「なぁ、酒ないの?酒?」お月さんが、ねだってきた。
「どうせあるところ知っているでしょ」
「もちろん、でも勝手に飲むと怒るだろ」と炬燵から体を伸ばして、押し入れに手を掛け、中から一升瓶を取りだした。横目でラベルを見る限りは、僕の飲みかけの瓶だったのでほっとした。ザルのお月さんに、まだ味見もしていない酒を全部飲まれる訳にはいかない。
「肴は?」しばらくしてからお月さんは、更にねだってきた。肴もなしに茶碗酒ばかり飲むのは厳しいようだ。
「今、作っているところ」と僕はわざと意地悪く言った。台所では、ニンニクと砂肝の混ざった匂いがただよい、えもいわれぬ空気が充満している。肴は、探せば冷蔵庫に転がっているはずだった。
「何時できるんだい?」
「おおよそ、あと2時間30分」僕は、壁掛け時計を見て答えた。
「うそだろ」
「いや、真面目だ」
「しょうが無いなぁ」とお月さんは、のそのそと炬燵を出ると、おせんべいが入っていた四角い缶に手を伸ばした。そこには、お菓子を安く売ることを専門にしているお店で買った乾き物や、豆菓子が詰まっているのだ。それを缶ごと持ち上げて炬燵板の上にどんと乗せた。
「なんで、わざわざ時間と手間暇をかけてそんなものを作る必要があるんだい」くちゃくちゃと酢イカを食べながら、酒を流し込む奴が訊いた。
「ひとつ、食べたいから。ふたつ、作るのがすきだから、みっつ、暇だから」僕は、温度が高くなったのを見計らって、お鍋を火から下ろした。
「暇は暇として暇を楽しめばいいのに」
「じっとしているのが辛い時もあるからね」
「ふうん、じっとしていると、辛い事とかいつまでも反芻しちゃうもんな。」
「辛いとか、言うな」温度計が80度以下に下がり、再び鍋を弱火にかけた。
「なんだ、またフラれたか」
「ちゃうわい、先日オンラインで委託されていた仕事が終わって、再び無職になったから暇になったし、懐も寒いの、この砂肝も安かったから」
「銀行には、ため込んだのがたっぷりあるんだろ」
「あれは、万が一治療が可能になった時の予備費だよ」僕は、後頭部にある壊れたBMIインタフェースをいじってみせた。
「この雪は、お前さんの今の懐の寒さが具現化したものかもな」
「そんな馬鹿なことがあるかい、それより酒を全部飲まないでくれ」
「ああ、分かっているさ」と今度は、おせんべいを肴にして飲りはじめた。
大事な肴であるコンフィができあがった頃に、ドアがノックされた。ドアの向こうでは宅急便ですとの機械的な声がした。なんだろうと思ってドアをあけると、四つ足のロボットが、そこで犬のお座りの姿で待っていた。
「代引きが来ています」とロボットは、背中にあるディスプレイに伝票を表示させた。
見れば、僕がちょっと前にポチっとクリックしてしまった商品だった。プレミアム会員とかでないので、もっと遅く届くものと思っていたのにと伝票に記載された金額を見れば、現状手元にない額であるのが明確だった。
「ちょっと待ってくれる?」と僕が訊くと
「待機料金が追加されますけどよろしいですか」と返事があった。
「再配達は?」
「再配達料金が別途かかります」と冷たい声が返ってきた。
「待機、お願いします。」とコンフィを煮ているガスを止めた。
「了解しました」という声と共に、ディスプレイにいきなり経過時間と待機料金がいきなり表示された。僕は、雪の中を着の身着のままで飛び出し、一番近いコンビニに駆け込むと、お金を下ろして、財布にしまいこんだ。
コンビニから出ると、不思議と雪が止んでいたが、それでも寒いものは寒いし、雪で靴が濡れ、しもやけができそうだった。
「はい、料金ね」と家に帰って、無慈悲なロジスティクスわんこにお金を食わせると。背中がぱかんと割れて、箱がでてきた。
「おとりください」と言われるままに、箱を取り出すと、ロボットは、止んだ雪の中、小さい足跡を残して去って行った。
「はい、ご苦労さま」僕は、何気なく小さくなってゆくロボットに言った。
「お金、下ろしてきたのかい」お月さんは、真っ赤な顔になっていた。お菓子箱は、僅かの間にほとんど空にされていた。
「ああ、おかげで、懐が温かいよ。雪も止んだよ」
「え!」とお月さんは、窓を開けて空を見た。雪を降らせていた黒雲はいつの間にか去り、暗い青空がそこに広がっていた。
「どうやら、今夜はお仕事になりそうだね」僕は、空になった一升瓶を取り上げた。
「お前が、お金なんか下ろしてくるからだ」とお月さんはさっさと空に向かって行った。
日が完全に没してから、ふらふらと外を歩いていると、河川敷にはこども達が作った雪だるまが、あちこちで立っていた。そして大人達が作ったと思われる中途半端なかまくら、本格的なものを作るには、都会の雪では無理だろう。
やがて、東の空からは、真っ赤な顔をしたお月さんが、登り始めた。冷や酒を飲みすぎたから、しばらくすれば、高く上がる頃には、青くなるだろうと思われた。
僕は、部屋に戻ると、砂肝のコンフィをフライパンで焼いて、開封したての酒で一献やりはじめた。
どうせコンビニでお金を下ろしたのだから、ついでに何かお惣菜でも買えばよかったと後悔した。