時間泥棒
22時・・・冬の静謐とした夜。窓の外では、真っ黒に塗りつけられた空気が凍てついている。聞こえる音は、時計の音、見えるのは、目の前を静かに落ちる埃、香るのは、夕餉の残り香、触れるのは、かすかに入ってくる隙間風。僕は何かを考えていた。
あるいは只、時間を見つめていたのかもしれない静かに、そしてさらに深い思考に潜るために、目を閉じて…
そこへいきなりパン!という音がした。あまりにも突然だったので心臓が止まるかと思った。目を開けるとお月さんが、僕の顔の前で掌を合わせていた
「な・・・なに!」僕は、目をまんまるにしたまま訊いた
「見てみな」とお月さんが掌を左右に離すと右手の上につぶれた虫がいた。その虫の体からなにか陽炎のようなものが湧いてすーっと消えていった。
「トコジラミに似ているけど」そんなのが繁殖するとは思えなかった。していたら今頃痒くてたまらないはずだし。と僕は考えた。どこからか持って来てしまったのだろうか、希にだけど、バックパックして旅をする人が安宿で持ってきてしまうケースもあるし、しかも、僕の周りにはこの世界どころか宇宙の次元を超えて闊歩しているような輩が居る始末だ・・・すると誰だろうか?
「いや、似て非なるものだね、トキジラミだよ」とお月さんは、つぶれたその虫をテッシュで拭って捨てた
「トキジラミ?」なんだ、その変な語呂合わせみたいな虫は
「そうさ、お前さんの時間を食っていたんだよなんなら時計を見てごらん」
壁に掛けてある時計を見ればいつ間にか、もう午前3時だった。
「ぼおーっとしているから、時間を食われてしまうのさ」
「ああ、まだ家事が終わってないのに」僕の台所のシンクには、汚れたお皿なんかが積まれていて、今日洗わないと、明日使う食器が無い状態だった。僕は、シンクの前に立って、食器の山を洗いはじめた。その横でしっかりとお月さんは、冷蔵庫から冷酒を取り出している。
「しかし、時間なんか食べていいことあるのかね、あの虫はさあ」僕は、グビグビと
飲み始めたお月さんに訊いた。
「ああ、時間を沢山集めて、一足先に春に行ってしまうのさ、あれは越冬できない虫なんだよ」
「僕もそうしたい・・・」僕は、食器を洗いながら言った。水が冷たい。
「無理なんだからさぁ、これからの季節はじっと我慢をしてな、人間は越冬出来ない代わりに忍耐があるだろ?」
「そんなのだけじゃ冬は越せないってば」僕は、冷たい水道水で真っ赤になった自分の手をみつめた。