花散雨
雨が降る。冷たい雨が車椅子の老女の肩を濡らした。僕の差し出した傘を、桜が見えないからという理由で断ったけれれども、既に日が暮れ、雲も厚いので僕の目にも淡い色の花びらは見えにくい。
老女の家族である大家さんは、一家して春風邪をひいて寝込み、何故か僕にお鉢が回されて、こうして遅い夜桜見物をしていた。それもこの雨だ、明日からは、いよいよ葉桜に変わってゆくのだろう。
見上げる桜は、とても大きくて毎年多くの人々の目を楽しませてきたものだった、しかし昨年の台風で根こそぎ倒れ、いくつもの枝が折れてしまった。
それを多くの人々の努力のかいもあって、なんとか持ち直し、沢山のつっかえ棒に支えられてなんとか今年も花を咲かせた。
この老女もおりしもその台風の日に外で庭木を固定していた縄を結び直している最中に脳梗塞で倒れ、治療とハビリで長い闘病生活を続けていた。
今日は、外泊の許可が出たけど、流石に風邪がうつっては困るので僕が病院から連れてきたのだけれども、慣れていない運転でナビの使い方が解らず道に迷い、しかも渋滞にはまってこんな時間になってしまったのだった。
「せっかくお互い直ったのにねぇ、綺麗な花が見たかったわ」老女は、聞き取りにくい言葉で言った。
「また、来年見れますよ」
「いやぁ、来年どころか明日があるかどうか」老女は、残念そうに言った。その時、ふと暖かな風が吹き、雨が小降りになった。
ふと上を見上げれば、お月さんがふーふーと雲を吹き飛ばしていた。そして、満月に照らされた満開の桜がふわりと漆黒の闇に浮かび上がった。
「これで、酒でもあればねぇ」と言う老女の声に合わせるように、僕はそっと小さい瓶を差し出した。
「気が利くねぇ」もっともそれは、大家さんに持っていけと渡されたものだ。昔から老女は酒豪とのことで倒れる日も既にかなり飲んでいたらしい、小さいシロップ入れのようなグラスに半分だけ酒を入れ、老女はそのグラスを通して桜を見るようにしてから一口飲んだ。尤も病気のせいで、ノンアルコールの日本酒だ。
「そういや、花見と言いつつも、何時も酒ばかり飲んでこうして花を満足に愛でることなんか無かったよ、綺麗だ。本当に綺麗だったんだね。」
僕もまた、少しお相伴に与かり閉じた傘に寄りかかって眺めていた。しかし少し体重を変にかけてしまったようで傘の柄が曲がってしまった。安いものだけに仕方ないなぁと思って戻そうとしたらこんどはポキンと折れてしまった。
「雨が止んでよかったな」と老女は、笑いながら言った。
そのあくる夜、お月さんが土砂降りの雨の中をやってきた。夕方からずっと続く雨だった。
「いやいや、あんとき雲にどいてもらったものだから、代わりに今夜降られてしまったよ」と相変わらず僕の酒をコップ酒に入れてゴクゴクと飲んだ。
「週間予報じゃ晴れマークだったのに、お天気お姉さんが泣いているよ。それに僕も」
「なんで?」
「合コンだったんだ…」
「珍しいなぁ、これから行くのか?」
「傘が壊れてしまったんだ。こんな土砂降りじゃあ家から出られないよ」僕は、コップをお月さんに向かって差し出した。