夢の行き先
青い寒空の下、行き交う人々の白い息がゆったりと上に昇って空中に消えてゆく。通路の両脇を固めた高いビルの屋上からも時折白い蒸気が立ち上っては大空に飲み込まれてゆく。ふと、あの捨てられた蒸気達はこの乾燥した空の下でいつかまとまり、雲になる日が来ることはあるのだろかと眺めながら歩いていた。
その、吐き出される息のひとつの中を、これまた白い小さい虫がふわりふわりと飛んでいた。いやまるで飛んでいると言うより人々のわずかな体温で発生した小さい上昇気流
に乗って浮いているように見える。
僕は、人ごみの中でふとその虫に気を取られて足を止めた。僕の古いデザインのダウンジャケットを流行の綺麗なダウンジャケットの生地が次々とこすっては前に進んで行く。
のろのろ歩いている小さな女の子が、あほの様に突っ立ている。僕の横に来た時に、僕の視線の先にあるものが気になったようで、同じように足を止めて宙に浮いているものを見つけた。
「あ、雪虫がいる」と小さい手袋の人差し指が宙を指した。
「あら、どこ?」と片方の手を引く母親が少女の指先にあるものを探した。しかし「あそこあそこ」と少女が言うものの、母親は結局見つけられなかったようだった。
僕は目を細めながら、ゆっくりと歩き出しその雪虫がふらふらと飛んで行くのを見ていた。それはやがて背を丸めて前を行く薄茶色のコート姿の若い男の肩に止まった。男はそれに気づく筈もなく、こつこつと灰色の路面の上に足音を残しながら僕の前を歩いていた。 やがて男の携帯電話が煩く鳴り響き、それを取った動作に反応するように雪虫はふわりとまた空に帰って行った。
携帯電話を手にした男は、相手が見えないのにもかかわらず、頭を何度も下げながらひたすら陳謝の言葉を並べていた、にもかかかわらず男は足を止めようとしない、きっと急いでいるのだろう。
異変は、それから間もなく起こった。男の肩からじわりじわりとなにかが全身に広がりだしたのである。何か降って来たのかなと空を仰いでも乾燥した冬の晴天のままだ、やがて男は足を止めた。その横を通りすぎる僕の耳には
「はい、これから伺います」と携帯を切った後で「畜生」と悪態を付く男の声が聞こえ、目には、その男の肩からじわじわと全身に広がって増殖する小さくて透明なアブラムシの群れが映った。思わず気持ち悪くなって、歩を急いだ。
その時僕の後ろから「何、無視してんだよ」と知っている声がした。
「え…?」と振り向くと箒乗りが、ぶ厚いセーターにGパンという見たことない程に普通な姿で立っていた。
「買い物に付き合えって言ってたのは誰だ」
「あ、本当に来てくれたんだ」僕は、嬉しさ半分驚き半分だった。
そういや、前日にお菓子を作る道具を買うのがこっぱすかしくって、女性の連れが欲しいって頼んだことを思い出した。まさか、本当に来てくれるとは思っていなかった。
「あん、有難うとは言えないのか、有難うと。遊びに行きたいのを我慢して、来てやったというのに」箒乗りは、僕の冷たい鼻先を摘まんでから踵を帰そうとしたので、あわてて僕は、引き止めた。
「有難う、本当に有難う」
「おし、許してやろう、その代わり後でちゃんと奢れよな」語尾にドスの利いた力が入っていた。そして僕と箒乗りが、わずかな言葉のやり取りをしている間にあの虫にたかられた男が僕達の前に出た。
「ね、あれ、なにか分かる」僕はそっと箒乗りに訊いた。
「夢虫じゃないかな」と箒乗りはそそくさと男の後ろにぴったりとついて気づかれないように小さいのを一匹指先にくっつけて僕の前に戻ってきた
「ほら、やっぱりそうだ」
見た目は、アブラムシそっくりだ。目の前に差し出されるとそのゴマ粒に似た姿に6本の足と、細い管の様な口吻が見えた。
「アブラムシみたいだね」と僕が言うと
「まぁ、似てはいるが全然違うよ」といいながら箒乗りは、それを指先でつぶした。するとなにかもやっとしたものが出てきて宙に溶けていった。
「夢を捨てようとすると、これがそれを吸いにくるんだ。そして、夢を吸い終わり成長すると多くの夢虫の中から一匹の雌が白い綺麗な綿状のものを纏いながら飛び去って行くのさ。それは小さくても夢の塊でね。だからさ、見つけるとなんとなく幸せな気分になるらしいな」
「そういうものかな?」と僕が頭を傾げているとそっと脇を夢虫が飛んでいった。
「なんか今日は良く見る気がする」
「今年の都会の冬は寒そうだからね、夢よりも現実を大事にしなければならない選択がそれだけ多いのさ、さぁこっちも、現実を見つめて、さっさと買い物を済まして居酒屋で熱燗に鍋にしような。こう寒くちゃ、敵わんよ」 箒乗りの白い息が僕の顔にかかった、人々も車も建物も皆白い息を青い空に放出している。その中を何匹もの夢虫が飛び交っては空に消えていった。