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ある記憶への献花(8)

 俺は、一つの季節を、白い壁の中で過ごした。それが、脳の修復に要した時間だった。ハードワイヤーとソフトワイヤーをつなぐナノマシンさえ暴走し、命さえ危なかったようだ。いや本当ならそのまま完全な忘却の世界に踏み入れた方が当時の俺には幸せだっただろう。意識がありながらも自由にならない心と体に俺は嫌気がさしていたからだ。


 毎日医師や看護師が交替でやってきては、満足に動けない俺に奇妙な注射をしたり、カテーテルを俺の体の奥に沈めたりしていた。彼らの名前も顔も覚える気もなく俺はただなされるがままにされていた。


 ある晴れた日にリハビリを兼ねて車椅子で運ばれ外に出されたとき俺は花壇の前で唐突にあふれる涙を止める事ができなくなった。小さい花壇は、春の花であふれかえっていた。なんで涙が出るのかは分からなかった。感情が暴走したかのように、寂しさと嬉しさが溢れでていた。 思い出す名前はマリアとオフィーリア…しかしその名前を持つ顔は思い出せない。ひとりは宇宙に行き、ひとりは忘却の河の向こうに行ってしまった。そういう記憶だけはあった。

 そんな俺の手を小さい手が握った。暖かい手だ。

「どうしたの?」と子供の声が下から聞こえた。

「分からないよ、あまりに綺麗で涙がでるんだ」俺は、子供の顔に視線を合わせた。

見れば頭を包帯でぐるぐる巻きにされた女の子だった。痛々しそうな姿なのにそんな事を気にする様でもなかった。

「この花、ナオミが種を植えたんだよ」子供が自慢そうに言う。その子が俺を誘導して花の前につれてくると、ひとつひとつ花の名前を俺に教えた。

「一杯知っているんだね」俺は、感心しながらも子供の声が脳の中を素通りしてるのを

感じた。そこに花がある、ただそれだけのことで俺の頭の中が一杯だった。

「ナオミはお花の名前を覚えるのが好きなんだよ」少女は、自慢げに言った。

「おじさんにもっと教えてあげようか!」



 そんな縁で、俺は時折その少女と散歩をするようになった。こんな小さな子供の頭に中にどれほど多くの知識があるのだろうと思われるくらいに彼女は木や花や鳥の名前を知っていた。しかし、俺は、何時もそんな名前を覚えられずにいた。きっと思いが何時も遠くにあったからだろう…はるか空の彼方、そして生の彼方に



 「直美ちゃんの彼氏ってあなたなの?」と一人の看護師が俺に病室に来て訊いた

 「直美ちゃんって?」俺は、そんな名前には覚えが無かった

 「何時も散歩をしている女の子よ、いやだ名前も知らなかったの?」

 「そうか、確かにそういってたっけ。人の名を訊く癖が無いんだ、本名は危ないからね。向こうが言えばこっちも言うしかない」

 「そういう噂もあるわね」

 「噂じゃない」

 「ふーん、ちなみに私はこういう者ですけどやっぱり危ない?」看護師は名札を俺に良く見えるように持った。ナノ外科 桜庭 順子…か…

 「わからん」

 「私たちは、決して匿名でなんかで働かないわ常にこの名前に責任と信頼が付いて回るのだもの、それがここでの人の人との関係だし」

 「俺には、需要と供給が最強の人の関係と思うけどね」

 「それが、裏切られたからここに居るのよ貴方はね。」 おれは、返す言葉が無かった。価値観の問題は常に溝だらけだ。論じて埋まるなら戦争だって起きやしない

 「それで、直子ちゃんがどうしたって?」

 「直美ちゃんよ」と看護師は訂正した。顔がやや怒り気味だ。

 「わかった、で、何の用だ?」

 「あの子、長くないの」看護師は悲しそうに言った

 「嘘だろ?あんな子供なのに?」

 「そう、小児がんでね。ナノマシンで癌を駆除しているのだけど、追いつかないの・・・抗がん剤も使った、脳の腫瘍は手術で切除もした…沢山の辛い治療を全部あの子は耐えてきたのに、私たちの手ではもう限界なの…」

 「あんなに元気じゃないか」

 「元気というか、安静にしていないといけないのに、病室を抜け出してしまうのよ」

 「俺に何を求めるんだ?」

 「貴方はまもなく退院できるのよ、だけど時々でいい、彼女にお見舞いに来てあげて欲しいの。それだけを言いにきたの。あの子、貴方が好きみたいなのよね」

 知るか、そんなこと。病気を治す役目のやつらが匙を投げたものを俺がどうやって

救えるっていうんだ。俺は考えて置くとだけ返事をした。



 退院後家に戻ると、中は冷たく暗くひっそりとしていた。デッキが埃をかぶっている。焦げたコネクタが付いたインタフェースケーブルが未だ床に落ちていた。俺はそれから目をそらして押入れの奥に放り込んだ。

 世界の入り口が閉ざされたのは分かっている。たった独りで部屋の居るのが辛くなって、俺は新宿に出た。喧騒の中に埋まってしまえば、寂しさを忘れられる気がしたからだ

 しかし、結果は最悪な気分になっただけだった。俺の事務所は無くなって、怪しげな居酒屋に変わっていた。この街でも身の置き処が無くなってしまったのを思い知った。



 俺は、週に1度は病院に顔を出し、少女と病院の周りにある花壇と樹木と池を回った。奇妙な事に俺はその時間が好きになっていた。独りでないことに安らぎを感じたのかもしれない。しかし、8度目の見舞いの時には彼女はもう居なかった。花壇には、夏の花がこれからもっと大きくなろうと勢い良く葉を茂らせえていた。

 しかし、その花の名を教えてくれる人は何処にもいない。呆然としている俺の傍を

一人の老人が看護師に押されて車椅子で通り過ぎようとしていた。俺の目と老人の目がふとあった。

 「お前何者だ、俺様に挨拶もないのか俺様は、ヴォルフ様だぞ!」老人が大きな声で

叫びそれから咳き込んだ。

 「あらら、遠山さん。駄目でしょ、大きな声を出すとまた先生に怒られるわよ」

看護師は老人に優しく話しかけ、俺にはすまなそうな目つきを返した。

 ヴォルフ?どこかで聞いた名前の様な気がしたがそれが誰だか思い出せなかった。


 いや、もうそんな事はどうでもいい、季節がやがて解決してくれるだろう。おれは、その後も病院を時折訪れた。花壇に季節の花を植えるためだった。

「世界を花で埋めてみたいの」誰かの声が、頭の中でせがんでいた。でもな、世界は無理だよ。せめてこの花壇の世界で我慢してくれよ。


**


 夢から覚めてみれば、壜は冷たく僕の横に転がりその壜の口からは、酒の匂いが漂っているだけだった。僕の手は綺麗なままだ、しかし確かに後ろ首には目立たないが使えないインタフェースが遺されている。


 夜、人ごみだらけの新宿に出てもあの店は見つからない、そもそも、あの夢が真実なのかさえも分からない 寒さに冷え切った手を暖めるために両手を揉みながら、乾燥しきった夜空を見あげると、この街で空を見る者が居ないと思っているのか箒乗りが、のんびりと空中を散歩していた。

 そしてそのはるか向こうには、オリオンが高く上っていた。その周りにはこの街では見える事のない暗い星星がもっと多く空を覆っている筈だ。その星のどれかに、マリアは向かっているのだろうか僕の半身を乗せて。



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