雪繭
体の芯まで冷えて行くような零下の気の中、漆黒の闇に成りそこね、灰色に覆われた深夜。聞こえるのはただ雪の落ちる音だけ、そして冷ややかな氷雪の香りが鼻腔を凍らせる
僕は、雪で真っ白に染まった土手の上に立ち、降りしきる雪の中を誰も居ない河川敷のグラウンドに降りて行く女性の背中を見ていた。彼女が残した足跡は、たちまち雪に埋もれ、その存在の証を隠してしまう。
彼女の足跡が残っているとすれば、僕の意識の中だけだろう
「直ぐ忘れるわよ」と彼女は言った。たった数分前にそう言った
「忘れる事ができればね」僕は小さい傘の中で体を寄せ合うようにして答えた。雪で傘が重くなっていた。
「いいえ、忘れるのよ。これから見ることも私に逢ったことも」彼女の肩に雪が降り積っていた。
その雪を払おうとした僕の手をすり抜けて彼女は傘を出た。
何故、追わないのだろう。僕は自分に問いかけた。いや、追えないのだ。来るなと彼女の背中は、見えない威圧感を放ちながら、雪の中を 歩き続け、土手を下って行った。
*
よたよたと歩いて彼女が僕の部屋に来たのは、何時だったのだろう。昔の様にもつい先ほどの事の様にも思える。覚えているのは、あの日もこんな雪の夜だったということだ。
こんな静まり返った夜に、僕はコタツの中に肩まですっかり埋もれたまま、外に出しっ放しのサボテンの鉢植えを心配していた。今朝がた迄は晴れていたので、夜半に荒れるとも知らずに日光浴をさせるつもりで外の日当たりの良い場所に置いたままだったのだ。
-やっぱり可愛そうだな-と意を決して炬燵から必死に匍匐しながら脱出すると、体に蓄えた暖かさを守るために、即座に半纏を羽織り急ぎ足で部屋を出た。
昼の間に何処もかしこも乾いてしまっていたので外は既に雪が積もり初めていた、周りの住宅の屋根という屋根はみな真っ白になっている。うっかり見とれていると、どんどん寒さが半纏の隙間から入ってきた。さぶさぶと一人ごとを言いながら小さい鉢植えを取って戻ると、一人の女性が僕の部屋の前に向かってふわふわとした足取りで歩いていた。女性の白く薄そうなコートがひどく頼りなさそうだった
-あれ?どこかですれ違ったかしら?-
と不思議に思っていると、女性は僕の部屋の前で足を止めてベルを押した。
「何か?」と僕は、彼女の背中に声をかけた。
面長の白い顔に長い睫の大きな瞳が僕を見た。綺麗だが、表情は能面のように動かなかった
「ここは私の家でしょうか?」
「…」僕は一瞬何を言っているのか理解ができなかった。やっと僅かな間を置いてから いえ、違いますけど。と答えた。そうですよねと女性は言ってドアから離れ僕とすれ違うとした。
「道が分からないのですか?」僕は白い息を吐きながら訊いた
「そうなら、そう訊きます」女性は足を止めた。
「私には帰る家が無いだけです。私を冷たい風や人の目や声から守ってくれる家が無いだけです」そしてまた歩きはじめた。風か彼女のコートをはためかせた
「住所は何処なの?」僕は再度訊いた
「分かっていれば、もう帰っていることでしょう」と女性は背を僕に向けたまま答えた。
なにかおかしい人だなとはっきり分かる感じがした。でも、もしこれが凍死にでもつながったら夢見が悪そうだな、とりあえず家に入れて、さっさと警察にでも電話をしようと考えた。
「寒いから、とりあえず中に入ります?」
「でも、そこはあなたの家でしょう?」 女性は振り向いた。
「そうだけど、このままじゃ凍えますよ」暫く女性は考えていた。そして上を眺めた
「ああ、雪が…雪が降っているのですね、すてきな雪。この雪に免じて一時お世話に
なりますね」
全くどこまでずれているのだろう、きっとどこかの病院から抜け出したに違いない
*
部屋に入れ、炬燵に入るのを勧めるとあっさりと足を入れたので、どうやら
雪女の類でないらしいことが分かって、僕はちょっとだけ、ほっとした。
名前を聞くと彼女は笑みを浮かべて
「分からないわ」と答えた。
「帰る家も分からない人が、名前を持っていても無駄なだけよ、どの表札も私を追い返すというのに」
僕は、どうしたものかと思い、台所で羊羹を切るついでに、電話の子機を持ち込んで
警察に電話をした。受話器は呼び出し音が鳴るばかりで、誰も出てくれない。何度掛けなおしても結果は同じだった。今日は何かあったのだろうか?再度掛けなおすつもりで僕はお茶を淹れ切った羊羹と楊枝を入れた小皿を炬燵板の上においた。
「よかったらどうぞ」ありがとうございますと女性は、頭を下げた。長い黒髪が滝のように流れて彼女の白い顔を隠した。そして女性は茶をすすり、そして羊羹を楊枝で刺して赤い唇を小さく開けた。こうしてみると、普通の綺麗な女性としか見る事ができない。
「美味しい」と女性は言って笑みをもらした
「スーパーの特売で買った奴なんですけどね」僕は照れ笑いをしてみせた。自分で食べてもべたつくような安っぽい味がする。
「でも、美味しいわ、こんな甘いもの何時食べたのかしらねぇ、でも家も名前も無いのが、記憶を持っていても意味無いわね」
僕は、失礼と言って、座を外して台所に入るとまた警察に電話をした。結果は同じで全く通じない。
古い電話機だけにとうとう壊れたかなと思い、携帯電話を取り出すと、なぜか圏外になっていた。今までこのアパートから携帯で電話をかけて圏外になったことは一度足りともないのに。雪のせいかなと僕は思った。
仕方なく電波の入りの良い外に出ようとして玄関をあけた途端、僕は尻餅を付きそうになった。そこには、一面の星が散らばっていた。上空だけではない、ドアから先をすっぱりと切り取ったように足元にも星が広がっている。どこもかしこも暗黒の空間が永劫のように広がっていて。あったはずの周囲の家がひとつもない、あるのは一面に星が広がる世界だった。ドアの向こうにあるのは、紛れもなく宇宙空間そのものだ。しかし不思議なことに空気が抜けて行かない。そして、星星は、ただそこにあるだけではなく、ゆっくりとではあるが視認できるほどには移動していた。あちこちに目を移してみれば、二つの銀河が衝突しあっている光景も見つかった。これは一体なんだ? 夢でも見ているのだろか?
僕はドアを閉めて、酔ったような足取りで、炬燵のある部屋に戻った。そこでは女性は、のんびりとお茶をすすりながら窓に向かって歩いている僕を目で追っていた。
僕は結露で覆われた窓をあけた。そこにあるのも、真っ暗な空間に浮かぶ無数の綺羅星だった。あまりにも唐突な風景に僕は口を利くことができなくなった。
この部屋は、唐突にどこぞと知れない宇宙空間の中に浮かんでいるのだった。
「なにか見えますの?」女性が炬燵の 中から声をかけた
「ええ、星が沢山」かすれた声がやっと出た。
「まぁ、そうですの?」と女性は炬燵から 出て僕の後ろに立った
「あら、本当に。だからって珍しくはないわ」
「なんで、これが不思議じゃないって?」
「行くあての無い私がこうして落ち着けば周りの方が、どこかに行ってしまっててもおかしくないもの、きっと私は何処にも居られないのよ」
「そんな馬鹿なこと、じゃあこの部屋の電気はどこから来ているんだ?」僕は灯りを放っている天井灯 を指した。
「さあ、分からないわ」
大きな恒星が見えた。その恒星にガスの尾を引っ張られながらひとつのほうき星が恒星に向かって飛んでいた。その姿もどんどん遠ざかって行く。
「この部屋は何処に向かっているんだろう?」
「どこにも行きやしないわよ。ただひたすらに彷徨うだけ。命が果てるまでね。あるいは自分の居場所にたどり着くか。どちらかね。」その声が僕をあざ笑うかのように聞こえた。
「いや、違うこれは何かの悪戯にちがいない」僕は、部屋の明かりを点けたり消したりしてみた。そして水道の蛇口から水が出てくるのを確認した。ガスも出てくる。しかし、電話だけはどうにも繋がらない。
「おかしすぎるじゃないか」僕は女性に向かって言った。部屋の中の色々なものはいままで 通りだというのに、外の景色だけが全然違う。
「可笑しくはないわよ。ここにあるように見えても、この部屋の中の方が虚構かも知れないもの、本当は宇宙の中を漂っているのが、正しいのかもしれないわよ」
「いや、じゃあなぜこの部屋の空気が抜けないんだ?」僕は、窓を開けた。この
部屋は明らかに暗黒の世界の中で無数の綺羅星と共に浮かんでいるとしか思えない景色だ
「その上、重力だってある」
「あら、ここだけにあるのかもよ」
「そんな」僕は、炬燵板の上に置いてあった湯のみにお湯を注ぐと、その中身を窓の
外に放った。それは、円弧を描いて落ちて 行く筈だった。
確かに途中まではそんな動きに見えた。しかし、どこかで多くの水滴は丸くまとまり
そして僕の部屋の明かりに照らされてきらきら光りながら僕の目の高さを守ったまま闇の中を遠くへ飛び去ってしまった。
「ほらね」女性は、からかうように言った
「今は、この部屋の中だけが貴方の世界なの」
「そして、貴女もだ」僕は女性に向かって言った
「いえいえ、もともと私は何処にも居られないもの、居られるとすればたぶん私自身の中かもしれないわ」まぁ、そんな所に立っていないで、ゆっくりしましょうと女性は促した。 もう、頭の中がおかしくなりそうだった
「あんたは一体なんだ?」
「さぁ、そんなの分からないわ」その僕を嘲笑するかのような言い方の為なのか、僕の中で何かの糸がはじけるようにして切れた
突然体が勝手に動き、女性の服の襟首をつかむと、前後に力任せにゆすった。女性は悲鳴をあげるでもなく布でできた人形のように僕になされるがまま首を前後にゆらしているだけだった。
「あんたはなんなんだ?このまま何処に行ってしまうんだ?」僕は、不安で半泣きになりながらゆすり続けた。 しかし、ゆらゆらと女性の頭はゆれるばかりで返事もしなければ、表情も変えることもなかった。
*
僕の手が止まったのは、唐突にお腹が鳴ったからだった。そういえばずっと食べていない気がした。何時からだろう?時計を見ればその針はじっと止まっていた。こんな時に、電池切れか、圏外のマークが出っ放しの携帯電話の時計もじっと見ていてもまるっきり数字が動くことがなかった。
まるで全てが止まってしまったかのようだ。僕はひとつおおきく息をすって吐いた。分かっているのは、ここはどこか分からないということ、そしてどうやら、今すぐは命の危険に差し迫らないということ、そしてなによりお腹が減るのは辛いということだ。
「何か食べる?」と僕が聞くと女性は頷いてみせた
「まぁ、こんな状況だからさ、それなりに切り詰めて食べないとだめだけど。今日だけは、ちゃんとしたものでも食べようか、生ものとか腐ると嫌だしね」
「お任せするわ」
「任せられても大したものが出せるわけでなし」冷蔵庫から大根と蕪を取り出して。大根は風呂吹きに、蕪には冷凍されていたひき肉を入れた餡をかけた。あとは、冷凍されていたバラ肉を解凍して塩コショーで焼いた程度だ。米だけは未だ十分にあった。
お腹が一杯になってしまえば、不思議と気持ちに余裕が出てきた。空腹でデパ地下に行けば、衝動的にあれもこれも買いたくなるが、腹いっぱいなら選ぶ余裕が出てくるのと同じようなものだろう
「ねぇ、行くあてが無いと分かっていてどうして家を探していたの?」
「さぁ、きっと自分を囲うものが欲しかったのかしらあんな寒い夜ですものね
私というものを入れる入れ物が欲しかったのかも知れない。でも、誰も私を入れてくれなかった。入れてくれても、私が居る場所はこれっぽちもなかった、欲望の相手をさせられるか、押し売りの優しさを買うだけ。」
欲望の相手と聞いて僕の中で、男にのしかかられた女性の姿を想像してしまった。可愛そうに、と思いつつも。その男に嫉妬している僕も感じた。
「でも、どうやらこの部屋が終点かもね」僕は、窓の向こうに見える星星を見た。この先はもう無い。
「いいえ、それは違う。」女性はかぶりをふった。
「ここから先に道は無いよ」
「それでも、この部屋は貴方のもので、私の場所じゃない」
「じゃあ、いっそ貴女の好きなようにすればいいよ。僕は、案外適応能力が高いからね、どんな部屋だって直ぐに慣れてみせるさ」
「そういう意味じゃない」と女性は言った。なにかいい香りが漂ってきた。女性の髪からだろうか、それが眠気をさそった。あるいは、単にお腹が一杯になって気が緩んだの
かもしれない。
「まぁいいや、眠くなってきたよ」と僕は口に出した。
「多分本当なら深夜だろうし、寝ようか」 女性は静かにうなずいた
「布団、一組しか無いからさ。あんたそれを使いなよ、俺、寝袋で寝るから」
「一緒でいいわよ」女性は、言った。
「気にしないから」
「いやいや、俺が気にする」と言って、いざ寝袋に入ったものの、なぜか酷く寒くて
眠れそうにない。
「いらっしゃい」と女性が布団の中から声をかけた。
「こっちは暖かいわよ」
僕は、その言葉に甘えて、そそくさを布団の中に入って頭までずっぽりと埋まった。冷えた体がじわりとあったまってきた。女性の匂いが鼻腔をくすぐる。耐える事のできない欲望が僕を走らせた。
*
きっとこれらの出来事は全て夢で、目が覚めたらきっとせんべい布団の中で独り寝の生活に戻っているのかも知れない。僕はそう願いながら、行為を終えて熱く火照った女性の体にしっかりと身を寄せた。暖かくて、とても暖かくて夢心地のような暖かさだった。覚めて欲しくないような暖かさ。
しかし目が覚めても、僕らの周りは星に覆われたままだった。身動きの取れない狭い世界に押し込められたままだった。ため息を付き、食事の為に冷蔵庫を開けると、そこには、既に食べ終えた筈の、大根や蕪や肉がそこにあった。前の食事の時に見落としたのだろうか? 僕は、大根でサラダを作り、蕪の中をくりぬいて詰め物をして蒸してみた。次の食事を作る時にはやはりそれらの食材は失われていた。やはり、まだ残っていたのだろうと思いながら、それを二人で沈黙を守ったまま食べた。何を語ればいいのだろう、僕は食器と咀嚼する音だけしかしない食事の時間は何か重苦しい空気に包まれていた。
窓の外を宇宙塵が転がるように通り過ぎて行った。
「どこに行くのだろうね」僕は、それを指しながら言った。
「さぁ…行くあてはないでしょうね」
「まるであんたのようだ」
「本当に…」
「玉ころがし遊びみたに転がっているなあ」
「何それ?」
「ん?土手とか山の斜面に小さい溝を掘ってさ蟻の巣の様に沢山の分岐を作ってね、上から玉を転がすんだ。すると、分岐であっちにいったりこっちにいったりしてね、落ちた所に当たりとかハズレとか書いておくんだ。」
「どこが面白いのかしら?」
「さぁね、僕は落ちてゆく先の事より転がる様を見ているのが面白かったけどね」ぽつぽつと、宇宙空間に何かを見つけては、僕は会話の糸口にした。
夜だか昼だか不明な時間の中で眠くなれば、女性と同衾した。起きてみれば、冷蔵庫の中は元に戻っていた。何故そんな事象が起きているのか、全く不明だし、きっと僕にはそれを突き止めることは出来ないだろう。ただ、食べるものに困るということは無さそうだった。缶もレトルトパックもフリーズドライ食品も食べても食べても、寝て起きると元に戻っていた。
あるいは本当に夢なのかもしれない、夢の中で長い、長い二人だけの生活を繰り返しているのかも知れない。
僕は、多くを語り、多くを訊き、そして星をながめ女性を抱いた。まるで夫婦のようだ。孤島で暮らす一組の夫婦だ。女性に名前は付けなかった。分からないままでも、どうせここには二人しかいない、独りごとでなければ、それは、話かけられたことを意味する。
しかし、活動範囲が狭い部屋の中だけだからイラついて喧嘩もよくした。そんな時は、枕や布団をよく投げあった、投げ合っている内に疲れると良い運動をした気分になって、落ち着いたものだった。
あるとき、目の前を大きな宇宙船が停留していた。惑星規模の宇宙船だ。
「ねぇあれを見てごらん」
「あら、まあ!」と女性は初めて驚いた顔をみせた。
「あれに、乗り込めないものかなぁ」 僕は、冷蔵庫に体を押し込めれば結構いけるの じゃないかなと無謀な考えをしていた。僕は、今の生活に飽きているのだ。命がけでもいいから外に出てみたかった。
「独りで行くの?」と女性は僕にいった
「いいや、君も一緒さ」
「それは出来ないわ」
「なんで?」
「そんなことをすればきっと子供が流れてしまう」
「子供だって!」そんなショッキングな単語は、僕の人生で生まれて初めてだった。
「そうか、できちゃったんだ…」
「ええ、私の子供」なぜか彼女は私たちのとは言わなかった。宇宙船は大きくて、僕らは暫くその傍をゆっくりと流れていたが、ちっとも宇宙船が遠ざかるように見えなかった二人とも、その宇宙船に乗り込めない代わりに、ただ想像をめぐらしてあの宇宙船に乗り込む術にはどんなものがあるかを語り楽しんだものだ。
女性のお腹が少しづつ大きくなってきた。それを見るたびに、僕は不安に暮れ、希望にときめいた。
「時々思うの」と床の中で女性は言った
「何を?」
「自分が自分で居たいとすれば、それは自分の中だけなのかしらって、誰がが傍に居れば、妥協したり、わざと反発したり、傷つけられたり、傷つけたり」
「あるいは、そうして人の心は成長するんだよ」僕は、彼女の髪の中に手を入れた、香辛料にも似た爽やかな香りがそこから漂ってくる
「そうやって変わってゆく私も私なのかしら」
「そうさ、そして変わっても僕は貴女が好きだ」僕は唇を女性の柔らかい頬に付けた、 なぜかその皮膚は冷たく感じた。
*
目が覚めると、窓の外の闇の中に白いものが蠢いていた。星星ではなく、雪がそこで舞っていた。-戻ってきた-僕は、そう思った。僕の世界にやっと、女性は白いコートを着て、窓辺に立ち静かに外を見ていた。
「出てゆくわ」と女性は、布団の中に居る僕に向かっていった。
「どうしたんだ」僕は寒い部屋の中で飛び起きた
「おい、やっと戻ってきたのに」
「行かないと」彼女は、踵を返すと音も立てずにドアに向かってあるいた。
「私の居場所は私の中にしかないの」意味不明な事を言って歩いてゆく僕は急いで服を着たが、彼女は既に外に出てしまった。傘を差して足跡を追った
雪の中、彼女は真っ白になった河川敷のグラウンドの真ん中に居た。
雪がしんしんと降りしきる中に居た。
孕んでいる筈の腹が膨らんでいない。
雪は彼女の黒髪に積もり、肩に積もり、靴の上に積もった
きらりと何かが光った。
深夜の河川敷の街灯に照らされて、細い弦のようなものが彼女の周りで舞っているのが見えた。きらきら、きらきら、輝く弦はくるくると彼女の周りを舞い、螺旋を描き、宙に高く飛び跳ねたかと思うと、流星の様に落ちて行く
糸の出場所を探すとそれは彼女の赤い口だった。
白銀の糸を彼女は吐き続けていた。
その糸は途切れる事なく吐き出され。
彼女の周りでロンドを踊り狂った。
そして糸が吐き出される度に彼女のコートの裾が短くなり、コートがすっかり
無くなると下着が消え靴下が、靴が、消えた。そして彼女自身が糸に覆われて見えなくなってきた。
やがて、ぽつんと大きな雪だるまみたいな繭が雪の中に取り残された。
僕は、傘を取り落とし。
グラウンドの中におりて。
そっとその繭に手を当てた。
冷たい、僕の手のひらの温度で溶けてしまいそうな、雪の糸。
僕はその繭にしがみつきながら泣いた。
泣いてもどうしようも無いと思いながらも泣いた。
泣きつかれた頃に雪は止み、東の空が東雲色に染まった。
やがて陽がゆるゆるとのぼり
子供たちが外に飛び出してきた。
子供たちは雪球を転がしていた。
そして僅かな時間の間に、たくさんの雪だるまがグラウンドにならんだ。
暖かな冬の日差しは、その雪だるま達を溶かし始めた
そして彼女の繭も、
「どこに行くんだい」僕は答えるはずの無い繭に聞いた
「ここに居る」繭が答えたような気がした。
部屋に戻ると、時計も携帯電話もしっかり動いていた。そして携帯電話に表示される
日付は彼女を拾ってからたった一日しか経っていなかった。
窓の外には、太陽が見える
しかし、そのとき僕が見たいのは闇に浮かぶ星星だった。