河津桜
日向に出れば、ほのかに暖さを感じる頃、硬い芽をまだ閉ざしたままのソメイヨシノ並木の外れに申し訳程度に植えられた3本の河津桜が花を咲かせていた。
人々は、その木の下で花を愛でたり、写真に収めたりしていた。朱鷺色の花は春の日差しに暖められているようであり、周りの空気を暖めているようでもあった。
如月もそろそろ終わり、じっと花を愛でていれば、背中がお日様に暖められてなんとも心地よい日だった。
その花の天蓋の下の片隅に小さい花束が地面の上で萎れている。まだ、この桜が
3部咲ぐらいの頃だろうか、ここで一人の老人が死んでいた。ボロボロになった服を
何枚も重ね着し、底の抜けた靴をガムテープで補強していた。持ち物は、多分普通に
暮らしている僕らにとってはゴミが沢山詰まった薄くて補修だらけのバッグひとつだけ。そしてそれを結びつけてねぐらとどこかを移動するための新品同様のキャリーカート。
何時頃か老人がそこに来るようになったのかは定かではなかった。ただ、日差しのある昼間だけ、老人はその木の近くに陣取って日向ぼっこをしていた。散歩の度にその姿を
見かけたが、夜には何処かに行ってしまったし、雨の日にはどこかで雨宿りをしているのか、定位置には姿を見せなかった。だれも老人の存在は気にも留めていない素振りをしめすか、そこから距離を置いていた。
僕もまたそんな普通の人々の一人だった。老人にとってもきっと前を通り過ぎる冷たい風と僕の区別は付かないだろうと思っていた。
何時だっただろう、風はまだ冷たいけど、日差しが暖かく感じられるようになってきて地面もようやく若葉が萌え出し賑やかさを取り戻してきた頃、硬い桜の蕾の先がほんのり薄紅色に染まってきた頃、僕は思わず足を止めてつぶやいた「そろそろ咲くか」
「ああ、もう少しだねぇ」後ろの声に振り向くと、ホームレスの老人が座り込んでいた。
無視しようかなと思っていたら、しわがれた声が続いた。「願わくば花の下で春死なむ その如月の望月の頃」
「西行ですね」ついつい知ったかぶりで声が出てしまった。
「詩は知っているが、作者までは知らんよ」老人はそういって自分から会話を切りたそうだった。
「西行という僧侶が死ぬなら、お釈迦様と同じ時期に死にたいとの想いを詩にしたものですよ。実際に陰暦のその頃に入寂したそうです」
「もの知りだね。」
「いや、たまたま僕の友人の好きな歌でもあったのですよ。」僕は若い頃の友人の事を思い出した。彼は別に僧侶ではない、ただ病弱で春が好きだった。彼は、春を迎えることなく雪が降り積もる日に静かに息を引き取った。その病院はここからそう遠くない所にあった筈だ。
「早く咲くといいですね」僕は老人の返事を聞くこともなく、足早に立ち去った。
しかし、思わぬ寒波がやってきて、桜の開花は一旦おあづけになった。僕は部屋で丸くなり、先だって見つけた蕗の薹で作った蕗味噌を舐めながら昼から一杯やっているという自堕落な生活をしてしまった。
暖かい日差しが戻り、再び散歩にでるとまた、例の老人が同じ場所にいた。ホームレスに施しをしているNPOの女子学生が話しかけていたが、やがて自転車にまたがって去って行った。
「花、まだ咲きそうにないですね」なぜかついついまた言ってしまった。
「寒かったからね」老人は、咳をした。痰が絡んだような咳。「私は、花を見ずに死にそうだな」先日の会話を覚えていたようだった。
「また、3日くらいは暖かい日が続きそうですから、開花が進むかもしれませんよ」
「そっかそっか、それは嬉しい知らせだ」老人は、先ほど女子学生から貰ったと思われるパンを齧って青い空を見た。
そして、蕾は一気に膨らみ、ぽつんぽつんと開花を始めた。色の濃い河津桜だ。
「これから、見ごろになりますね」僕は、桜を見上げながら言った
「満開とはいかないけれど、これで気持ちよく往けるよ」老人はうなずいた
「理不尽な刷り込みをされたのなら、相談にゆくべきですよ」
「気が付いていたのかい?」
「ええ、人なら相当に匂っているものです」
「そうか、そうだね。でもこれは命令でもなんでもないよ、私のマスタの願いだ。そして私の願いでもある。マスタは花の咲くことがない遥か遠いそらの向こうで会社と共に亡くなった。私は、マスタの代理としてこの地上に残っていたんだが、なんせメンテナンス資金が無いのでね。こうして野良AIとしてマスタの最後の願いを・・・」
「僕は役人でもないし、野良AIを通報するほどできた市民じゃあない」
「それは有難い、最後の最後までこうしていたいんだ」
ある日、桜の下でAIが停止していた。手から落ちていたパンを鳩がついばんでいた。という。
満開になった桜の下の隅で少女が古い花束を新しいものに置き換えていた。
「亡くなったAIのためかい?」僕は、日向ぼっこをしながら訊いたが、突然声を掛けられたせいか、彼女は一瞬あたりをみまわしてから僕に気が付いた
「はい、でもあのおじいさんは人間ですよ」
「え?まさか、あの体はどうみたって・・・」
「おじいさん笑いながら言ってました、AIに間違われたって。それでなんか面白そうなので野良AIの振りをしてたって、おじさんの事だったのですね」
「え?」と言葉に詰まった僕を見て面白そうに彼女は事情を話した。
「おじいさんは、昔大きな事故で一命は取り留めたのですけど、体の中はほとんど機械に置き換えるしかなかったそうです。でも、そろそろ機械の寿命が来たので、交換しないといけなないのに、それを断ってました。いい加減最後くらいは自分で決めるって」
「そうかあ、せめて満開の花が見れるまではメンテナンスをすればよかったのに」
「いえ、見ていますよ」彼女は、自分の瞳を指差した。
「ここで」
「え?」
「お爺さんの目は私の目に移植したんです、今まで白黒の視覚ユニットだったのですけど、あれ色が解らなくて、お爺さんから頂いたのは光学式だから今はこうして花の色がよく分かるのですよ。私、こんな綺麗は花を見るのは初めてです。でもこの目って涙が出ないんですよ。」笑みを見せた少女は、背を向けて、さようならと去って行った。